18話 先輩に名前を
翌朝、久しぶりに熟睡できた僕は、清々しい気分で目を覚ました。
暗闇の木の洞でも、冷たく硬い床でもなく、前の世界に比べれば粗末だが、薄いマットレスのようなものの上で寝られ、毛布のような温かいものに包まれ、この世界でようやく安心して眠れたことに深い感慨のようなものを覚えた。やはり人間睡眠は大事だと思う。
体の痛みは幾分引いてきたが、まだ痛いことには変わりはない。無理をすればまだ激痛が走る。
頭の怪我が一番酷いようで、血こそ止まって瘡蓋になっているが、未だにズキズキと鈍痛が続いている。頭蓋骨が割れているかも、と思うほどだ。
打ち身や捻挫、もしかしたら骨にヒビが入っているのでは? と危惧されるような怪我が、たった数日で簡単に治るようなら、魔法なんていらない(魔法がある世界かどうかまだわからないが)だろう。
この世界はそんなに僕に甘くはない。そんな甘い世界なら、最初から甘い設定になっているはずだ。奴隷として買われた今が、ささやかな幸福感と最高に生きていると実感させられているのだから、この世界は僕には厳し目な設定なのだろう。
まあこの世界に来て今までが最悪続きだったので、少しでも待遇が良くなるだけで、これ以上ない幸せを感じることができるのかもしれない。ただ僕には前世の記憶があるので、微妙なところだけど。
──いてててて。
体の違和感を確かめながら目を開くと、違う違和感が僕を包んでいた。
「……ぬおぅ!」
得も言われぬ柔らかい感触に、よく分からない声が出てしまった。清々しい気分はこのせいか?
なぜか先輩少女は隣のベッドではなく、僕のベッドに潜り込んでいたのだ。それもマッパで……肌が触れる箇所がやけに暖かく柔らかい。
きっと寝ている時に衣服が窮屈で脱いでしまったのだろう。彼女が寝ていた場所を見ると、ベッドの上や床に服や下着が脱ぎ散らかされていた。
おそらく一度目覚めた彼女は、これまで檻で寄り添って寝ていた温もりが忘れられなかったのかもしれない。僕の布団に侵入してきたというわけだろう。
「……ぁーぅ〜」
僕の驚いた妙な声に目を覚ました先輩少女は、僕の顔を見てか細い声を出した。
そして安心しきった表情で、僕の胸のあたりに顔を埋めて甘えるように微睡んでいる。
こんな表情もできるんだ、と、今まで怯えるか相手を威嚇する険しい顔、それと無表情さが際立っていた先輩少女の、多少笑顔に見える甘えたような表情がとても微笑ましく思えた。
身内に見せるような安心感なのだろうか?
どうやらすっかり懐かれてしまったようだ。別に嫌ではないけど……。
窓を見ると、外は薄っすらと明るくなり始めているようだ。
まだ朝も早いらしい。昨日は晩御飯を食べて早々に寝たので、早くに目覚めるのも当然だろうか。
二度寝してもいいかな、と考えたが、僕達は奴隷としてこの家に買われたのだ。日が昇ってから仕事をさせられるかもしれない。
きっとメイドさんのミッチェル(まだ確定していない。発音でそれらしく聞こえた)さんが呼びに来るはずだ。その時まだ準備もせず、馬鹿面で寝ほうけていては、のっけから心証が悪くなることだろう。
そう考えた僕は布団を抜け出し、身支度を整えることにした。
マッパな先輩少女と、もう少し寝ていたいと思っていたことはここだけの話。
結局彼女の脱ぎ散らかした衣服や下着を拾い集め、また着せるところから今日が始まるのだった。
今まで女性の衣服を脱がすこともしたことがない僕が、女性に下着や服を着せる日が来ようなど、いったい誰が考えられようか……まあ乳幼児程度の知能しか持たないのだから、妹的な扱いになるからいいか。いや妹でもそんなことするのは、おかしいだろう!
まあ、それは置いておこう……。
しばらくベッドに腰掛け、行儀よく待っていたが、一向にミッチェルさんは現れなかった。窓の外は徐々に明るくなっている。もう少し遅い時間からが、この世界の活動時間なのだろうか。
暇なのでこの世界の事を色々と考えていたが、ふと目の前の少女を先輩少女と呼び続けるのもどうかと思い、名前を考えることにした。
色々と質問したいが、言葉での意思疎通が図れないので、勝手に決めることにする。
もしかしたら名前らしきものを持っている可能性も否定できないが、今までの行動からしてもその可能性は低いと考えられる。名前があるなら既にお互い自己紹介して然るべきだからね。
──うーん、どんな名前がいいだろうか。
ここに来るまで何度か水浴びさせられたので、最初出会った時よりは髪の毛も綺麗になっている。最初は見た目もゴワゴワとしていて、ジャマイカ? レゲエ風? 的な髪の毛だった。ファッション? と思ったが、匂いもきつかったし、あれは相当な期間頭を洗っていなかったせいで、皮脂と汚れでそうなっていたのだろう。貞子と見紛うほどだったからね。
先輩少女は、僕の隣に座っていたが、どういう訳か僕のいざの上に頭を乗せ、ごろごろと甘えた行動をとっている。仕方がないので少しぼさぼさな髪の毛を手櫛で整えてあげようかと思う。少しでも印象が良くなればいいね。
寝癖の酷い先輩少女の髪の毛を手櫛で梳きながら名前を考える。
こうして綺麗に洗った髪の毛を見ると、とても綺麗な栗色の髪の毛をしている。
手櫛で梳いているととても気持ちよさそうにしている。まるで可愛い小動物のように目を細めていた。
ちなみに僕はこの世界に来てすぐに、大雨と崖底で激流に揉まれたので普通に髪の毛は長いだけで汚れていなかった。もしかしたら、最初は彼女のようにゴワゴワとしていたかもしれないが、身体中が痛くてそれどころではなかったからね。
とにかく僕も男としては結構長めの髪の毛だ。黒に近いブラウン系の髪色で、肩にかかるぐらい伸びている。
なんだか鬱陶しいので切りたいが、周りに刃物らしきものは見当たらない。追々ご主人様にでも相談しようと思う。
とりあえず名前ね。
栗色の髪の毛と、クリッとした栗色の瞳が印象的だ。
──んー、マロン? それともチェスナット? モンブラン! 栗きんとん! 栗子!
なぜか甘いものばかりが頭に浮かぶ。体が糖分を欲しているのか? 最後の栗子はネタだな。イジメられそうな名前だ。却下却下。
結局僕は名付けのセンスがないみたいだ。目で見た情報を、ただ安直に口にしいるだけだ。ゲームのキャラ名も意外とそんな感じでキャラ名にしてたような気がする。
考えるのも面倒になってきたので、マロンで決定。
「よしぃ。きょう、から、きみの、なまえは、マロン、に、きまり、ね」
「……」
そう言うが彼女はキョトンとした表情をしたままなんの反応も見せない。
これは分かっていなさそうだ。
「きみの、なまえ、は、マロン、しょれで、きまり、ね」
「……」
反応がないが、これで決まりと勝手に命名終了だ。何度もそう呼ぶ内に、自分がマロンだと理解するかもしれないからね。
それにしても、「さ行」の発音が難しい。「しゃ、しぃ、しゅ、しぇ、しょ」みたいになるな。舌の筋肉が上手く動かないのだろうか。滑舌を良くしなければ、言葉を覚えても上手く発音できないな。訓練しよう。
「ぼく、は、タツヤ、きみ、は、マロン」
自己紹介も忘れない。僕は自分を指差し竜也と発音し、彼女を指差しマロンと何度か発音する。
「……ター」
するとそんな言葉らしきものがマロンの口から零れ出す。
「おお、そう、ぼく、は、タツヤ、きみ、は、マロン」
「……たー、ぁ、アールん」
「うん」
マロンは真似事みたいに声を出し始めた。しっかりとした発音ではないが、ちゃんと聞き取れていることは判明した。
まあ練習すれば、その内名前ぐらい覚えて話せるようになるかもしれない。
まるで幼子に言葉を教えるような感覚だ。
髪の毛を梳きながら何度も復唱する。その内覚えてくれるだろう。
──もう少し人間らしい知能を付けてくれればいいね。
僕はそう願いながらマロンの頭を撫でた。
少しでも話し相手ができたら嬉しいし、共にこの世界の言葉を覚えたら、もっと楽しくなるかもしれないと思ったからだ。
けれども、なにぶんお互いが一からこの世界の言葉を覚えなければならない。道程は遠そうだ。
マロンの髪の毛を梳き終え寝癖もましになり、少し見栄え良く髪を整えてあげると、結構可愛いくなって驚いた。
出会った当初は、狼に育てられたの? と思うぐらい野性味溢れるワイルドな少女だったマロンが、今は普通の美少女に変身してしまったようだ。元が悪くなかったので、身だしなみを綺麗にすれば、それなりになるとは思っていたが、予想外の可愛さに少し戸惑ってしまうぐらいだ。
まあ前世でも、服を着て普通の姿をした女性を見慣れているから、余計そう思う。マッパで薄汚れた少女を最初に目にしたら、野生児! と考えてしまうのも仕方がない。
そうこうしていると、今度はマロンが僕の髪の毛を梳きはじめた。
あ、でも何かが違う。
──えっ……これは毛繕い? グルーミング?
梳いている、とはいえない。よく日本猿とかでもそんな行動を目にするが、似たような感じで僕の頭を撫で回している。
でも案外気持ちがいい。普段誰かに頭を触られる事なんて、床屋さんぐらいしかないからね。シャンプーの気持ちよさに若干似ていなくもない。
頭の傷の部分には触れないようにしている。きっとマロンも傷は痛いものだと分かっているからだろう。
そうこう二人で戯れていると、扉がガチャリと開かれメイドのミッチェルさんが朝食を持ってきてくれた。
マロンは即座に警戒し、僕の背中に隠れるようにして、小さく唸りながらミッチェルさんを覗き見る。
ミッチェルさん、マロンに嫌われている? いや、今の所誰彼構わず警戒していたね。関係ないか。
「お、はよう、ございま、しぃ、ミッ、チェル、しゃん」
「──‼︎」
どこの世界でも挨拶は基本。挨拶がしっかりとできない人は、社会人として失格である。
そう思ってこちらの言葉ではないが、誠心誠意挨拶すると、ミッチェルさんは運んで来た朝食を落とす勢いで驚いた。
でもさすがはメイドさん。結局朝食を落とす事なく踏み止まったが、その表情から血の気が引いているのはなぜだろう?
顔面蒼白、今にも倒れそうにしている。
昨日の晩もそうだったが、相当具合が悪そうだ。大丈夫かな?
それでも朝食をテーブルにしっかりと置くところは、メイドさんの意地なのだろう。
その後ブツブツとなにか譫言のように呟きながら、ふらふらと部屋から出て行った。
言葉は分からないが、その行動からアテレコすると、「あー具合悪い……早く横になりたい……」だろうか?
それとも僕は嫌われてしまったのか……。
まいいか。
「マロン、とり、あえじゅ、たべませ、う、か」
「……」
僕はマロンをテーブルに誘い、朝食を頂くことにした。
──わぉ! 昨日の晩と変わらず温かい朝食だ! ありがとうございます!
昨日だけかと思っていた温かい食事が今日も振る舞われたことに感謝です。
こうして僕たちは朝食を美味しく頂くのでした。
ちなみに、マロンはまだスプーンが使えないので、また僕が食べさせました。
なんだろう、この奇妙な関係はいつまで続くのだろうか……。
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