30話 探り ★
母へ報告を終えた私は、研究棟へと足を運んだ。
研究棟は、校舎とは少し離れた場所にあり、先生は勿論生徒も許可さえ貰えば自由に出入りできる場所である。研究室を持っているのは専ら先生方なので、生徒が研究したい場合は、自分が教わりたい研究を進めている先生の元で、最初はお手伝いをしながら研究を始めるのが常である。
生徒個人で研究室を与えられるのは、それなりに研究成果を学校側に認めてもらうことが必要だ。
私は1期生の時から自分の研究室を獲得しているので、それなりに有意義な研究ができる環境だった。
言っておきますが、両親が学校の理事と校長だからって、依怙贔屓で研究室を貰えたわけじゃない。しっかりと研究成果を学校に認めてもらった結果です。
研究棟の廊下を、下働を連れて歩いていると、向かい側から一人の教諭が歩いてきた。
「やあ、お久しぶりですねミルキー君」
「おはようございますエインリッヒ先生」
生物学を担当されているカズフ・エインリッヒ先生である。
そして専攻して研究されているのが、私と同じ生物の進化なのだ。
「随分とご無沙汰でしたね。もしかしたら学校をやめたのかと心配しましたよ」
エインリッヒ先生は頭を掻きながらそう言ってくる。
愛想のない眠そうな眼で作り笑顔をする様には、とても気圧される。
寝癖がついてボサボサの頭髪、顔色は白い、というよりも病的に青白い。着用している清潔な白衣と比べても遜色ない程の白さだ。むしろ白衣よりも白い。
これが女子だったら羨ましいほどの色白さかもしれない。もっとも不健康そうなので私は嫌だが……。
「いいえ、もうすぐ卒業なのに自主退学は致しませんよ。自宅に念願の研究室を頂いたものですから、そこで研究を進めているところです」
「そうなのですか。それは羨ましい」
エインリッヒ先生は頭を掻きながら、ほんとうに羨ましそうに眠そうな眼をさらに薄くした。
エインリッヒ先生は貴族ではなく一般庶民である。多くの研究が認められ教諭としてこの学校に在籍している。
一般庶民では自宅にそんな大きな家を持てるわけもなく、研究室など場所を取るようなものは作れないのが現状だ。故に学校内の研究室で我慢しているというわけだ。
ただ学校内に研究室を持てるだけでもその地位が認められているので、凄いことではあるのだが。
しかし研究には結構な資金も必要になる。学校では個人の研究費までみることはできないので、エインリッヒ先生みたいな庶民の研究者は、研究費を捻出するために、お金持ちにパトロンをお願いすることが珍しくない。
エインリッヒ先生もその口だ。先生はゲイリッヒ侯爵にパトロンになってもらっている。
私は同じ研究課題を扱っていることもあって、入学当初はエインリッヒ先生とともに研究することもあったが、近頃は先生の研究室にもご無沙汰している。
数年前に私が、エインリッヒ先生が唱える進化の過程を覆す発表をしてからは、少し疎遠になっていたのだ。こうやって普通に話してはいるが、自分が研究してきた成果を年下の、しかも教え子に覆されてしまったのだから、恨んでいないまでも納得できないものがあるのだろう。
私の研究成果自体には納得してはいるものの、やはり内心穏やかではいられないのかもしれない。
「そういえばとある噂を耳にしましたが、その研究で自宅に籠られていたのですか?」
「噂ですか?」
なんとも、耳聡いことだ。
とはいえゲイリッヒ侯爵にパトロンになって貰っているので、そんな話も筒抜けなのは当たり前だろう。
「ええ、なんとも珍しい裸猿を手に入れたのだとか」
「ああ、裸猿。そうですね確かに手に入れましたが、裸猿がそんな噂になるほど珍しいものですか?」
確かに裸猿自体が滅多に捕獲されることがないので、珍しいといえば珍しい。
しかし、タツヤの噂はそれに輪をかけて珍しいので噂の広がりもやはり早いという事か。
「噂に依れば、言葉らしきものを口にする裸猿というではないですか? それは珍しい以前に貴重な個体ですよ?」
まあ私でもその噂を聞いたぐらいだから誰でも知っている噂なのだろう。最初にジェイソンさんが話を持ってきてくれなかったら、買いそびれていたところだ。
ただ私が買ったことを誰が言いふらすのだろうか。まあ、大方バーンに聞いたとは分かってはいるけれど、その前だ。
ジェイソンさんはそんな事はしないはずだし、街の衛兵か監獄の看守か。
兵士の中にはゲイリッヒ家筋の者もいるから、そこから流れ出ているのかもしれない。ミッチェルが言ったように、衛士や看守に調教をつけるべきかもしれない。
昨日王都の領主会議から戻った父も『参ったよ……あの裸猿の件で、ゲイリッヒ侯爵に遠回しに因縁をつけられたよ……』と、ゲッソリとしながら言っていた。
珍しい裸猿を手に入れたい一心で、会議中しつこかったそうだ。その裏にはバーンも絡んでいるに違いない。
ちなみに父は、『娘が買った裸猿ですから、わたくしは一切関与しておりません。娘の研究素材ですので、娘が手放すかどうか……』と答えたらしい。遠回しに私に訊けと言っている気もしないでもないが……。
特にタツヤが言葉を覚え、異世界からの転生者と話した途端『絶対に死なせるんじゃないよ! 何があってもパパが盾になってあげるから!』と、父も何を言われても譲る気はなくなったらしい。
「そうですね、そんな裸猿がいれば、それは貴重な個体ですよね。私も欲しいぐらいです。それとは別に、せっかく研究室を父から頂いたので、自宅で研究をしているだけです。それだけなんです」
「え……?」
私の回りくどい答えに、エインリッヒ先生は首をかしげた。
先ほど母とも約束したのだ。タツヤの件は、時が来るまで誰にも話さないと。
異世界から転生して来た魂を持った裸猿で、こちらの言葉をもう覚え、異世界から来た転生者などと話したら、それこそ大騒ぎになり、懸念される事態になり兼ねない。
「ただ奇妙な鳴き方をする裸猿ってだけです。他は何も変わったところはありませんでしたよ? そもそも裸猿を買ったのは3か月ほど前なのです。今も生きているとお思いですか?」
「……」
私がそう言うと押し黙ってしまった。
聞いた話と違う! みたいな顔をしている。生きていますけど。
裸猿は虚弱で有名だ。今までの裸猿だって、ひと月も生きていれば長い方だった。早ければ七日ほどで死んでしまっていたのだ。それがタツヤたちは100日を越えようとしているのだ。新記録である。
「……い、いやはや、それにしてもミルキー君は、裸猿の研究が本当にお好きなようですね」
エインリッヒ先生は誤魔化すかのように話を別の方向にすり替える。
そこから裸猿の事を探ろうとしているのだろうが、そうは問屋が卸しません。
まあ私以外に裸猿を専門に研究しているという話はあまり聞かない。言葉が通じない以上、他の動物と同様、生態を観察するか、死んだ後に解剖する程度しかすることがないからだ。その辺りはやり尽されているので、私もそろそろ新しい裸猿の購入を控えようとしていたところだったし。
「ええ、あの生物は、おそらく太古の時代から生きている生物でしょうから、生態を調べる事で古代文明や私達獣人がなぜこの世界に現れたのか、その起源を知ることができると考えているのです」
「あ、ああ、成る程……古代文明とは、それはまた壮大な研究課題だね……」
「ええ、両親の研究へ何かしらの貢献もできると思うので、頑張ります!」
「が、頑張りたまえ……」
むん、と胸を張って宣言すると、エインリッヒ先生は聞きたいことの大部分が聞けなくて眠そうな眼を少し釣り上げた。きっとバーン辺りから、もし私と会ったらそれとなく話を聞き出せ、とか命令されているのかもしれない。パトロンの命令には逆らえないからね。
でもタツヤのことは母の懸念もあるし、話す気はありませんのであしからず。
古代文明の研究は何かとお金がかかる。故に庶民でそれを研究課題にするには、それなりのパトロンが付いていないと、研究を進めることができずに破産する者も出るくらいだ。
たとえお金持ちのパトロンを捕まえたとしても、そもそも古代文明に興味がなければ、研究費など出してくれない。
エインリッヒ先生は生物学が専攻なので、ゲイリッヒ侯爵様にパトロンになってもらえた。
ゲイリッヒ公爵は珍しい動物や、愛玩奴隷を好む好事家だ。だが古代文明にはなんの興味もないので、そんな事柄にお金を湯水のように使わないと最初からわかっている。
私の両親は元庶民出だったが、王都の学校で優秀な成績とそれなりに成果を上げていたので、王族のパトロンが付いていたのだ。両親の研究が考古学と知っているパトロンは、当然のように資金を出してくれたそうだ。
そのお陰もあって期待以上の成果を上げ、王の目に止まった。これが良くも悪くも爵位を貰うことになってしまったのだ。
「それよりもエインリッヒ先生が、そんなに裸猿に興味をお持ちだとは知りませんでした。最近では魔物の生態を研究中と伺っていましたが」
「あ、ああ、魔物の研究は奥が深いからね。その合間にそんなに珍しい裸猿がいるなら少しは見てみたいと思ってね」
「そうですわね。そんな珍しい裸猿なら、私も是が非でも買うのですが……残念ながら、今回も普通の裸猿でしたよ……」
頬に手を当て、はーっ、と短い溜息を吐き、いかにも残念な様子を醸しだしてみる。
「そ、そうですか……」
エインリッヒ先生は未だ不信感を抱いた表情をしているが、これ以上は何も聞き出せないと考えたのか、最後には諦めたようだ。
それでは頑張ってくださいね、という先生へ、先生も有意義な研究を、と社交辞令で返し、各々自分の研究室へと向かったのだった。
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