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まさかの正夢  作者: 柿田修ニ
2/16

自分という人間

【1/15】


1


「ピッ」という音ともに数字が出てくる。それが何とも言えない快感となって、僕を楽しませる。

 数字が音ともに出てくることに何の喜びがあるのかと思うかもしれない。というか、そんな状況がよく起こり得るのかと思うかもしれない。

 僕は日常生活で、その快感を味わっている。しかもほぼ毎日、その快感を味わえるから最高だ。

 誤解しないで欲しいのは、僕だけが「音と数字の融合」の瞬間に出会えるわけではない。普段外出している人であれば、誰でもその瞬間に出会うことができる。単に多くの人は、その瞬間を特別だと思っていないだけである。

 大手の予備校で実施されていた模擬試験を終え、僕は電車に揺られていた。景色などには目もくれず、僕はスマホの画面に映るツイッターのタイムラインに視線を集中させた。

 今は八月。周りは夏休みで、暑い日が続いていた。車内は冷房で冷えていて、乗っていて快適だった。さっきまで気持ち悪かった体の汗が一気に冷え、僕の体をより冷たくした。

 ツイッターのフォロー数はフォロワー数の三倍。つまり、僕のツイッターアカウントを見ている人の数よりも、僕自身が見ているツイッターアカウントの数の方が圧倒的に多い。友達が多くないから、僕のつぶやきを見ようとする人は少なかった。

 しかも、僕のツイッターアカウントの名前は「JR松江」で、このアカウントが僕であることを知る人は少ない。「JR」と聞くと、誰もが電車関係のアカウントだと思うかもしれないが、実際はそうではないのだ。

「みんな楽しそうにしてるなー。」

 タイムラインを左手の親指で動かしながら、僕はぼそっと呟いてしまった。隣に立っていた人が一瞬こちらに視線を向けたので、申し訳なさそうに軽く会釈しながら視線を再びスマホの中のツイッターに戻した。

「まもなく、桜ヶ丘です。」

 車掌さんの声でツイッターの世界から我に返り、スマホをポケットの中にしまった。自分の最寄り駅に到着しようとしていた。スマホに夢中になっていると、電車から降りることを忘れてしまいそうになることがある。今回は何とか早めに気がついたおかげで、電車賃を余分に払わなくて済みそうだ。

 電車を降りて階段を登り、改札口を通過する人たちの列に加わった。意外と改札口は混んでいて、スムーズには通れなかった。

 周りのサウンドがたくさん聞こえる中、僕はICカードを改札機にタッチした。「ピッ」という音が鳴る。そう、この瞬間が僕にとっての快感だ。その音と一緒に、画面には残金が表示される。

「引去額:247円、残額:817円」という表示が見えた。後ろの人がすぐに改札口を通ってしまうため、画面はすぐに次の人の残高画面に切り替わってしまう。だから、しっかり画面を見ておかないといけなかった。

「247か。」

 僕は頭の中にその数を思い浮かべた。

「これは簡単だ、13で割り切れる。247=13×19。素数っぽいけど素数じゃない典型的な合成数だ。」

 頭は自然と数字を素因数分解していた。僕はとにかく数字が好きだ。数字を見ると、その数がどんな数なのか考えてしまう。素数なのか、そうではないかとか。

 あと、ニつの数を見ると足し算や引き算、かけ算などをしてしまう。それだけ数字が好きだから、周りからは変に思われていた。

「そんなことを考えて何が楽しいの?」とよく聞かれるけど、理由はなかった。「ただ楽しい」から考えるのだ。

 改札口を出ると、自分が空腹であることに気がついた。勉強や試験の後は、体を動かしていないのにも関わらず、食欲がものすごく湧いてしまう。そのうち太ってしまうのではないかと思った。しかし食欲を抑えきれず、僕は近くにあるラーメン屋に入った。

 ラーメンを口に頬張りすぎてしまい、やけどをしてしまった。水を無駄にたくさん飲み、お腹が満腹になってしまった。同時に眠気が僕を襲った。このまま座っていると意識が飛びそうだったため、急いで立ち上がってレジに向かった。

 レジに行くと、僕と同じくらいの若い女性の店員さんが笑顔で対応してくれた。

「556円です!」という元気な声に僕は目を覚まされた。同時にお金を払わないといけないため、急いで財布を開いた。千円札を出したその時、僕は頭の中で何かピンとくるものがあった。

「このままではいけない…!」

 僕はポケットから急いで小銭を取り出した。

「千円でよろしいでしょうか?」

「ちょっと待ってください!」

 僕は店員さんの言葉を遮るように声を出した。あまりにも大きな声を出してしまったため、恥ずかしくなった。

「これもお願いします。」

 僕は落ち着きを取り戻そうと言い聞かせながら、ゆっくりと小銭を差し出した。

「1111円でよろしいですか?」

「はい、それでお願いします。」

 店員さんは確認しつつ、レジのボタンを操作した。次の瞬間、店員さんは笑顔になった。

「555円のお返しです!」

「ありがとうございます。」

「それにしても、お客様すごいですね。」

「何がですか?」

「1000円ではなく、1111円を出すお客様はなかなかいませんよ。」

「あ、そういうことですか。1000円で払うと、おつりが444円になってしまって、小銭が増えてしまうんです。渡す側ももらう側も大変ですからね。」

「確かにそうですね!それを一瞬で考えられるなんてすごいです…!」

 店員さんはすごく嬉しそうだった。その笑顔に、僕は思わずドキドキしてしまった。よく見ると、どこかで見たことがある顔な気がしたけど、誰かはわからなかった。店員さんに最高の笑顔で褒められ、僕はハイテンションのまま店の外に出た。

 外に出ると、さっきまで晴れていた空から雨がこぼれ出していた。せっかくテンションが高かったにも関わらず、すぐに急降下してしまった。鞄の中に折り畳み傘が入っていたため、それを出して雨の中を歩き出した。

 

 歩くごとに、どんどん雨は強くなった。大雨の中、僕は早く家に帰るために歩くペースを上げた。不意打ちとなる夕立で、幸い折り畳みの傘は持っていたものの、小さくて鞄がどうしても濡れてしまう。鞄を胸に抱え、身体を縮めて歩いた。教科書や参考書が入っているため、なるべく濡らしたくなかった。雨で濡れて、教科書がシワシワになる様を見たくなかったのだ。

 雨だとわかっていれば、あらかじめビニール袋の中に教科書を入れておくことで、中で濡れる心配はない。朝の天気予報で雨が降るかどうか確認して、教科書の変わり果てた姿を見ないようにいつも気をつけていたのだが、今日は失敗だった。

 雨が降っているからだろう、外はすでに暗くなっていた。何とか家にたどり着いたが、中はまったく電気がついていなかった。母親は帰って来ていないのだろうか?

 しかしドアノブをひねると、鍵は開いていた。不審に思いつつ中に入った。

「ただいま。」

 僕はそう言ったが、中からは返事がない。暗くて何も見えないので電気をつけると、部屋は散らかっていた。いつも母親がきれいに使っている台所も、引き出しが中途半端に開いていた。

 これは、もしかしたら空き巣に入られたのかもしれない。警察を呼んで調べてもらおうかと電話の方へ向かった。すると隣の部屋で、何やら物音が聞こえた。泥棒がまだいるのかもしれない。逃がしちゃいけないと思って勢いよく扉を開けたら、そこには母親がいた。僕の方に背を向けて立っている。

「帰ってたの?返事しないとわからないじゃん。」と僕はそう言ったが反応がない。

「ねえ、空き巣が入ったみたいなんだけど大丈夫かな?」

 そう言ったとき、僕は母親が右手に何か光るものを持っているのが見えた。母親がいる部屋はまだ電気がついていなくて、はっきりとは見えなかった。

「入ってないよ…。」

 弱々しい声が返って来た。明らかにいつもの母親ではなかった。そして、母親が動き出した時、僕の心臓が動揺した。電気の灯りで、光るものが包丁だということがわかったのだ。

「もう限界だよ。」と力を込めて母は言った。

「お母さん、どうしたの?落ち着いて!」

 僕は母親のもとへ近づいた。母親は、包丁を僕の方に振りかざしてそれを制した。

「もうこれ以上生活していくのは無理だよ。お母さん、仕事クビになってね。溜まっている借金が返せなくなったんだよ。もうお前を養うことはできない。」

 お母さんに「お前」と言われたのは、人生でこれが初めてかもしれない。

「お前には気づかれずに死のうと思ったんだけど、見られてしまったから仕方ないね。」

「仕方ない…?」

「お前ももう、どうせ生きていけないんだ。お母さんと一緒に来世でがんばろうよ。」

 母親が僕に包丁を向けて近づいてきた。

「待って!落ち着いてよ!僕はまだ生き続けたいんだ!」

「もうこれ以上勉強したって意味ないでしょう。ろくな大学には行けないよ!行ったとしても何も助けてあげられないからね!」

 母親の声がとても恐ろしく聞こえた。僕は隣の台所へ逃げた。しかし散らかっているためにうまく歩けない。下に野菜の皮が転がっていて、それに滑って転んでしまった。

「今の人生、これ以上楽しくはならない。こうして楽に逝った方がましだよ!」

 母親の言葉に何も言葉が出なかった。転んだときに腰を強く打ったのか、身動きが取れない。母親の持つ包丁が近づいてくる。

「やめて、お母さん…やめて!」

 心臓の鼓動が早くなった。母親の顔はもはや母親の顔ではない。誰か恐ろしい人間が母親に憑りついているようだった。

 家の近くで雷が落ちた。大きな音と同時に家が真っ暗になった。停電になったのだ。暗くて周りがよく見えないけど、唯一自分の体に迫る光るものだけが見えた。

「やめて…!」

 もう母親の顔や表情はわからない。光るものが自分を襲ってくる。

「あー!」


「痛てぇー!」

 声を上げた途端、暗い景色は消え、周りは明るい電気に包まれていた。声の反動で体が勢いよく動き、壁に思いっきり頭をぶつけた。

「痛てぇー!」

 同じ言葉を二度発してしまった。視界がぼやけていたけど、やがてはっきり見えるようになってきた。

「お客様、周りのお客様のご迷惑になりますので静かにしてください。」

 少し嫌そうな顔をして人が通り過ぎて行った。雨は降っていないし、停電もない。そして母親もいない。僕の周りには勉強道具があちらこちらに散らばっていた。どうやら僕は夢を見ていたらしい。ファミレスで勉強中、いつの間にか寝てしまっていたのだ。

 冷房が効いていて涼しかったにも関わらず、体中汗びっしょりだった。こんなに恐ろしい夢を見たのは久しぶりだった。夢で本当に良かったと心から思う。

 周りの客が僕のことを見ていた。大きな声を二度も、しかも奇声のような声で出してしまった。意識して出したつもりではなかったが、周りからの視線でとても恥ずかしく思い、体が余計に暑くなった。全身から汗が止まらなかった。


2


 僕の名前は松枝二郎という。二郎という名前だから兄がいるが、名前はなぜか「太一」だった。僕は今、大学に入学するために浪人中である。昨年も実は浪人生活をしていたのだが、どこの大学にも合格できず、自動的に二浪生活になった。大学に通う友達に「名前を『二浪』に変えた方がいいんじゃないか」と言われ笑われるが、笑える話ではない。二郎という名前だから二浪したのではないかと思ってしまう自分がいた。

 昨年まではちゃんと予備校に通っていた。浪人仲間も周りに何人かいて、お互い張り合える関係だった。しかし僕以外は皆一浪で予備校を飛び立ってしまい、予備校での自分の居場所がなくなってしまった。

 また、両親は三年前に離婚した。父親は仕事で忙しく、ほとんど家に帰ってこなかった。家に帰ってくると、僕や母親を荒く扱ってきた。仕事でのストレスなのか、父親はいつもイライラしていて、家の中の雰囲気はよくなかった。結局母親は離婚を決意。僕と兄を連れて、今住んでいるアパートに移って来たのだった。

 離婚により、残った貯金だけでは生活が厳しいため、母親はパートをすることで生計を立ててくれていた。兄も大学生の間はバイトをして生計を支えてくれていたが、今年の春に大学を卒業し、アパートを出ていった。今は母親のパートだけでの生活となり、予備校も今年からは行かなくなった。今は家やファミレスなどで勉強している。

 僕も生計を支えるためにバイトを始めようかと思ったが、母親は「二郎は大学に行くためにバイトはしなくていいの。お母さんが何とかするから。」と言ってやらせてくれなかった。早く息子が大学に入学し、社会に出て活躍して欲しいという願いからなのだろう。

 母親は、僕に大学に行ってほしいと強く願っているみたいだが、僕は大学に行ってから何をしたいのか、全然決まっていなかった。勉強もそんなにできる方ではなかったし、スポーツも得意ではなかった。中学のときに少し卓球をやっていたが、練習が厳しかったのと、試合で勝てなくて嫌になってしまった理由で、一年くらいでやめてしまった。

 高校もそのまま近くの平凡な学校へ行った。そこでは部活動に所属せず、帰宅部のままだった。大概の人が部活動に所属し、切磋琢磨してがんばっていたのだが、自分にはそれが向いていないと思った。そもそも自分は相手と話が合わない。合わないというか、続かないのだ。

 部活をやっていれば、その競技に関するトークができる。同じ趣味がある人と出会えば、その人とその趣味の話題で熱く語り合うことができる。勉強が好きな人同士であれば、好きな科目とか苦手な分野とかについて話ができるかもしれない。僕はそういう会話ができなかった。周りが盛り上がっている雰囲気の中に、自分は溶け込めなかった。

 特に楽しい思い出もなく高校生活は終了した。しかし入試では上手くいかず、他の人とは違って大学には行けなかった。こうして浪人生活に突入した。浪人すれば勉強もたくさんして、良い大学に受かるだろうと思っていたが、その考えはすぐに裏切られた。自分が何のために勉強しているのかよくわからず、モチベーションは一向に上がらなかった。

 そんなとき、浪人している僕の数少ない友達から、「予備校に一緒に行かないか?」という誘いが来た。予備校には高校三年生、つまり自分たちより年下の生徒が多いということで、僕にも一緒に来てもらいたかったらしい。僕は母親に相談した。

「いいんじゃない?家にいるよりも勉強がはかどると思うし。お金のことは心配しないで。」

 母親はそう優しく言ってくれた。こうして僕は予備校で勉強することになったのだが、今の僕の生活を見ての通り、入試は結局失敗に終わってしまったのだった。

 二回も失敗するとさすがに気持ちが萎えてしまうが、大学に入ることで、母親には何とか喜んでもらいたいたかった。だから就職はせず、未だに浪人生活を続けている。今のところ、母親には迷惑しかかけていない。働き過ぎて疲れているのに、僕には優しく接してくれている。それが本当に有難いし、同時に申し訳なく感じた。

 そんな僕だったが、一つだけ取り柄があった。暗算だ。

 筆算を使わずに、頭の中で計算ができる。たし算、ひき算、かけ算、わり算は一通りできる。小学校の頃からそろばんを習っていて、今も時々自分で練習することがある。数字を見るのが好きで、僕の唯一の趣味といえるかもしれない。人前で計算して周りから「すごい!」と言われるのが、昔は嬉しかった。人より優れていたいと思うようになった。

 暗算は、そろばんを習っていればできるようになる。小さいころの記憶はほとんどないけれど、夢中になって練習していたことはわずかに覚えていた。小学校高学年の時には全国大会にも出場した。あの頃が僕にとっての全盛期だったのかもしれない。中学で卓球部に入ったために練習回数が減り、同時に実力も落ちていった。実力が落ちると練習する気がなくなってきて、やがてそろばん塾をやめてしまった。しかし、なんだかんだ今でも気晴らしに暗算の練習をしているから、自分には暗算をすることが適しているのだろうと思う。

 そろばん、暗算といった類のものを、周りの人はやっていない。だから話ができる相手がいなかった。確かに暗算を披露したらすごいと言われるけど、それで終わりだった。それ以上会話が膨らむことはまずなかった。

 周りの人と話さなくなって、他人と関わることも避けるようになった。自分は何のために生きているのかもわからなくなってしまった。今は家やファミレスなどに行って勉強しているけど、勉強に身が入ることはそれ程多くなかった。捗らないことがほとんどで、ぼーっとして時間が過ぎることも多く、決してメンタル的に良好な状態ではなかった。そんな矢先に例の恐ろしい夢を見てしまったのである。あれが正夢になってしまうのではないかと不安になってしまった。


3


 ツイッターは、一浪時代に予備校に通い始めたころから使い始めた。「周りの浪人仲間もやっていたから」というシンプルな理由だった。皆、受験勉強をしているとストレスがたまって、色々と思うことがあるのだろう。「美女と遊びに行きたい」、「彼女が欲しい」といった内容がタイムラインにたくさん流れていた。僕自身はそんなに投稿回数は多くないけれど、勉強に集中できなくて疲れたときに、ストレス発散代わりに投稿していた。

 そういえば、ツイッターの名前が「JR松江」なのは、名前の「じろう」の子音であるJとRと、名字の「まつえだ」から「まつえ」を取っているのである。松江は島根県の県庁所在地である。「JR松江」という名前は実在しないけれど、アカウント名を実名にしたくなくて、何か良い名前はないかと考えていたときに、偶然この名前が思いついたのだ。浪人仲間には名前が変だと笑われたが、個人的にはとても気に入っていた。

 八月ということもあり、電車の中は家族連れが結構いた。僕の家は江ノ島から電車で三十分程なので、海からそんなに遠いわけではなかった。そのため、電車の中でビーチサンダルを履いた子供たちが楽しそうにはしゃいでいる様子をよく見かけた。海に行った後なのだろうか、ビーチサンダルが動くごとに「ジャリジャリ」という砂の音がしていた。おまけに、雨でもないのに床は濡れていた。鉄道会社からすると車内を汚されるわけだから、大層迷惑だろう。車内清掃が後で大変そうだ。喜びの裏には苦労がある。そんなことを考えていた。

 僕は暑いのが苦手のため、外で遊ぶのは昔から好きではなかった。それに夏だと日焼けをして、体がヒリヒリするから嫌なのだ。だから暑いときは、涼しい部屋でのんびりと過ごしたい。その気持ちはもしかしたら、いや、もしかしなくても、海に遊びに行く仲間がいないことの言い訳にもなるのだった。

 最寄りの隣の駅にあるショッピングモールに向かった。そこには本屋や文房具屋が揃っていて、勉強道具を仕入れる絶好の場所だ。店の中は涼しいし、そんなに混んでいなかった。僕は「周りの同級生たちが外で楽しく遊んでいるんだろうな」と勝手に妄想していた。

 過去問を解いたり問題集を解いたりするときに使うノートと、アンダーラインを引いたり大事なことをメモしたりするのに使うボールペンを買いに来ていた。ついでに本屋にも寄ることにしている。あまりコストをかけたくないから、ノートは五冊まとめて百円というお得なものを選んだ。別に柄にはこだわりがないから、ページ数が充実していればどれでも良かった。ボールペンも何色かついているものを選んだ。七十八円と二桁の値段だからとても安いと思い、つい二本も買ってしまった。それ以外に買うものもなかったため、そのままお会計をすることにした。全部で256円。それに消費税8%分がつくから276円だ。レジの人よりも先に計算し、うまい具合にお釣りがもらえるように財布の中を指が忙しく動き回る。「276円です」と言われたと同時に306円をその場で出せたら、何とも嬉しい気分になる。まあ早く出せたとしても、店員さんには商品を袋に入れる作業があって、それが終わった後にお会計の作業をやるから、早めに出したとしてもさほどメリットにはならない。むしろ早くお金を出されると、店員さんも急いで作業をしないといけなくて焦ってしまうかもしれない。それを知りつつも、なぜかお金を早く出すことに拘っていた。変な癖が子供のころから身についていた。

 買い物を終え、本屋で立ち読みすることにした。買うことはしない。買ったらさらに本を買いたくなってしまうからだ。お金のやりくりで母親に苦労させているというのに、こんなところで消費をしたくなかった。自分の手持ちのお金もそんなに余裕はなかった。

 母親からは、少しだけだがお小遣いをもらっている。それを貯めて、将来何かに使いたいと思っているのだが、明確には決まっていない。文房具などはお小遣いを使って買わないといけないため、手元に残るお金は雀の涙だった。でも、今こうして何の不自由もなく食べて生きていけることに感謝しないといけないということを、疲れ果てている母親の背中を見て思うのだった。自分は養ってもらっている。しかももう二十歳だ。ニートのような生活が続いている自分を情けなく感じている。だから、大学生にはなりたかった。大学生になって、自分の好きなことを見つけて、人生を楽しみたい。いっぱい勉強して、良い会社に就職したい。そんな熱意が自分の中にはかつてあったが、だんだんと冷めていった。勉強だけをする何気ない一日が毎日続く。外出したりすることも時々あるけれど、結局は勉強のための行動だった。勉強、勉強、勉強。そんな日が続いていた。何か気晴らしに遊んだほうが良いかもしれないけど、周りにそんな仲間はいない。かつての浪人仲間からは連絡が来なくなっていた。きっと大学デビューをして、同期の女の子たちと楽しく遊んでいるのだろう。勝手な妄想をして羨ましく思いながらも、何もできない自分に嫌気が差していた。

「働き方が変わる」、「これからの新しい生き方」、「人生を楽しもう」。そんなキャッチフレーズが本屋の入口付近に書かれていた。今流行りの本が何冊も置かれていた。AIとかIoTといった、聞いたことがあるけどよくわからない言葉が最近出てきているが、私たちの生活を大きく変えるらしい。IoTと言われても、何がなんだかよくわからない。文字の形を見ると、襖から泣いた顔が覗いているようにしか見えなかった。

 本屋の人気書籍をパラパラめくっていると、大学で勉強して、就職して、安定した生活を送るというのも、今後は非常識になると書いてあった。そんな話は大学にすら入っていない自分には関係のない話だと思った。大学に行かなかったら将来何もやっていけないだろう。やりたいことが見つかっていない自分は、社会からかけ離れた場所で今日を生きている。

 目立って表示されているキャッチフレーズに誘惑されてはダメだと思い、本屋にはあまり立ち寄ることはせず、家に帰ることに決めた。ショッピングモールを出ると、真上から太陽の熱が体全体にじわじわと染み込んできた。中と外の気温差が激しくて、頭がクラクラしてしまう。雲一つない快晴で、道路は完全に脱水症状を起こしていた。暑すぎるせいか、少し遠くの道路が滲んで見えた。

 早歩きで駅へ向かい、電車が来るのを待つ。そのとき、後ろから声をかけられた。

「おお!松枝じゃないか!」

「おお!山本じゃないか!」

 同じ言い回しで言い返してしまった。昨年浪人仲間だった山本一二三が立っていた。体は日焼けをしていて一瞬誰だかわからなかったが、顔つきと声で、若干のタイムラグがありながらも、目の前にいるのが山本であることがわかった。

「久しぶり!元気にしてたか?」

 山本はとても笑顔で聞いてきた。

「まあ、相変わらずだよ。山本こそ、大学生活楽しんでいるか?」

「そこそこね。ところで松枝、この後予定空いているか?」

「えっと、空いてるよ。」

 特にバイトもしていなかったし、勉強以外やることはない。予定が空いているかと聞かれたら空いているとしか答えられなかった。

「じゃあ久々だし、どっかで話でもしようぜ。」

 本屋から早めに抜け出したことにより、偶然実現した再会。駅を降りて僕ら二人は歩き出す。

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