7話 堆肥置き場で目覚める
目を覚ますと、そこはとても臭い場所だった。
こんな始まりの異世界転生なんて嫌だよね……。
ともあれ僕は、どこか狭くて閉鎖された場所に閉じ込められているようだ。この匂いからして、なにかの腐敗臭とか発酵臭とか、そんな感じだと思う。
暗くてよく分からないが、恐らくは堆肥置き場みたいな、そんな感じかと思われる。
ところで僕はなぜこんな場所に閉じ込められているのか。
皆目見当がつかない。気を失っていたようだから何も覚えていないのは当然だろうけど……。
確か村を見つけて、畑に入り、カブのようなものを無心に食べている時に、猫の獣人さんの男女に襲われた記憶がある。
無断で作物を食べてしまった僕にも落ち度はあるが、このような仕打ちはいかがなものかと愚考してしまう。
そして気づいたらこの臭い場所です。
「い、てててて、っ……」
身体中が痛い……しこたま殴られたみたいだ。
前世での29年間に、日常生活で気を失った記憶など、ほとんどといっていいほど記憶にないし、こんなに殴られた記憶もない。お父さんにも叩かれたことがないのに! といった箱入り娘的なものではないが、暴力沙汰に自分が巻き込まれることもなかったし、暴力自体反対だ。痛いからね。
だが、この世界に来てまだ数日で、二度も意識を失う場面に遭遇するなど、いったいどれだけ危険な世界なのだろうか。
ほとほと先が思いやられる。
──でもどうしたものか。
僕はこの場所の悪臭に顔を顰めながら思考する。
最大の問題は、どうやらこの世界では日本語は通用しないようだ。彼らの言葉も、僕には一切理解できなかった。英語でもないしフランス語でもない。ましてや韓国語でもないし中国語でもなかった。
しいて言うなら、イントネーションはドイツ語に近いような気もしたが、ドイツ語でもないだろう。
全く聞き覚えがない言語だった。
なんてことだ。
この世界は転生者にとっては無理ゲー並みに厳しい世界のようだ……。
ともあれ今はまだ夜中みたいだ。
この閉鎖された場所には光源のひとつもない。うっすらと月明かり、もしくは星のわずかな輝きだろうか。その淡い光りが壁の隙間から入り込んで来るが、この部屋の状況すら分からない程のわずかな光源でしかなかった。
ここはおとなしくしていよう。
多少は食べ物を口にすることができたし、痛む身体を動かすのも億劫だ。
かなり臭いけど、我慢して寝ることにした。
翌朝、猫の獣人さん数名に襲われている最悪の夢を見ていた僕は、物音で目を覚ました。
重く気だるい身体を起こし、音がする方向を見ると、木製の扉が開かれ、そこから朝日が差し込んでくる。眩しいな……。
朦朧とした視界の中、朝日を背に数人の人が立っているようだ。村人だろうか?
しかしその人達の表情は、影になってはっきりと見ることはできない。だが全員が頭の上に三角の影をふたつずつ載せているし尻尾もあるので、昨日僕を痛めつけた人たちと同じく、全員が猫の獣人だろうと判断できた。
……どうやら夢ではなかったようだ。
僕が顔を向けると、その人達はワイワイガヤガヤとなにか話しをてる。しかし僕にはその言葉が全く理解できない。
「あ、あのぅ、しいませ、ん……水、を、もらえ、ないで、せう、か……」
体の打撲か何かで熱を持っているからだろうか。それとも昨晩水分を摂取することもなく寝ていたからだろうか。身体が異常に怠く、無性に喉が渇いているので、無意識にそう言葉を発した。
『──‼︎』
するとその場に立っていた全員がピタリと黙り込み、何か驚いているかのように立ち尽くした。多くの視線が僕に向かって刺さって来る。こんなに注目されるとは思わなかった。
静かになったはいいが、僕は水が欲しいのだ。
言葉が通じないのは分かるが、なんとか水をもらえないだろうか。
数度同じ言葉を繰り返し、ボディーランゲージを織り交ぜて意思疎通を図った。
すると一人の男性が、お椀のようなものに水を運んで来てくれた。
木製の汚いお椀のようなものの中には濁った水。普段ならこんな汚いお椀で、それも濁った水などは絶対に飲まない。飲めない、と言いたいところだが、背に腹は変えられない。脱水症になる前に水分の補給をしなければ、また死の危険が迫りそうだ。
ここから脱走することも今の状態では難しいし、こうして温情をかけてくれるだけでもありがたいと享受するしかない。
「あり、がと、う、ご、ざいまし、た……」
『──⁉︎』
水を飲み干し、お椀を差し出して、無理にでも笑顔を作って頭を下げた。
すると、またここにいる全員がざわめき出した。
いったい何を驚いているのか僕には判然としないが、何かに驚いているのは確かなようだ。
それでも僕は、体調がすこぶる悪く、そのまままた床に突っ伏した。
すると一人の男性が何かを話しながら指を三本立て、その後人差し指で僕を指差した。
そして、ひとつ何かの実のようなものを僕に向かって転がし、全員が踵を返して小屋を出て行く。
言葉がわからないけれども何となく理解できた。
たぶん三本の指は時間、若しくは日数を意味するものと考えられる。3時間、もしくは3日間ここにいろ、ということだろう。
体の調子も悪いので、僕はおとなしくそれに従うしかなかった。
しかしこの悪臭立ち込める場所は何とかならないものだろうか……そう考えたが、体調の悪さでどうでもよくなっている僕は、そのまま眠りに就くのだった。
それから3日が経過した。
僕は相も変わらず体調が悪く、寝てばかりだったが、この世界でも時間だけは規則正しいようだった。
この臭い部屋に閉じ込められてから4日目、もう悪臭にも鼻が慣れて来たのか、そんなに顔をしかめる程の臭気ではなくなってきた。慣れとは恐ろしいものだよ。
水も食料も差し入れてくれるので、幾分体調は回復の兆しを見せていると思う。熱ぽかった身体も幾分軽くなってきた。
水はお椀が空になったら、適宜誰かが水を注いで行ってくれた。食料は日に何かの実がひとつだけだったが、身体を動かすことがないので、空腹感はそれほどなかった。
何より食べ物を恵んでくれるだけ感謝しなければならないと思う。この世界に来てから何を食べても毒かもしれないと、3日も絶食したことを考えれば、日にひとつとはいえ、食べられるものを分け与えてくれるだけでも有り難いものだ。飢える心配がないだけで、心に余裕が生まれるようだ。
ちなみにこの実は、どうやらジャガイモとよく似ているような気がする。ジャガイモを生で食べたことがないので何ともいえないけど、おそらくはそんな感じだろう。それでも甘くてとても美味しいと感じた。空腹だからかもしれないが……。
僕がおとなしくしているので、猫の獣人達も警戒心を解いたのか、昨日ぐらいから興味本位にここを覗きにくる。
言葉が分からないので何を話しているかは不明だが、この獣人達は、当初は何かを恐れているような感じだった。
おそらく予想だが、僕が言葉を発した際に全員が驚愕していたようなので、それに関することかもしれない。
当然僕の言葉も相手には理解できないから、それは当然なことだろうと思う。
前の世界でも江戸時代のように閉鎖された社会で、いきなりどこぞの外国人が海岸に漂着して来て、訳のわからない言葉を発したら、驚くのは当たり前かもしれない。
「あ、りがと、ぅ、ごじゃり、まず……」
僕は水をくれた獣人さんに頭を下げ、感謝を述べた。
僕のそんな態度に少しは驚いているようだが、僕が笑顔を向けると、ぎこちない笑顔で返してくれる。
しかしどうも声が出しづらい。
ここに転生してから7日ほど経つが、スムーズに声が出てこない。最初は崖から落ちた後遺症か何かで喉の調子がおかしいのかと思っていたけれども、どうもそうではなさそうだ。
意識して発音しなければ、その音程が出てこない。
思考と発音が一致しない時もある。まるで一度も言葉を発したことのない声帯のようだ。
とは言っても言葉を発したことのない声帯がどういうものかはわからないが。そんな感じと受け止めてほしい。
もしかしたら僕が前世の記憶をこの体で思い出したか、はたまた乗り移り、以前の言語と発音が全く違うので、発声し辛いのかと考えたが、声を出すのに変わりはないはずだ。だから考えるのを諦めた。考えても分からないものは分からないのだ。
4日目でもまだまだ体が痛む。
触って確認してみたが、骨が折れている気配はない。けれども骨にヒビが入っている可能性は否めない。腫れが引かない部分もあるので、未だ身体を動かすと激痛が走る。
そうはいっても、猫の獣人さん達は手当てしてくれるわけでもない。痛みを訴えても放置しているだけだ。なんか対応の冷たたさを感じる。まあ畑を荒らした罪が僕にはあるから仕方がないのか……。
けれども多少の食べ物と水を恵んでくれているので、感謝だけは忘れない。
──はあ……猫の獣人さんがいる異世界に来たはいいけど、なんか全く良い所じゃないな……。
猫の獣人がいるので、ここは元の世界とは全く違う場所、異世界で間違いなさそうだ。
けれども、アニメやラノベのように、異世界に来たら大活躍、特殊能力なんかを神様みたいな奴から貰って、俺TUEEEE! 無双しちゃうよ! 的なモノを過大に期待していたのだが、現実は斯も厳しいようだ。
特殊能力どころか言葉すら分からないってどういうこと?
体は痛いし、数度も死にそうになるし、挙句は猫の獣人さんに暴力を受けて、臭い部屋に閉じ込められる……まったく異世界に来た意味なくない?
──これからどうなるんだろうな……。
理想と現実の乖離にほとほと圧し潰される僕だった。
特殊能力も何もない今の僕には、この窮地を打開する力もなにもかもがない。
ましてや少年の身体で非力である。身体も痛いし、逃げようとしても遠くまで逃げられる気もしない。それに逃げたにしても、また食料すら手に入れられずに餓えて死にそうだ。
正体不明な物を口に入れたが最後、毒のような物であっという間に昇天だね。
──これはどう足掻いても良い方向には向かいそうもないな……。
足掻けば足掻くだけ死に近づく未来しか見えない。
ここは、そう、
──成り行きに任せるしかないようだな……。
今の状況なら食べ物も水も与えてもらえるので、すぐに死ぬことはない。
とりあえず生きることを考えるのならば、この状況を受け入れるしかなさそうだ。
そう自分の暗い行く末を考えていると、数人の獣人さんが小屋に入って来た。
「わjでしjdbづいsっj? ほsgsysn、dhべおdk!」
「いgrxず……」
数人のガタイの良い猫の獣人さんが何か言うと、この村の住人であろう猫の獣人さんがペコペコして肯定しているみたいだ。
村の獣人が続けて説明しているようだが、全く意味がわからないので何を説明しているのかは知れないが、たぶん僕の事を説明していると予想はつく。
ガタイの良い獣人さんは、渋面を作りながら首を横に振ったり、呆れたような仕草をするが、僕に関してなんの話をしているのかは全くわからない。
ガタイの良い獣人さんたちは、おそらく兵士か何かなのだろう。簡単な鎧のような物を着て、腰には剣のようなものを提げていた。
しばらく僕を指差したりしながら何やら話していたが、一人のガタイの良い獣人さんが、いきなり僕の前に進み出て怒鳴る。
「おわうdhdbっっh!hsjdんど‼︎」
「……?」
何を言っているのかは理解できないが、僕に向けて何かを命令しているのだ、とだけはなんとなく分かる。
僕は痛みを我慢して身体を起こし、正座してガタイの良い獣人さんに正対した。
「ず、ずみま、せん……ことば、ぐあ、わ、解り、まぜん……ご、ようじゃ、くだざい」
「──なgkh‼︎」
すみません、言葉が解らないのでご容赦ください、と僕が日本語で言いながら頭を下げると、ガタイの良い獣人さんは、最初の時の村人のように驚愕した。
僕が言葉を発することに驚いているのか、それとも態度に驚いているのか、そもそもこの獣人たちは僕のような人間を見たことがないのか、どの辺りで驚いているのかは不明だ。
驚いたガタイの良い獣人さんは、また村人らしき獣人と喧々囂々と口論しているかのように話し合っている。
それを黙って正座して見ているが、足が痛い。
しばらく我慢していると話し合いが終わったようで、二人のガタイの良い獣人さんが、ロープのようなものを手に僕に近寄って来た。
──うぁ、これは嫌な予感がするね……。
おそらく僕は、この兵士のような獣人達に連行されるのだろう。そう判断した。
両腕を後ろ手に縛られ、首に縄をかけられた。
間違いなく連行されるスタイルだ。
ガタイの良い獣人に、首に掛けたロープを、ついて来い! と言わんばかりにグイと引かれる。
「……あぅ……い、いたい、でーす……やさし、く、おねげえぃ、しま、す……」
そうは言うものの、言葉が通じない以上優しくなどしてくれない。
ガタイの良い獣人は、問答無用で僕を引っ張る。
こうして僕は、訳も分からぬままガタイの良い猫の獣人さんに連行されるのだった