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相場必勝法  作者: jh
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ゆっくりと、そして突然に  母と娘の話 1



謎というのは、謎のままだからこそ価値がある。種明かしをされるのは、ある意味世界の終わりだ。

 たぶん私は母への反撥をエネルギーに、やりたいことをやって二十数年生きてきたのだ。反撥の根源は母の得体の知れなさ、それこそが私にとっての謎だった。

父の死後、得体の知れなさの種明かしと言うべき長い手紙が母から届いた。私はその手紙を「的外れな懺悔」だと思い込み、「母の涙にほだされるな」と自分に言い聞かせた。父の死はあまりにも突然で、反撥しなければ正気が保てないような気がした。あれからもうすぐ二年、実家に帰り母と顔を合わせるのは、今日が初めて。

今、私は人生で最初の大博打に出ようとしている。そのために、母に頼りたいものが二つある。お金とエネルギーだ。

「精神が弱っているときは、決断をしたり、新しいことを始めてはいけないよ」

そんな素敵なアドバイスをくれた男のおかげで、決断しなければいけないにもかかわらず、私は失恋の痛手から立ち直れずにいる。彼となら仕事でも私生活でも最高のパートナーになれるのではないか、そんな期待は予兆さえないまま脆く崩れた。私の前で起業の計画をあれほど熱く語り、私も彼のためにすべてを投げ出す覚悟をしたつもりでいたのに、彼が選んだのはどう見てもかわいいだけの、しかもよりによって、たれ目の女だった。殊勝にも「彼女は見た目だけではなく中身も素晴らしい」と思い込もうと努力したが、できないことはできない。とにかく、自分が情けない。二股に気づかなかった自分への怒りも湧きあがる。でもその怒りが持続できない。それがまた私を落ち込ませる。

「AとBという一見両立しない二つの選択肢があるとき、その両方を取る方法を一生懸命考える、それがリスクヘッジというものだよ」

そんな彼の言葉を仕事の戦略の話だと信じて、私はふむふむと納得して聞いていたが、まさか二股を引き合いにしていたとは。仕事のうえでは自分はそこそこセンスの良い人間だと思いこんでいたけれど、男と女のこととなるとあまりにも愚鈍で嫌になる。泣いてわめいてすっきりできる人が心の底から羨ましい。

 お金の方は心配していない。母が出さないとは言わないことは確信している。ただ問題が二つ。一つは母にお金を出させる前の段階。私は今が勝負どころだと思っている。でも、今の惨めな精神状態でその判断をしていいはずがない。だから、母に会って反撥を感じてエネルギーに変えたい。そして次の問題、今の母に私を反撥させるだけのパワーがあるのかどうか、そこは心配だ。…誰のことを心配しているのだろう?、母のことか、それとも自分のことか…。

気持ちなんてしょせん他人には見えないし理解もしてもらえない。端から見れば、二年ぶりに実家の母に会う理由は金の無心だ。

そんな私もどうかと思うが、「香織の好きなだけ何日いてもいいけど、ベッドは処分したから寝る場所はソファよ」と言い切った母もいかがなものか。「怒ってるの?」と訊いたら、まったく嫌味もなく「まさか、そんなはずないでしょう」と答えた。どんな心境の変化なのか。

 新幹線の窓から雪を冠った富士山が見えた。そうだ、母と最後に会った日も富士山が綺麗だった。


母は私のことが大好きな人だった。専業主婦でずっと家にいて、情緒が安定していつも明るく、怒られた記憶もない。私に関わるものはすべて取っておく。何も捨てない。小学生の頃、返却されたどうでもいいテストを何の気なしに母の目の前で丸めてゴミ箱に捨てた。母はそのテストをゴミ箱から引き揚げしわを伸ばして「だめでしょう」と笑った。本気で何かを捨てたいときは粉砕する必要がある、そのときにそう感じたのが、記憶に刻まれた最初の反撥だった。

父はほとんど家にいない人だった。朝は早くから仕事に出かけ、「お父さんは今日も接待で遅いわよ」と母から毎日のように聞かされた。土曜日はゴルフ、日曜日は午前中いっぱいほぼ寝て過ごした。家族で買い物に行くのは日曜日の午後、デパートの駐車場の入り口には決まって長い行列。私と母は先に降ろすと、父は音楽を大音量にして車の中で独りで歌っていた。このような家庭では妻というものは定期的に爆発するのが一般的らしいが、母は愚痴の一つさえ口にすることがなかった。小学校の友達から、両親が昨日も喧嘩してよく眠れなかった、という話を聞いて、その頃はその言葉を知らなかったけれど、青天の霹靂のような気がした。うちはそんな家ではなくてよかったとほっとしていたはずが、中学に入る頃には、普通ではないのは自分の両親の方だと確信していた。母は私の中で得体の知れない存在になっていた。

中学2年の担任は両親よりも年が上に見えた男性の国語教師だった。私が生まれたとき両親はともに23、できちゃった婚であることは想像していた。担任は当時40くらいだったのだろう。個人面談でのやりとりの一部分だけ、今でも鮮明に覚えている。

「ひとつ気になることがあってなあ」担任は言った。「お前時々すごく辛辣な言葉を口にしたり、文章に書いたりするだろう?、もしかして枝島家には何か問題があるのか?、そうなら話してくれないか?」

「特にないですけど」

「本当か?、些細なことでもいいんだぞ、ご両親には直接言わないから」

「本当に何もありません」

「そうか、それならいいけどな、…遠慮なく辛辣でストレートな意見が言えるのはいいことだよ、ただなあ、みんながみんなってわけじゃないけど、今までオレが見てきた辛辣なことを言う生徒には、家庭環境に問題を抱えていた子が多かった、だから気になってなあ、…でもまあ、枝島のところは、お母さん明るいし、いつも綺麗にしてるから大丈夫だよな…」

 この最後の一言に私はカチンときた。やはりそういうことか。

 私が小さい頃の母の日課は鏡台の前に私を座らせ「香織はかわいいわね」と鏡の中の私に向かって語りかけることだった。当時の私は明らかにクラスの中でもかなりの衣装持ちで、母は私に毎日可愛い洋服を着せて、髪の毛を編んでくれた。残念ながら、これを受け入れるのに何年かかったのか、もはやわからないけど、母は私よりもずっと美人だ。しかも少したれ目で、中学生にはわからなかったけれど、ドラマで小料理屋の女将を演じる女優のような色気がある。仕事の後に暮れてからのキタやミナミを歩いてみると、着飾った女性の中で母のようなたれ目の女性についつい目が言ってしまう。あの仕事は愛嬌のない私にはできそうにないが、母なら…、普段はまったく思い出さない母のことを、変な場所で思い出す。そんな時に限って、「香織はかわいいわね」という虚空に響く言葉が甦った。


 高校の頃から家は寝る場所と決めた。勉強はできるだけ外でやる。家は食事をして風呂に入って睡眠をとる、いわばチャージをする場所。用のないものにスペースを奪われたくはない。学年末には教科書を捨てようとしたが、いつも母に妨害された。「私はもう見ないし、お母さんなんかもっと見ないよ」と言っても「あとで必要になるかもしれないでしょう」と言ってきかない。こんな不毛な会話にエネルギーを消費するくらいなら、私は睡眠を優先する。去年の教科書が家の中に存在しても存在しなくても、寝るときには関係がない。母が何でも取っておこうとするから、私は何でも捨てたくなる。結局よくある母娘の関係だと言われればそれ以上でもそれ以下でもない。

 大学に入ると、バイトで稼いだお金で私はひたすら旅をした。外にいる時間、私の五感はフル回転し、家にいる時間はスイッチを切って充電にあてた。当然口にする言葉は必要最小限になる。自分から口を開くのは、食料を補給するときか、「明日から旅行に行くから」と宣言をする時くらい。母は「どうして女の子なのにそんなに家にいないの?」と時代錯誤的な言葉を口にしてひとり悲しみ、父は私の行き先を聞いてその場所を舞台にした映画や小説のコメントを一つ二つ口にして、「楽しんで来いよ」と嬉しそうに送り出す。そこで夫婦の間にケンカでも持ち上がれば、一般的な夫婦っぽいのかもしれないが、期待しても何も起こらない。

「なぜこの二人は夫婦をやっているのだろう?」

旅行に行くという報告を終えて私は部屋で溜息をついた。それにしても、私がどんな場所を口にしようとも、父の頭の中には必ず何かしらの情報が入っている。私の行き先を掴んで準備していたかのように。何でそんなにいろいろなことを知っているのか、一度父に訊いたことがある。父は驚いた顔で少し考えこみ、「常識かと思っていたけど、…そうか、違うんだ」とポツリと言った。

就職したら家を出たかった。就活の面接では「もっと世の中を知りたいから、首都圏以外で働きたい」と力説した。就職した会社は私を大阪に配属してくれた。私が引っ越す前日、母はベッドに横になっていた私に突然覆いかぶさり、抱きしめ、涙を流して訴えた。「何で大阪になんか行っちゃうのよ。そんな会社に就職しなければよかったのに。せめてお嫁にいくまでは香織と一緒に暮らしたいのに、それさえも叶わないの?」母の涙にほだされるな。あれほど距離を置いたのに母はまだ私に執着していた。

それでも母は2か月に一度、週末に大阪に現れた。毎月でも来阪する気満々だったのは明らかだったが、私は適当な理由をつけて忙しいと訴える。それでも断り続けられるのはせいぜい1か月。2か月目に入るとそろそろ相手をした方がかえって楽かもしれない、と思うようになる。母は私と大阪を歩き、食事をし、私のために何かを買うことを楽しんでいた。私にとってもちょうどいい距離感だったのだろう。母と歩くのは楽しかった。私の部屋の狭いベッドに二人で寝るのは嬉しくはなかったが、私は横になればその瞬間に眠れる。心配する価値もない。それでも、最後まで母に対して従順な気持ちでいることはできない。新大阪で別れるときに母が私を抱きしめ、人目を憚らず涙を流し始めると、今までの時間が嘘のように白けてくる。こちらに視線を浴びせながら通り過ぎる人は、娘より母親の方が綺麗だ、と思っているに違いない。

就職した会社を志望した理由は、新規事業を立ち上げるチャンスがあったから。仕事を覚える傍らいくつも企画書を出したが一つも通らなかった。理由はわからないでもない。一番やりたい企画を封印していた。一発目は多少失敗しても甘く見てもらえるが、うまく行けばハードルが上がる。評価は、二発目が最初のものを超えられるかどうかで決まる。だから、絶対の自信を持っている企画はその時まで温存したい。それに、いくら発案者とはいえ入社直後の新入社員に最初からプロジェクトを仕切らせてはくれないだろう。そんなことは内に秘め、女性の先輩に「女だからダメなんですか」と愚痴っていた。入社して半年たった頃、その先輩から、辞めて独立した人を紹介された。私より8歳上の女性。3年前に会社を辞めて自分でウェブデザインの会社を興し軌道に乗り始め、マーケティングができそうな若い女性を探していた。その社長の言い分は「必要なのは若い感性、知識や経験なんて仕事しながら身に着ければいい、とにかく反抗心重視」。まさに私のことではないかと売り込んだらおもしろがってもらえた。その人の前では、何でも言えた。自分が黙っていた企画のことも。「本当にそれがやりたいなら今の会社でやる必要はないかもね。私のところで一緒に働けば必要な準備はできると思う。でも、ウチの仕事もちゃんとやると面白いわよ」そう言われて、私は仕事をできるだけ定時で切り上げ、その人のもとに通い始めた。企画書を書く時間を、ウェブ・マーケティングのスキルと人脈を吸収する時間にあてた。新卒で就職した会社を一年で辞めた私は社員数5人のベンチャー企業に転職をした。

報告のため親元に戻り、両親と話をした。母は「また一言も相談しないで決めてしまって…、香織の決めたことだから応援したいけど、そんな会社に行って大丈夫なの?、私はもう心配よ」と、娘を晴れ晴れと送り出すのとは程遠い寂しそうな顔をした。父は「すごい決断力だなあ、誇らしいよ、頑張れ」と進学や成人式や就職といった節目のイベントの時と変わらない笑顔を見せた。そして、「引っ越しとかお金かかるだろう?、出資もしなくていいのか?、足りなかったら言ってくれ」と後日100万円振り込んでくれた。

 その直後、父は25年勤めた外資系企業をリストラになった。リストラを宣告されたのは月曜日、その日に母から連絡を受け、火曜日の午後父からも連絡が来た。「明日の夜時間あるか?」 

 水曜日の夜、父はまだお客の少ないホテルのバーで、一人でシェリーを飲みながら私を待っていた。ネイビーのウィンドーペンのジャケットにグレーのパンツ、足元は茶色のローファー。ローファーの端から少しだけソックスが覗き、踝が見えている。私の知らない眼鏡をかけ、ピンクのシャツの前のボタンを二つ開けて首元にはスカーフを巻いている。落ち込んでいると思ったら、思いきりおしゃれをしていた。

「お父さん、大変だったね、大丈夫?」私が声をかけると

「香織に心配してもらいに来たように見えるか?、大丈夫に決まってるだろう」とまたいつもの笑顔だった。一杯だけ付き合えと私にはビールを飲ませ、ホテルの鉄板焼きに移動した。

「結局現実を受け入れるのに丸二日かかったよ」

「丸二日って短くない?」

「それ以上悩むのは無理だよ、身が持たない…、一応、この日が来るのを覚悟はしていたから、…年を取るって言うのはどんどん可能性がなくなることだよ、新卒で入社したころと比べたら、今のオレは何十倍いや何百倍も仕事ができると思う。でも25年前には何もできないオレを採用してくれた会社は、25年後にはもう自分を必要とはしない。香織がウチに入りたいと言えば入れると思う。そうなってもオレは香織よりはよほど仕事ができる自信がある。でも、それも今だけだよ。10年経ったら香織みたいな若い世代の方がよほど仕事ができるようになる。自分だって、いくつも年上の人のポジションと居場所を奪いながらここまできたのだから、来るべきものが来たと思うしかないだろう…、とりあえず、あと2か月は会社に籍がある。遊んでいても給料は入るし、その後はまとまった退職金も入る。職探しはその後だ」

「いいんじゃない?、ゴルフ三昧もできるよ」

「ゴルフかあ…、実はさあ、こうなって一番嬉しいことは仕事でゴルフをしなくていいことかもしれない」

「そうなの?、じゃあ仕事じゃなく趣味でやれば?」

「散々やったからなあ、もうやらなくてもいいんじゃないかって思ってる、それより、香織を見習って旅がしたいんだ」

「どこに行くの?」

「南米、とにかくアルゼンチンに行きたいんだ」

「うわあ、いいなあ、お母さんも一緒?」

「いや、一人で行っていいよって、帰ってきてまだ旅足りなかったらどこかに連れて行ってくれってさ」

思い出そうとすると画像はここで静止してしまう。

この日の父は饒舌で、幸せそうで、全然無理をしている様子も強がっている様子もなく、それがまるで肩を透かされたというか、雲をつかまされたというか、いつもの父とどこが違うのかよくわからなかったけど、自分が知っている父ではないような気がした。

そしてそれが最後。

翌日自宅に戻った父は、その週末の朝、ベッドの上で冷たくなっていた。客死という言葉があるが、父は旅に出る前に亡くなった。

 葬儀のために私は実家に戻った。母は気丈に振舞っていたが、葬儀の翌日はさすがに寝込んだ。団体信用生命保険のおかげで住宅ローンの残債は免除され、マンションは母の所有となり、父が自分で掛けていた生命保険のほかに、まだ会社に籍があったために会社が父に賭けていた生命保険からも母のもとに1億円が入ることになった。2か月後に亡くなっていたらこのお金は母のもとには入らなかったわけだ。

 父のことは悲しいというより、現実とは思えなかった。社長からは一週間は母のもとにいるように言われたが、始めたばかりの仕事が気になってじっとしているのも辛かった。まだ憔悴している母にそろそろ大阪に戻ると告げたとき、母親は、今までためていた涙を一気に放出するように「どうして行っちゃうの?、どうして私を一人にする?、そんな会社辞めてよ、大阪に行かないでよ、ここで私と一緒に暮らしてよ」と激しく泣きわめき、私は母親というよりもいるはずのない自分の小さな娘と対峙しているような感覚に襲われ、そんな娘を置いて仕事にいくなんて自分は鬼か…、と柄にもない感情が湧いた。でも、それも短い時間。部屋の中の母と私とを俯瞰することを意識したら、すっと落ち着いた。母も母で泣きたいだけ泣いたら、憔悴も阿鼻叫喚もすっかりどこかへ消えていた。

「この前、お父さんとどんな話したの?」

「南米に行くって言ってた、アルゼンチンに行きたいって。どうしてって訊いたら、子供の頃マラドーナがヒーローだったんだって」

「そうね、…それで?、…どんな感じだった?、寂しそうだった?、楽しそうだった?」

「全然寂しそうじゃないよ、すごく楽しそうだった、ただちょっとね…」

「ちょっと何よ?」

「なんか、…お父さんってこういう人だったんだ、何も知らなかったかもしれない…、そんな気がしちゃったの…、そう、ゴルフだってもうしなくていいって言ってた、ゴルフ大好きだと思っていたのに…、なんかさあ、お父さんかわいそうだなあ、せめてアルゼンチンくらい行って欲しかったなあ」

 黙り込むという平時なら考えられない行動を母は取った。私も放心状態だったから、沈黙は渡りに船だったが、少し寝かせてほしいと先に口を開いたのは母だった。

母が寝室に引っ込んだのをいいことに私はパソコンを引っ張り出し、仕事の状況を確認した。その夜何を食べたのか、翌日どうやって母が私を送り出したのか、今はもう全然覚えていない。そして数日後に手紙が届いた。そしてあれからもう二年。電話では話をしたものの、私は全身全霊で仕事をしているという言い訳をしながら、正月も一周忌も一度も実家に戻らなかった。そして、今気が付いたが、母もあれから一度も大阪に現れなかった。

今新幹線の中でその手紙を開いた。親不孝が身に染みる準備はできた。


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