初投稿です。
ダルシア王国の元帥は、もう何度目になるか分からないため息をついた。深い知性を湛えた瞳には、悔恨とも絶望ともつかない涙がにじんでいた。その下の濃い隈は、徹夜の連続だけでは説明がつかない。戦で得た勲章よりも重く、老いよりも深い刻みが、その顔に浮かんでいた。
父の背中を追って王国軍に入隊し、抜群の功績と知性、状況判断能力を認められて出世を果たし、軍の長たる元帥にまで上り詰めた彼でも、この状況を打破する方法は微塵も浮かばなかった。1週間前のあの日にしっかりと手を打っていれば、あるいはここまでの惨事にはならなかったのかもしれないが。
『"ヴィスカラ"、その数少なくとも5000が、フルカから我が国に向けて侵攻しています!どうぞ!』
「そこまで焦ることでもあるまい。5000の軍を明日現地に投入しよう。どうぞ」
『お言葉ですが元帥!それではとても足りません!20体ほど、10m前後の個体が確認されています!少なくとも1万、いや、2万を!どうぞ!』
「......わかった、それでは2万の軍を向かわせよう」
「結局、私はただの凡人だったんだ。こんな結末しか導けなかった……全部、私の責任だ」
"ヴィスカラ"とは、本来人の命から生じた瘴気の残滓であり、1mにも満たない、てらてらとしたスライムにすぎなかった。それが今や成長を続け、意志を持つ魔そのものと化している。"終環"とはここまでをも含んでいたというのか。
報告を受けた時点で隣国と連合軍を編成し、群れの討伐に向かわせるべきだったのだ。
「そんなことはありません。元帥は最善手を打ち続けていたと思いますよ」
秘書が労ってくれるが、元帥の心には響いていない。
「そもそも、私は誤解していた。"終環"とはあくまで災厄の象徴だと思っていた。だが実際、あれは意志だ。フルカの、最後の意志だ」
「まぁ、そうかもしれませんね」
「お前は本当にここに残って良かったのか」
「元帥が残ってるのに私が逃げ出したら怒られるじゃないですか。本当は逃げ出したいですね」
「お前らしいな」
「まぁ、今更逃げ出しても帰る場所はありませんし......」
そう言って彼女は窓から城下町を見下ろした。元帥も椅子から立ち上がり隣に並ぶ。
「...ひどいな」
焼け焦げた木の匂いが、城の高窓まで漂ってくる。粉砕された家々の残骸が瓦礫と化し、赤い炎がその隙間から噴き出していた。黒光りする大小さまざまなヴィスカラが、いたるところで這い回っている。
もはや人の叫び声は聞こえず、ただ、静かだった。人々の死体が無いのは、ヴィスカラが食ったからだろう。昨日まで王国軍の勝利を信じて疑わなかった国民は、一人も見つけることが出来なかった。
「まさに今、国が滅んでいるのですね」
「どうしてお前はそんなに冷静なんだ」
「これくらいでなければ、秘書は務まりませんから」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
「......そうか」
ふと気付くと、窓のすぐ外にある大きな目玉と目が合っていた。この部屋は地上20mほどの所にあるのに。
「......報告と違うじゃないか。あとできつく言っておかないとな」
「ふふ、そうですね」
元帥は小さく息を吐いた。目を伏せる彼の手が、わずかに震えている。
窓を突き破って現れた2本の黒い触手が、彼らを包み込む。元帥も秘書も、驚くでもなく、ただその感触を受け入れた。
ヴィスカラは、抵抗を見せない人間を退屈そうに眺め、ゆっくりとその体内に取り込んでいった。彼らの歴史は、まるで最初からここにいなかったかのように、跡形もなく消えた。