ゆっくりと、そして突然に 母と娘の話 3
品川で新幹線を降り、長い連絡通路を歩いて東海道線に乗り換えた。下り電車は空いていたが、一駅なので座らずに外を見ていた。多摩川と広い河川敷が見える。ああ、帰ってきた、という感慨が湧いてきた。
川崎駅に着き、キャリーケースを引きずりながら、母に連絡を入れた。マンションのエレベーターに乗って、玄関の鍵を開けた。母が立って待っていた。
「お帰り、香織」母は笑顔で私を抱きしめた。
「ただいま、お母さん」私は母のなすがままにされた。
「よく帰ってきたわね」母はハグをやめて私の両方の肩に両手を乗せて私の顔を正面から見た。
「お母さん、怒ってるかと思った…」
「どうして?」
「だって、…私のベッド処分したって言ったから…」
「ああ、そのこと?…、そういう風に思ったんだ…」
「おかしい?」
「香織に怒るわけないじゃない…」ふふふと吹き出して母は言葉を継いだ。「娘にこんなに長い間放っておかれたのよ、その間に好きな人ができて一緒に住んでるなんて思わなかった?」
「そうなの?」私はのけぞって声のトーンを上げた。
「まさか、…それより手を洗ってうがいしてらっしゃい」母は踵を返すようにリビングに向かった。私は少しカチンときた。二股に気づかなかった愚鈍さを指摘されたようだ。おかげで母と同じ空間にいる実感がわいた。いい感じだ。
リビングは私の知っているリビングと同じだけど、雰囲気が変わっていた。以前のようにモノがあふれていない。スペースが多く整然としている。カウンターキッチンの上や壁の棚の上にこれでもかというくらいに立ててあった私の写真と家族の写真は、一枚ずつあるだけ。リビングを一通り見回して、次に気になったのは私の部屋。ドアが閉まっている。
「入っていい?」私は母の答えを聞く前にドアを開けた。フロアの上にはベッドのかわりにヨガマット。机は私の知らない、オフィスにあるような真っ白な横長の広い机。その上に私が仕事で使っているよりもかなり大画面のモニターが2台、キーボードも2台、その脇にはノートPCが一台。
「何これ?」
「トレーディングルームよ」
「トレーディングルーム?」私は母の言うことが理解できないままオウム返しに言葉を返す。
「そう、FXをトレードをしてるのよ、香織が帰ってくるのを楽しみにしてたのよ、相場必勝法教えてもらおうと思って」
「何の話?」
「香織、大学生の頃FXでお小遣い稼いだことあるでしょう?」
「ああ…そういえば…」そんなことすっかり忘れていた。
「あのやり方を教えてほしいのよ、…私、結構高い授業料払っちゃったから」
「いくら損したの?」
「一千万くらいかしら?」
「ちょっと待ってよ、お母さん、もうやめた方がいいんじゃないの?」
「まあ、それより、香織の話を先に聞きましょう。お茶淹れるわよ。」
そうきたか…。まあ、二年間一度も帰らなかった娘が突然帰ると言い出したら、結婚か妊娠か、お金の話くらいしかないだろう、結婚や妊娠の可能性は私の鈍さを確認した時点で消えていた。残るはお金の話しかない。私が先にお金の借りを作ったら、私は母のお金の遣い方をどうこういうのは難しくなる。父が亡くなったおかげで、このマンションとかなり大きなお金が手に入ったとは思うが、一生生きていくためには母だって大事に使う必要がある。一千万損したなんてさらりと言われるとは驚きだ。
「ちょっといつまで突っ立ているのよ、こっちいらっしゃいよ」
テーブルの上には見たことのない花柄のティーカップ。お皿の上には私の好きなプリンシューが乗っていた。
「この食器、最近買ったの?」
「わかる?、時々人が集まるのよ、この家」
母の友達が何度かこの家に来た記憶はあるが、来客はきまって一人。集まったことなどない。
「どんな人が来るの?」
「ランニング仲間よ」
「お母さん、ランニング始めたの?」
「もう一年よ、来年はフルマラソンデビューする予定」
「ええ!」
「そんなに驚くことじゃないわよ、この年齢から始める人結構多いのよ、香織も運動くらいしてるの?」
「ジムに行こうかなあ、っていつも思ってるんだけど」
「お金なんてかけることないわ、走るのはただよ、頭もスッキリするわよ、この前多摩川沿いを羽田空港まで走ったの、富士山がすごく大きく見えるのよ」
「あんなところまで走ったの?」
「走ったらすぐよ、せいぜい7,8キロくらい」
「無理無理、私そんなの絶対に無理」
「別にやれなんて言ってないわよ、…それで、話があるんでしょう?」
「うん」完全に主導権を握られてしまった。「…あのね、お母さん…、お金を貸して…、いや、お金を出してほしいんだけど?」
「いくら?」
「とりあえず五百万ほど」
「いいわよ」
「ちょっと待ってよ、お母さん?、何に使うか聞かないの?」
「だって必要なんでしょう?」
「まあそうだけど、…ねえ、お母さん、五百万円って大金だよ、金銭感覚おかしくなってない?」
「大丈夫よ、私バイトしているから」
「どこで?」
「コンビニよ」
「ええ!」何度娘をのけぞらせれば気が済むのか、この母親は…。「働いたことないお母さんがコンビニでバイトなんかしてるの?」
「バイトなんかってなによ?」
「いや、そんなつもりじゃないけど…」日本には100万ドルの金融資産を持つミリオネアが300万人いるらしいが、母もその一人だろう。コンビニでバイトしているおばさんの中にも資産家は普通にいる…、日本は恐ろしい国だ。
「たいしたお金にはならないけど安定収入があるっていうのは安心よね。修平さんには感謝ね。ずっと毎月給料を持ってきてくれて、亡くなった後も私は食べていけるし、娘のやりたいことにお金を出してあげられる。」
「ねえ、お母さん、もう一度言うけど、300万って大金だし、私は自信があるからこうしてお母さんにお願いに来てる、でも、もしかしたら失敗するかもしれないよ」
「まあ、それもいいじゃない、だいたい香織は今まで順風満帆だったじゃないの、挫折するのは若いうちがいいのよ、どうぞどうぞ、失敗してくださいな、300万すってみなさいよ」母はこともなげに言う。そして返事をしない私の顔を覗き込んだ「…どうしたの、キョトンとして?」
「あ…、ああ、なんでもない」
ああ、そういうことか、この手の母の言葉は反撥も感じずにすっと入ってくる。容姿とか男女の機微とか、私の弱点はそのあたりか…。
「でも、お母さん、一応話しておくよ、何に必要なお金か、…実はね、私が入った頃から始めた画像ファイルのサブスクリプションが今すごく伸びているの。ベトナム人の優秀なエンジニアを雇って最新の機械を買って、会社を大きくするのは今がチャンスだというのが社長の判断なの。借金はしたくない。増資するつもりだから、お金出せるなら出資して株主になってくれないかって言われた。私も今やるべきだと思うの」
「わかったけどわからないわ」
「え?」
「香織がそうしたい気持ちはよくわかったわ、だから好きにしてよ、ただ、お話の中身の方は難しくてわからない、私には理解できないの、…そんなことより香織、相場必勝法教えてよ」
「ちょっと待ってよ、お母さん」私は母の話を遮った。「何で私が相場必勝法なんて知ってるの?、…そもそもお母さんはいつからFXなんてやってるの?」
「私の話はいいって言ってるでしょう?、香織の話聞かせてよ、楽しみにしていたのよ、大学生の頃ちゃんと儲けていたじゃない?、そうそう、香織が今の会社に行くって言ったとき、修平さん喜んでいたわよ、FXでお金稼いだ話思い出して、あの時にちゃんと稼げた香織はビジネスの才能があるから大丈夫だって褒めてたの」
「だってあれ、確か…2014年の話でしょう?」
「もうそんなに経つかしら?」
「だから…あれは特別なの」
「まぐれってこと?」
「その反対、誰でも稼げるチャンスだったってこと。もっと正確に言ったら、大学の先生の意見を信じてそれを実行に移したっていうただそれだけ。あの時の日銀は世界でも例を見ない金融緩和をやって、しかも行き過ぎた円高の修正局面だったの。だから放っておいても円安になると先生が授業で力説して、私はなるほどなあ、と納得して口座作ってドルを買った。あとは先生の主張した通りドルが上がり円安になった。私にはただ行動力があっただけよ。行動力さえあればあの時は誰も儲けられたの。今思えばね」
「その後はもう全然やってないの?」
「やってないよ、だってどっちに動くかなんてわからないよ」
「わかったからやったってこと?」
「そうだよ、お母さん今の相場がこれからどっちに動くかわかってるの?」
「わかるわけないじゃない、だって相場はわからないものだってみんな言うもの」
「だから必勝法なんてないんだよ」
「その話は今は置いておきましょう」母は両手を広げ、声のトーンを落として私を遮った。「2時45分からYouTubeでタケコプター・ベンのライブ配信見なくちゃいけないの。バイトがない日は日課なのよ」
「何、タケコプター・ベンって?」
「知らない?」
「知らない」
「まあ、そうよね、…YouTubeで自分のFXのトレードの実況しているのよ。それもすごいのよ、スキャルピングのやり方リアルタイムで教えてくれるの」
「何スキャルピングって?」
「短期売買のことよ、上がりそうだと思ったら買って、下がりそうだと思ったら売るの、ヘリコプター・ベンは上手なのよ、目の前でちゃんと儲けてくれるの」
「どのくらい儲けるの?」
「1銭とか?」
「え、たったの1銭?」
「そう言うけどね、この人それを多いときは一日に100回もするらしいのよ。しかもね、電光石火の早業なの。買ったと思ったらすぐに売って売ったと思ったらすぐに買うの。1000万円の資金が1日で100万円も増えたりするのよ」
「え!」
「一瞬会社で仕事するのがバカバカしいと思わなかった?」
「いや、そんなのできるのかなって…」
「香織、鋭いわね、そうなのよ、タケコプター・ベンがやっているのを見ているとすごく簡単に思えるの、でも実際にやってみると簡単じゃないのよ、これが、…これも才能なのかしらね、私にはこれ無理かなあって気もするの、だから香織の必勝法を聞きたかったの」
「だいたいタケコプター・ベンってどういう名前?」
「ヘリコプター・ベンはわかる」
「誰?」
「あらあ、知らないのね、リーマン・ショックの時のFRB議長のベン・バーナンキさんのことよ、景気をよくするためにはヘリコプターからお金をばらまけばいいって仰ってヘリコプター・ベンって呼ばれていたの」
「お母さん、よく勉強したね?、しかもさんづけするとかえって知り合いみたいに聞こえるけど…」
「楽しいじゃない、知識が増えるの?」
「じゃあタケコプター・ベンはヘリコプター・ベンの真似?」
「一応似ているってことになっているわ、登戸の藤子不二雄ミュージアムで買ったタケコプターのついたヘアバンドを頭に乗せてYouTubeに出ているの」
ベン・バーナンキ、名前くらいは聞いたことがある。スマホで検索すると画像が出てくる。スキンヘッドに髭、優しそうな眼もと、とても頭の切れそうな顔をしている。
「正確には藤子・F・不二雄ミュージアムでしょ?、そんな情報までよく知ってるね?」
「だって本人が教えてくれたから」
「え?、知り合いなの、お母さん?」
「ランニング仲間なのよ」
「え!」一瞬驚いたが、腑に落ちた。母は昔からそういうところがある。花の講習に出かけると言いながらよくわからないサプリを大量に買い込ん帰ってきたり、今回もランニングをしてわけのわからないユーチューバーを釣りあげきた。海老で鯛を釣るならまだしも、何の道具も持たずに釣りに行き、ニコッと笑っただけで道具を貸してもらって、長靴を釣りあげて喜んで帰ってくるような、油断のならない女だ、
「そろそろ始まるわよ。東証が3時に閉まるでしょう。その時間は為替も動きが出ることあるし、ロンドン勢も入ってくるの。今日はうまくとれるかしら。」
母は大画面のモニターを二台ともスイッチを入れた。右側にはドル円のチャート。左側にはYouTubeの画面。センスの悪い音楽がかかりタケコプター・ベンのスキャルピング・セミナーというチープなタイトルが出現。母はフルスクリーンに変更する。そしてタケコプター・ベンの登場…、どこがベン・バーナンキ…?
「ただのスキンヘッドのおっさんや!」私は大声を上げてしまった。
「なに、香織、向こうでは大阪弁喋ってるの?」
「いや、…つっこむにはこっちの方がいいかなと思って、…お母さん、この人全然似てないよ、ベン・バーナンキに」
「まあ、自称だから」
「いやいや、誰かが言ってあげないと…、しかもこの黒いヘアバンドはおかしいよ、黒い髪の毛がある人がつけたら髪の毛の色と一緒になって遠目にはタケコプターに見えるよ、でもこれじゃあ頭に海苔のっけてその上にタケコプターくっつけたようにしか見えないよ、ビジュアルが変だよ」
「まあ、いいじゃない、FXのユーチューバーたくさんいるのよ、競争激しいから見た目のインパクトはとても大事なの、凡庸なのはだめよ」
「まさか、お母さん、ランニング仲間ってこんな人を家に上げてるの?」
「この人は上げないわよ、…前に違う人が来てくれたけど、その人の相場必勝法はうまく行かなかったの」
「え?」
「これから真剣勝負の時間だから静かにしていて」椅子に座ったまま、母は横に立っていた私の顔を諭すように睨んだ。「終わったら話すから」
「…この時間帯はいつものように株価のトレンドに乗りましょう」タケコプター・ベンの活舌は悪くない。YouTube上では彼の姿がパソコンの画面に切り替わる。母が見ているチャートとまったく同じチャートが表示される。右手にマウスを握りしめた母の表情は真剣そのものだと思うが、あのたれ目のせいでまったく緊張感に欠ける。現実というより、コントを見せられている気分になる。
「今日の日経は引けにかけて上がりそうですね。この時間は買いから入りましょう。…準備はいいですか?、…下がったところを拾いますよ…、集中しましょう…」そしてしばらくの沈黙。チャートは1分足、動きはほぼ横ばい、でもプライスを示す数字だけはちかちか動いている。私は両方の掌を机に乗せて画面と母を交互に見ている。
「はい、買い」タケコプター・ベンが叫ぶ。
「あッ」一瞬遅れてクリックした母が声を出す。
「はい、売り」またベンが叫ぶ。買ってから10秒も経っていない。
「あっ」また一瞬遅れた母の声が出る「ああ、ダメだった…。見てよ、彼は1.2銭利益出てるのよ、私は0.2銭だけ。難しいわ、次は取らないとね」母は画面から眼を離さない。私に話しているというより、ほとんど自分に言い書かせている。「香織、いつもはいない場所に人がいると気が散るから後ろに下がっていてくれる?」
「はい、はい」私は後ろに下がり、壁に寄りかかって腕組みをしたまま母の後ろ姿をぼうっと眺め、そして思った、確かに二年もあれば人間は変わる。