流されてはいけない
同窓会という大舞台で一躍注目を浴びた二郎。そのおかげで坂本さんや高橋さんと話をすることができ、夢のような時間を過ごせた。後日、ものすごく申し訳ない気持ちが込みあげてきた。
【6/15】
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「おまえさん、そんないいんやで。謝らんでも。」
「本当にごめんなさい。三郎さんを侮辱する気は全くなかったんです…。」
九月はもう後半に入り、秋のような涼しい陽気が続いていた。ちょっと前までの暑さは、いつの間にかどこかに消えていた。同窓会の一週間後、三郎さんから連絡が来て集まることになった。場所は、三郎さんと出会った大学の最寄り駅近くにあるカフェであり、前に語り合った場所である。
僕が謝っていたのは、同窓会での発言だった。「二浪である二郎の僕は、三郎という名前だったら三浪してしまうかもしれない」と言ったのだった。それはまさに三郎さんへの侮辱であった。あの時は流れでそう言ってしまったけど、今考えてみると三郎さんに対する申し訳なさがこみ上げてきた。
「いやーでもすごいやないか!自分の名前をネタにして大勢の前で喋れたんやから。立派や立派!おまえさん、お笑い芸人向いてるんちゃう?」
「お笑い芸人?」
いきなりお笑い芸人と言われたので、思わず聞き返してしまった。
「まず、『どうも~大学受験で二浪中の二郎です。二浪の二郎です。よろしくお願いします!』っていうくだりから始めて、そんで三浪になったら芸名を変更すればいい。『三浪中なので、三郎という名前になりました!』とか言ってな!」
「僕から三郎さんにバトンタッチできますね。」
「いやいや、一人で全部やらなあかんで!三浪、四浪、五浪ってなっていったら、見ている皆さんも応援してくれるやろ!」
「三郎さん。」
「なんや二郎ちゃん。」
「もう少し現実的な話をしませんか?僕はお笑い芸人には向いてないと思うんです。おそらく目指さないですよ。」
「そうか、ならしゃあない。進路相談でもするか?」
「僕も、実は大学に行く意味があるのかと疑問に思っていたんです。特に今、やりたいことはないですし…。そもそも理系と文系どっちの大学に行くかすら決まってないんですよ。」
「俺はもう理系の大学に決めとるな。なんでも国語が全然できなくてなー。一回センター試験でニ〇〇点中六十九点しか取れへんかったわ。がんばってその点数やで。俺は日本人じゃないんかと思ったわ。」
「それはさすがに低いですね。センターが低いから、大学受験も失敗してしまったのですか?」
「そんなに大きな影響はなかったんやけど、国立とかだとセンターの点数が大きく関係する場合もあるから、不利っちゃ不利やったな。」
「僕は特に得意な科目とか苦手な科目がなくて、全部均等に取れたんですけど、どれも取れて七割か八割ちょっとくらいで微妙なんですよ。理系文系どっちが好きかとかも分からないですし。」
「おまえさんってやっぱ面白いな。そんなに迷ってるなら理系行けばいいやん。」
「そうですか?」
「理系の方が就職有利やろ。どっちでも良いなら社会に必要とされるような勉強を選んだ方がええねん。」
「オープンキャンパスでも同じようなことを言われましたよ。確かにそうですけど、僕、飽きっぽいんですよ。勉強し続けられるかわからないです。」
「そりゃあ先のことはわからんよ、おまえさん。大学行く気あるなら、まずとりあえずやってみるってことよ。」
三郎さんはそう言ってコーヒーを啜る。砂糖をあまりにもたくさん入れていたため、甘すぎるのではないかと思ってしまった。
「俺、現役のときにもいくつかの大学には受かってたんや。行かなかったけどな。」
「そうなんですか?せっかく受かったのに、どうして行かなかったんですか?」
「何となくやけど、自分には合ってないかなと思ってしまったんや。」
「何となく…?」
「国立メインで受ける人も、私立は滑り止めで受けるやんか。国立落ちても大学通えるように。俺も滑り止めで受けたんやけど、そんなに入りたいとは思ってなかったんや。それに…。」
三郎さんの声は詰まった。
「俺は当時付き合ってた彼女の言葉に失望して、浪人を選んだんや。」
「彼女さんいらっしゃったんですか!?」
「そんな、驚くもんじゃないやろ!誰だって一人ぐらいいたっておかしくないやろ。」
その言葉に、僕はテンションが下がった。一人もできたことがない僕は、人間としての価値があるかと頭の中で考えてしまった。友達が少なかった僕にとって、彼女を作るのは宝くじを当てるくらい難しいように思えていた。
「傷つけてしもうたか?」
「いや、別にそういうわけではないです。」
僕はテンションが下がっていることを隠しながら、辛うじて答えた。
「まあ、とにかく俺は高校のときに彼女がいたんや。お互い切磋琢磨して受験勉強を頑張って来た。その彼女は私立志望やった。家が金持ちで、国立に行かなきゃいけないという制限はなかったんや。俺はそうじゃなかったんやけどな。」
私立の学費は高いということを、一浪の自分もよくわかっていた。
「そんで受験して、国立は不合格だったんやけど、私立は一つだけ合格もらえたんや。俺は正直言って行く気にはなれなくて、もう一度国立に向けて勉強したいと思っとった。しかし、彼女は何て言ってきたと思う?」
「普通なら、私立受かってるわけだから、『良かったよね』と優しく言うんじゃないんですか?」
「俺も控えめに言われると思った。しかしそうではなく、『私立おめでとう!やったじゃん!これからの大学生活バラ色だね!』って。彼女は俺を元気づけるつもりで言ったのかもしれんけど、俺からしたら不愉快以外の何物でもなかったわ。」
三郎さんは当時のことを思い出して、険しい表情になった。
「国立に何とか受かって、親の負担を減らしたいって思っとった。それが、私立でやったじゃん!って。俺の経済的事情をよう知っとるくせに何言ってんねんと思ってしもうたわ。自分の家庭と重ねて言うんやから、そういうセリフになってしまうのかもしれんけどな…。」
話を聞いていて、僕も怒りが湧いてきた。我が家も経済的に余裕はないため、簡単に私立に行けるわけではない。私立大学に行ったら大きな借金を背負うことになるのだ。
「だから俺は、自分の考えと向き合って、『国立目指したいから浪人する』って彼女に伝えたんや。そしたらとても驚いたようで、『何言ってるの?もったいないじゃん。浪人とかまじ信じらんない!見損なったわ!』って大声で怒鳴られて、俺の元を去っていった。それ以降、彼女とは会ってないんやけどね…。」
そんな過去があったのか。僕は三郎さんに対して同情しかできなかった。「浪人=悪」と見なされるのは僕にとって我慢ならないことだった。浪人したからといって、人生は終わっていない。勉強して、大学に受かることもできる。まだ可能性はあるのだ。二浪の自分だけど、なぜかその気持ちはまだあった。大学に行くことに疑問を持っているのに、何を考えているのだろう。というか、自分もかつて「浪人=負け」と考えていたことに、情けなさを感じた。
「だから二郎ちゃん、くれぐれも周りに流されたらあかんで!自分の心と相談して、自分で道は切り開いていかなきゃあかん!」
三郎さんは力を込めてそう言った。
相手の言葉で影響され、流されることはよくある。テレビで有名人が何か訴えていたら、多くの人は耳を傾けるし、自分たちの心が刺激を受ける。たとえ危険思想であっても、やり方次第で相手を思い通りに動かすのは可能だ。
有名人に限ったことではない。尊敬している先輩や仲の良い友達に言われたことは、少なからず真に受けるだろう。正論の場合もあれば、そうでない場合もある。言われた相手が仲間であっても、彼女であってもだ。同窓会での高橋さんの司会ぶりもこれに当てはまる。
そう、三郎さんの言葉にも当然流されてはいけない。僕に間違った思想を植え付けて、間違った方向に向かわせていることもあり得るのだ。だから自分の心と相談して、行動しないといけない。結局は自分次第なのだ。だけど三郎さんのことは信頼しているし、言っていることは正しかった。そういう意味で、三郎さんのセリフは素直に受け入れられた。
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「相手に流されちゃあかんで!」という言葉は、僕の心に深く刻まれた。二浪の自分は何とか這い上がって生きていかないといけない。そのためには、自分としっかり向き合わないといけない。そう思っていた矢先に転機が訪れた。
次の日、僕は太陽の眩しさによって目が覚めた。オープンキャンパス以来早く起きることを心がけていたから、最近は同窓会の次の日を除き、しっかりと体の電源ボタンをオンにできていた。
その日の午前中は少し勉強して、午後は久しぶりに髪を切りに行くことにした。髪は長くなっていて、しかもまだ暖かいということもあって汗っぽく、痒くてたまらなかった。ファッションにそんなにこだわりはないから、千円カットの店に行って適当に、「ここらへんは短めで」という感じで頼んで切ってもらった。バリカンは使わず、ハサミのみで切ってもらった。バサバサと素早く切るため、時々痛みを感じることがあったが、その痛みは頭の痒みによって緩和された。体には、服に髪の毛がつかないようにシーツみたいなものが敷かれている。手はその下にあるから、痒くても頭を掻くことはできず、我慢しないといけなかった。その代わりにハサミが痒いところにぶつかることで、「痛い」というよりは「いたきもちいい」という感じになる。それが何とも好きだった。
最後に掃除機で頭の毛はグシャグシャにされるが、そのときも散髪している人が代わりに僕の頭を掻いてくれるため、目を閉じてリラックスできた。そのとき、掃除機の音にかき消されながらも、ポケットから振動の音がした。音のリズム的にはLINEだ。普段は来ないので珍しく思って気になったが、スマホを見られるまで我慢するしかない。
散髪屋を出て、スマホを開いた。
「どうかな?答え待ってるよ〜」というコメントがトップに出ていた。相手はまさかの坂本さんだった。同窓会も終わり、特に関わることもないと思っていたが、向こうから連絡が来たのでびっくりしてしまった。
僕は近くのベンチに座り、LINEを開いた。
馬鹿と言ってはいけない。しかし、無駄に長い文章がずっと続いていて、読むのに労力が必要だった。要約してみると、「僕に予備校へ一緒に行かないか」と誘っているようだった。
さらに読み進めていくと、高橋さんも一緒に通うと書いてある。そんな状況で、僕にも来ないかと誘いが来たのだった。
予備校。それは昨年、僕が勉強の本拠地としていた場所だ。当時はまだ仲間がいたから、人目を気にすることなく通えていたけど、二浪になった今、行くことに恥ずかしさがあり、今の勉強場所は我が家かどっかのファミレスになっていた。
個人的に気になっていた二人と、一緒に予備校に通えることに心が踊ったけれど、前日に三郎さんの話を聞いた直後だった。昨年は予備校で成功しなかったから、今年また予備校に行ったとしても、金の無駄遣いになってしまうのではないか、家の生計が立てられなくなるのではないかという考えがあった。一方で、二人といることで刺激を受け、勉強をがんばれて、晴れて目的の大学に合格できるかもしれないという考えもあった。どっちの考えが正しいかはすぐに決められなかった。
坂本さんのコメントをたどると、下に二人が通う予定の予備校の名前が書いてあった。まさかの僕がかつて通っていた予備校と一緒だった。一回やめたのに、また通うのもどうかと思った。しかし、二人と一緒に勉強するという、またとないチャンスでもある。一人での勉強を取るか、彼女たちを取るか。
別に彼女たちを狙っているわけじゃないけど、一緒にいるだけでもパワーをもらえる気がした。それが勉強の意欲向上につながってくれれば理想だ。しかし、彼女たちに気を取られて、勉強に集中できなくなる恐れもある。僕は女子生徒と高校時代会話したことがほとんどなかったため、近くにいたらドキドキしてしまうかもしれない。予備校に通うことが吉と出るのか凶と出るかはわからなかった。
そもそも、予備校に通うとなれば母親にも相談しないといけないため、この問題は家に持ち帰らないといけない。そう思ってスマホを閉じ、家に帰ることにした。
家に帰る途中、天気が急に変わり、雨が降り出した。今日は勉強をするために外出したわけではなかったため、勉強道具はほとんど持っていなかったが、体が濡れて風邪をひく恐れもあるため、リュックから折りたたみ傘を急いで取り出した。
歩き出すうちにどんどん雨は強くなってきた。リュックが濡れるのは嫌なので、前に背負って傘を前に向けて歩くことにした。突然の雨のためか、前方から走ってやってくる人もいたので、前方には注意が必要だった。
何とか家の前まで着いた。しかし、なぜか家の電気がついていない。母親は今日出かけないと言っていたのに、どうしたのだろうか。そのとき、前に見たあの悪夢が頭によみがえってきた。あれはもう一ヶ月くらい前の夢である。そんな昔の夢なのに、状況が同じだったからなのか、鮮明に思い出してしまった。 あのとき、部屋の扉は開いていた。中には今までの面影が消え、狂った母親が僕を殺そうとしてきた。僕は急に汗をかき始めた。まさか夢の内容が実現するのではないかと思ってしまったのだ。坂本さんからのLINEで予備校の誘いが来た。予備校に行くにはお金が必要で、決して楽な投資ではない。僕が予備校に行こうかと安易に考えていたことによって、魔のシチュエーションが作られてしまったのかもしれない。
汗だけが増えて何もできなかったが、家の扉が開いているかを確かめないといけなかった。ドアノブを触るだけでも勇気が必要だった。なかなか触れなくて、心の余裕だけがなくなっているところで、後ろから声をかけられた。
「二郎、帰ってたのね。」
後ろを振り返ると母親がいた。いきなり声がしたので、心臓が飛び出そうなくらいびっくりしてしまった。
「そんなにびっくりしなくたっていいじゃない。ちょっとそこのコンビニへ行って、振込を済ましてきたところよ。」
そう言って母親はドアノブをひねった。扉はすんなりと開いた。
「開いてるんだから、入ればよかったのに。開いてるの確かめなかったの?」
母親は何事もなかったかのように僕にそう言い、中に入って行った。夢と同じシチュエーションだった。僕は怖くて確かめられなかったけど、本当に扉は開いていた。開いているのがもしわかったら、僕はさらに恐怖に襲われてしまっただろう。中には絶対入れないと思った。幸い何もなく、家の中は明るくなった。松枝家の平和は継続されることとなった。
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「いいんじゃない?お金は出すわよ。」
母親は、僕が予備校に行っていいか聞くと、すぐにこう答えた。
「同窓会で友達がいたんだって?それなら予備校でもがんばれるわよね。」
友達がいて予備校に誘われた、と僕は言った。それはまさに昨年と全く同じ理由だった。だから怪しまれなかったのかもしれない。それに、ずっと家にいても良くないという考えを母親は持っているようだった。
「前行ってた予備校でいいの?」
「うん。」
「同じ先生、まだいらっしゃるかもしれないわね。またお世話になるから挨拶にでも行こうかしら。」
「そんなことしなくていいよ、先生たち忙しいんだし。それに、僕はそんなに目立った生徒じゃなかったから、また行ったところで気づかれるかわからないよ。」
「あら、そうなのね。じゃあ私はただ二郎を応援し続けることにするわ。」
母親はそう言って、夕食の支度を始めた。お金が大丈夫なのかと思っていたけど、母親に頼んだら案外すぐに通ったのでほっとした。母親は一生懸命働いているけれど、僕には疲れを見せない。その精神力の強さには頭が上がらなかった。
僕は予備校に行くか迷っていたけど、結局行くことに決めてしまった。ちゃんと考えずに決めてしまった。せっかく三郎さんに「相手に流されたらあかんで!」と言われたのに、坂本さんに誘われて、予備校に通うことになったのだった。即決したことに対する申し訳なさはあったけど、それと同時に予備校に行くからには受験を頑張らないといけないと強く思うことができた。
九月も終わりに近づいていた。思えばオープンキャンパス以降、いろんな人と出会った。それが受験に良い影響を与えてくれたらいいなと思う。
家の最寄りの駅から電車で二十分くらいの町田駅に、予備校はあった。改札を出ると、目の前に大きな看板が掲げられている。「大手」の予備校であることを、これでもかというくらいアピールしているように思えた。そこそこ開けている場所で、ファーストフード店、ファミレス、居酒屋、カラオケなど、一通りの店がそろっている。予備校に通っていた昨年は、仲間たちとカラオケに行ったり、ボーリングに行ったりしていた。
「浪人で悔しくないのか!」と仲間に訴え、語り合ったのもここだった。一浪時代の大半を過ごした場所。もう来ることはないと思っていたが、半年ぶりに第二の故郷とも言えるこの地に帰ってきたのだ。
半年経って、雰囲気が変わったような気がする。理由はすぐわかった。店は一杯並んでいるものの、いくつかの店は前と違う店に変身を遂げていたのだ。夜食を買うためによく通っていたお気に入りのパン屋がかつてあったのたが、今は聞いたことのない名前の居酒屋に変わっていた。人気があるかないかで、店はどんどん自然淘汰されていく。いつまでも変わらないということはありえないのだ。自分も何らかの形で変身をするのだろう。周りから立派に思われる大学生か、あるいは周りから冷たい目で見られるニートか、はたまたそれ以外か。自分がどうなるのかは、半年後に決まることになる。
予備校の入口の前に来た。久々に中に入るため、若干緊張した。自分がまた、この場所に帰ってきて良かったのか。心の中で問いかけ直した。
すると、後ろから明るい声で呼びかけられた。
「松枝くん、ヤッホー!」
坂本さんと高橋さん、あともう一人、茶髪の見知らぬ男が一緒にやってきた。
「塾に行くって何か緊張するわね。」
坂本さんはそう言った。
「でも、やらなきゃって言う気持ちになるわね!」
高橋さんは意気込んでいる力のある声だった。
「やべーな!俺、ここに来ただけで頭良くなっちゃったかも!」
見知らぬ男がテンション高めでそう言った。話したことはなさそうなので、どんな人物か分からないが、最初に聞いたこの一言で、僕とは相性が合わなそうだと瞬時に判断してしまった。人を見た目で判断するのはあまりよろしくないけれど…。
「あ、君が二浪の二郎くん?どうも!俺、エリート大学に入るために受験勉強頑張ることにしたんだ!丸尾徹、これから頼むよ!」
丸尾徹。聞いたことのない名前だ。いきなり自分の名前をいじられたので、イラッとしてしまった。そして、やはり言葉からしてチャラそうだ。チャラい人は好きではない。見ていてうざいと感じてしまう。丸尾という人は、僕と相性が悪そうだ。
そうこうしているうちに、塾の説明会の時間が近づいてきた。僕ら四人は一緒に中に入って受付を済ませ、教室に入った。僕にとっては、かつて合格を夢見て奮闘した懐かしの教室だった。しかし塾をやめてから半年が経ったことで、見慣れた教室なのになぜか新鮮な感じがした。
教室に入ると、僕ら以外にも何人か生徒が座っていた。制服を着ていたため、おそらく現役の高校生だろう。自分よりかなり年下に見える。よくよく考えてみれば、高一と二浪では四つも学年が違う。その現実に気がつき、自分は高校のときと比べて随分年を取ってしまったんだなと感じた。
説明会担当の先生が入ってきたとき、「松枝くんじゃないか!」と大きな声をかけられた。いきなり自分の名前を呼ばれたため、驚いた拍子に椅子から転げ落ちそうになった。あまりの驚きぶりに、丸尾くんは大爆笑した。坂本さんと高橋さんもクスクスと笑っている。僕はものすごく恥ずかしくなった。
声をかけてきたのは、僕が昨年教わっていた、数学の先生である津島元気先生だった。まだ年齢も若く、生徒との距離感も近い。気軽に相談に乗ってくれる頼りになる先生だ。名前の如く元気がありすぎて圧倒されるけど、先生の熱血の授業は聞いていて価値がある。そういう先生だと知っていたけど、半年ぶりだからすっかり忘れていた。
僕は驚きすぎて何も口にできず、津島先生はその様子を笑顔で見ながら教壇に向かって進んでいった。満面の笑みなので、まるで「僕を驚かせる」というミッションが成功して満足しているようだ。
説明会では、この塾がどのように生徒をサポートし、授業していくかを説明し始めた。僕はすでにお世話になっていたから、大体のことは知っていて、聞く必要はほとんどなかった。坂本さんと高橋さんの二人は、初めての塾なのか、真剣に先生の話を聞いて、必要な箇所はメモを取っていた。丸尾くんはといえば、先生の話が始まったと同時にコックリし始め、やがて動かなくなった。さっきまでの元気はどこへ行ったのだろうか。僕は呆れながらも、気にかける必要もないと思い、先生の話に集中することにした。
予備校。つまり進学のための塾というのは、生徒を合格させることはもちろん、合格者を増やして、いかに我が予備校が優れているか、いかに我が予備校に通った生徒が優秀であるかを世の中に知らしめようとしているように思える。もちろん実績が良ければ、それを聞いてもっと勉強に熱心な生徒が通いに来てくれて、実績はより良くなっていくだろう。それは同時に、塾が授業料をより多く集めることに繋がる。
僕は、働くことがどういう感じなのかはわからない。しかし電車に乗っていて、疲れ果てて電車で死んだように爆睡しているサラリーマンを見ると、良いイメージを持つことはできなかった。各々生きるために、自分の家族を支えるために、お金を稼いでいる。
塾も長年経営を続けるために、存続し続けるために、合格実績をあげようと力を入れている。それは良いことだろうけど、自分の塾の良さを全面にアピールすることで、意地でも生徒をむりやり自分の塾に入れて、自分の塾のやり方を生徒たちに染み込ませて、合格させて、社会に送り出そうとしている。まるで、生徒を店の商品のように扱っているのではないかと思った。普通の高校生は、こういうことを考えないだろう。塾に通っていたのに受験に失敗し、自暴自棄になったときに、僕は塾に対して好意的な印象を持てなかった。だから塾に対して、こうした悪いイメージを持っているのかもしれない。
そう考えていたときにふと「それなのになぜ、自分は塾に通うことにしたんだろう?」と自問することになった。塾のことを良く思っていないのに、どうして自分はまた、高い授業料を払って、家計に負担をかけてまで通うことにしたのだろう。よくよく考えたらおかしくて、矛盾した話だった。
塾に対する不満の気持ちは、いつの間にか自分に対する哀れな気持ちに変化していた。そのとき、三郎さんの言葉をまた思い出した。
「くれぐれも周りに流されたらあかんで!」
僕は流されたのだろうか。気になっていた女子二人に。僕は間違った道を進み始めてしまったのではないかと思ってしまったが、今から引き返すわけにもいかない。
「自分は流されていない。」そう言い聞かせて、説明会を乗り切ろうと努力した。
(続く)




