第1章ー2
あれは30年余り前、いや、40年近く前のことになるな。
真徳は、目の前の張娃の祖母の「波琉」と逢瀬を楽しんだ日のことを想い起こした。
側室に迎えられないのなら、せめてもの厚意を示したいと思って、波琉に多額の金銭を贈ったのだった。
そのお金のために、波琉は年季奉公を早く明けることができ、糸満から帰ってきた幼馴染みとの結婚を果たせたのだった。
本名は別にあった筈だが、「波琉」としか、今の自分には思い出せず、波琉と心の中で呼んでしまう。
そして、その張娃の祖母になる「波琉」と別れた後、自分は遊郭街に基本的に足を向けなくなった。
下手に遊郭街に足を向けると、「波琉」との思い出を自分から汚すような想いがしてしまったからだ。
だが、それが結果的に幸運をもたらした。
「波琉」が遊郭街から去って、1、2年後、梅毒が琉球にも襲い掛かってきたのだ。
この辺り、それこそ当時の惨状を直に目撃した真徳にしても、精確なところは分からない。
何しろ病気が病気である。
り患したこと自体が、公言しにくい話になる。
だから、遊郭街に行って、尾類と関係を持って、あいつは梅毒にり患して亡くなったらしい、という話が多発することになる。
実際、梅毒にり患したことの半ば証となるバラ疹が周囲に分からないような衣服等を着用しだしただけで、あいつは梅毒にり患した云々の噂が流れ、身の証を立てるとして、真徳自身がそれこそ半裸姿を何度も披露する羽目になったくらいだ。
(なお、真徳自身は、梅毒とは全く無縁のまま、今まで過ごしている)
なお、こういった事態は、それこそ梅毒が襲来した国や地方では、多々見られたことだった。
当時はマニラにいた張敬修は、まだ幼い身だったが、この梅毒襲来騒動をよく覚えている身だった。
ともかく、遊郭街をよく利用していた者の多くが梅毒に倒れる事態が起き、一時は琉球王国政府の行政に支障が出る事態にまで至ったのは事実だった。
また、梅毒の流行により、首里の一角にあった遊郭街に大変動が起きたのも事実だった。
梅毒の最初の大流行があった後、暫くの間、尾類の多くが売春を基本的にしなくなり、また、多くの遊郭が梅毒のり患により、多くの尾類を失ったことから、いわゆる倒産という事態を迎えた。
それでも。
人間の宿業というべきか、首里の遊郭街が完全に閉鎖されることはなかった。
だが、売春行為が減少し、尾類の多くが芸を売ることに活路を見出したのは確かだった。
そうしたことから、「波琉」は遊郭街で一、二を争う高級遊郭の地位を護り抜いた。
いや、梅毒の流行により、以前の評判もあり、周囲の評価を高めたといってよい。
「波琉」は、琉球一の高級遊郭であり、そこで「波琉」を名乗る尾類は、琉球最高の尾類ではないか、と謳われるのが、事情通からは半ば当然のように思われるようになった。
そして、梅毒の襲来から、更に10年余りが過ぎた。
それは真徳が、そろそろ三司官になれるのでは、と自他ともに考え出した頃だった。
だが、それが却って問題を引き起こしていた。
結局、真徳の正室は息子を3人産み、娘も2人産んだのだが。
娘については、特に問題なく、婚約等を果たしていた。
だが、息子、特に次男が問題を引き起こしたのだ。
皮肉なことに次男だから、真徳自身が大目に見ていた節があったのが、問題を複雑にした。
跡取りの長男は、それなりに真面目にやっていたし、跡取りとして真徳自身も目を配っていたのだが、次男、三男は親の心を子ども知らずで、それなりに遊んで、不良行為に手を出したりする事態になった。
それに気づいた真徳が、次男、三男を叱り飛ばしたところ、三男は改心したのだが、次男は却って反発を強めてしまった。
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