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相場必勝法  作者: jh
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ゆっくりと、そして突然に 母と娘の話4

「香織」リビングのソファでうとうとしていたら、カウンターキッチンの向こうから母の声がした。「午前中デパートで鯛を一尾買ってきたの、捌き方教えましょうか?」

「うん」私は気のない返事をした。

「一人だと食べきれないのよ、やらないといろいろなことができなくなっちゃうの、嫌なものよ、…鯛の一尾も料れなくなったら恥ずかしいわ」

 料る、という言葉を久々に耳にした。この言葉を母以外の人が使うのを聞いたことがない。私の年の頃にはもう使っていたのだろう。母には似合う言葉だけど、私には使えない。

「上の空ね、いいのよ、香織の好きにして」そう言ったときに母は既に包丁の背で鯛の鱗を剥がしていた。「あら汁作りたいから始めるわ」

 そうだ、時に脱線し、時に順番が前後する母のとりとめのない話を頭の中で時系列に整理していたら、寝てしまったのだ。

 この程度の情報を引き出すのに2時間以上も要してしまった。私は仕事をやっていけるのだろうか、…不安になる。

 話はこうだ。

 父が亡くなり、まとまったお金を手にした母の脳内には「資産運用」という言葉浮かんだ。そこでまず思い出したのが2014年の私の一度きりの成功体験。FXの始まりはそこから。

 FXの本を一冊買って、半年ほど練習のつもりでいろいろなやり方を試してみたが、さっぱり儲からない。ちょうどその頃週末にお揃いのTシャツで多摩川沿いを走っているランナーの集団を見かけた。老若男女入り混じり、お喋りをしながら走っている彼らに、母は声をかけた。「何キロ走れるようになったらお仲間に入れてもらえますか?」

「5キロ走れるようになったら歓迎します」と言われ、母はすぐその気になり、翌日シューズとウェアを買ってダメもとでチャレンジしたところ、5キロ走れてしまった。次の週末、晴れてランニングチームのメンバーとなった母が、会話の中でFXをやっていることを漏らしたところ、食いついてきたのがAさんというおじさん。「タケコプター・ベン以外もそのような輩が何人登場するの?」問いただしたところ、「残るはBさんだけ」と母は答えた。「タケコプター・ベンはちゃんと名前で呼ぶのに、なぜその二人はAさんとBさんなの?」と訊くと、「どうでもいい人たちだからよ」と答えが返ってくる。一応年齢の割には綺麗な未亡人だから、おじさんたちが放っておかないわけか…、失恋の痛手に落ち込んでいる私にはグサグサくるエピソードをしらあっと話してくれるところがイラっときた。いい感じだ、質問をしてよかった

 練習会に参加し始めてすぐに、母はメンバーの数人を家に招待した。母のお目当てはAさんだったが、さすがに一人を呼ぶわけにはいかず、五人ほどまとめてお誘いをした。食器をを新たに買ったのはそのためだった。

「Aさんには何の感情もないわよ、やってほしかったのはただ一つ、MT4で自動売買のセッティングをして欲しかったのよ」

母の口からまたわけのわからない言葉が出てきた。MT4?,自動売買?

どうやらMT4というのは取引をするプラットフォームの名前で、そこで自動売買のプログラムを走らせると、24時間機械が取引をしてくれる。Aさんは自分で自動売買のプログラムを開発し、ネットで3万円で販売している。その3万円のプログラムを母には無料で使わせてくれただけでなく、自動売買で24時間パソコンを走らせるために必要な仮想サーバの契約をして、母のPCの上ですべてのセッティングをしてくれたらしい。

ところが、母はわずか1か月で自動売買をやめてしまった。理由は成績が悪いからではなく、つまらないからだ。セッティングをしてもらったその日、母は5時間ほどパソコンの画面をじっと見つめていたらしいが、自動売買は一度も取引をしてくれない。Aさんに問い合わせたところ、「週に1度くらいしかトレードしないこともある」と言われ、見るのをやめた。1か月動かしたところ結局4回しか取引をしなかった。成績はなんと全勝だったらしいが、それでもあまりのつまらなさに母は翌月から自動売買ソフトを止めてしまった。今ではもうMT4の使い方も覚えていない。Aさんにやめたことを正直に伝えたところ、実はAさんもまったく同意見だった、「自動売買は成績がいいが取引頻度が少なくてつまらない。勘でやる方が楽しいけど、そちらは全然儲からない」Aさんはそう白状した。私にはAさんが本気で相場で儲ける気があるとはとても思えない。

 自動売買をやめた母はまたやり方を模索する。当時の母の曼荼羅は、「損切りは早く、利食いは遅く」という元プロの為替ディーラーの言葉らしい。なぜその言葉が響いたかと言えば「語呂が良かった」かららしい。「語呂が良くて耳に心地よい言葉って、たいてい中身はないものなのよ」母はもらした。そこは私も同意見だが、母はもともとそんな含蓄のある言葉を口にするような人ではなかった。相場を張るのは、他に趣味のない人が競馬をする程度にはいいことなのだろうか。

次に母の網にかかったのはBさんだった。一千万円を失った原因はBさんにあった。もちろん騙されたわけではない。Bさんのやり方の真似をして、母が損をしたというだけのこと。Bさんの方はもっと大きく負けたらしい。一千万という金額に関して、母は訂正をした。「確かに一千万円飛ばしちゃったけど、そのお金にはそれまでの利益の金額も含まれているのよ。五百万くらいは儲かっていたのよ。だから元の金額から失った金額はせいぜい五百万よ」そして最初に五百万円儲けられたのもBさんの真似をしたからだ。

「ウタさん」母は奇妙な低い声を出した。どうやらBさんの物まねらしいが、Bさんを知らないから似ているのかどうかはさっぱりわからない

「私ねえ」母は地声に戻して続けた。「ハンドルネーム、ウタにしたのよ。和歌子の歌よ。ワカにしようかと思ったのだけど、おばさんなのにワカっていうのも恥ずかしいじゃない」そしてまた物まねに戻った。「相場には必勝法があるんですよ、すごく単純なことなのに、みなさんこれに気づかないから負けるんです。私なんて相場で負ける方が難しいと思ってますから。ウタさん、損切りしますよね。それがダメなんです。アゲンストに行っても損切らずに待っていればいいんです。ちゃんと戻ってきますよ。損切り禁止、これが相場必勝法です」

 「損切りは早く、利食いは遅く」を信じていた母にとってこの言葉は目から鱗だった。その日からは母は「損切り禁止」に宗旨替えをして面白いように儲かったらしい。それはそうでしょう、良いポジションだけ利益を確定し、悪いポジションには目を瞑っているのだから。

そうやって利益が少しずつ増える一方で、一向に利食えないアゲンストのポジションの数だけは確実に増え続け、評価損がゆっくりと膨らみ、ある日突然相場が急変して強制ロスカットを食らったらしい。ゆっくりと、そして突然に。

 損切り禁止を母に教えたBさんは、憔悴の中気力を振り絞って、母に償うつもりで同じランニング仲間のタケコプター・ベンを練習会に引っ張り出し、その後二度と姿を見せないらしい。神はその日に死んだのか、あるいは神はもともと不在だったのか、母が宗旨替えをしたその相手、タケコプター・ベンは練習会に顔を出すとみんなが驚くくらいのレアキャラらしいが、母のために現れたとは…。ビジュアルがおかしなオッサンとはいえ、ここもイラっとする良いポイントだ。

「そんなに損をしたのだから辞めれば?」私が訊くと「負けたままって悔しいじゃない」という答えが返ってきた。

そう、そこは変わらない。

母の手紙を読んだときに、的外れな懺悔だと感じたのも、結局母が言語化したのは「自分の気持ちを優先してきた」という自己分析でしかなかったからだ。判断基準は自分の気が済むか済まないか、それだけ。客観的で冷静な判断など母の頭の中には存在しない。

「香織の言う通りね、相場はわかる時だけやればいいっていろいろなところに書いてあるの。FXで損をする大きな理由はわかる時に儲けるお金よりわからない時に損をするお金の方が大きいからですって。でも、ある程度経験をつまないと、わかる時って言うのがわかるようにはならないらしいわ」

 母が口にしたこの言葉は殊勝な言葉なのか?、 それとも決意宣言なのか?、 そもそも私は母を説得したいと思っているのか?、母と話していたら、何もかもがよくわからなくなってきた。


「ねえ、香織」また母から声がかかった。「他の相場必勝法ってないの?」

「私は知らないよ。もしあればみんなやっているはずだから、お母さんが知らないなら、そんなものはないと思うよ」

「つまらないこと言うわね、香織にお金出すのだから、少しはお母さんのために考えてよ」

「考えても同じだよ。お母さんこそ、考えもなくやっているのならやめた方がいいんじゃないの?」

「娘の博打に寛大な母親に言う言葉かしら?、そんなつまらないこと言うなんて、あなたの方が母親みたいだわ」

 こんな人が娘だったら、私は嫌だよ、そう言いかけて私は口をつぐんだ。


外の空気に触れようと、夕食の準備を母に任せて、私は一人で家を出た。大阪より暮れるのは早いけど、六時過ぎなら十分に明るい。第一京浜まで歩き、六郷橋の真ん中で多摩川を見下ろした。東京川の河川敷をランナーが次々と走る、母もあんなことをしているとは、なかなかやるなあ。

もし、私を振った男との間に子供ができていたら、一人で育てたいと思っただろうか?、…絶対ないなあ、でも実際にそうなっていたら…、いやあ、ないない、私は母と違う。シングルマザーなんて予感したことさえない。

母は私を選んでくれた、その母の愛を屈折して受け止めて私はエネルギーに変えている、これも母の望み通りなのだろうか。

「つまらないことを言うなんて、あなたの方が母親みたい」

あの最後の言葉はいったい何なのだろう。母親というのはつまらないことを言うのが役割なのか?…、私をわざとイラつかせようとしているのか…、私の考えがつまらないという母親としての愛に満ちた指摘なのか?、私もきっと答えを探そうとはしていない。

突然思い出した。

「一人っ子でしょう?」と今まで何度も言われた。「そうだよ」と答えると「やっぱり」と返ってくる。相当わかりやすいらしい。なぜわかるのか友人に聞いたことがある。「よく言えばまっすぐ、悪く言えば独善的、一つの角度からしかものを見ない」それが答えだった。つまり欠点を指摘されていたのだ。弟か妹がいたらもう少し利口になれたかもしれないが。失敗だったのは、母のことを「得体の知れない」の一言で片づけて、思考停止したこと。そのことに、今気がついた。男女の機微がわからないのもそのせいか。

もっと母の近くにいれば…。

社長には数日ゆっくりするように言われた。あと数日母のもとにいようか…、次に会うのはいつになるかもわからない。

西の空の赤い色が強くなる。そのせいで、私の感傷的はだらだらと引き延ばされている。

柄にもない。

 これだけ話をしたらもう十分。母も私もお互いの用事はすでに終わった。明日はきっと大阪に帰りたくなるだろう。


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