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これが日常になる前に

作者: 松山 由真

家に帰っても一人なら、こんな風には思わなかったのかもしれないけど。

建物から出た途端に視界の端がチラついて、僕は足を止めた。道路の電灯に照らされた雪が、光り輝いて見えたのだ。


足元の氷も、その上に被さったサラサラとした雪も、今は気にならない。けれど、足を取られないように気をつけて、僕は電灯の下へと移動する。


吐き出した息が、ネックウォーマーを抜けて白く濁り、すぐに空気に溶ける。幾許かの雪がそれと一緒に消えた。


厚い手袋を忘れたが為に薄い手袋だけを履いた手に、糸の隙間から冷気が忍び寄ってくる。耳もキャップだけでは覆い隠せず、刺すような痛みが出ている。


けれど、そんなものが気にならないくらいに、それは幻想的な光景だった。


「何してんだ?」


背後から、同期に声を掛けられる。雪など彼には珍しくもなんともないのだろう。ダウンジャケットのパーカーを被り、物珍しそうな表情でこちらを見ている。


「内緒だ」


僕は笑って、手袋をした手を差し上げる。光の中で瞬く結晶を、弄ぶように。風に遊ばれ、さらには僕の手に妨害され、雪はふらふらと宙を舞う。無軌道に、舞い遊ぶ。


「あぁ、なんだ…」


同期は何がしたいのか理解できたのか、そうでもないのか、呆れたように笑う。身長が高い彼がそうやって笑うと、頭一つ分程低い僕には小馬鹿にされているようにしか感じられない。それはきっと、彼は自覚していないと思う。


「遊んでると風邪ひくぞ、遊んでないで帰れよな」


風邪なんて引くものか、と僕の少年の部分が腹を立てる一方で、明日も仕事があるからなぁ、と大人の部分がその言葉に頷く。心中会議はいつでも大荒れで、少年の僕が大人の僕に噛み付いて暴れ出す。それを感じながら、僕は同期にのんびりと返す。


「気が済んだら帰るさ」


僕の答えにやれやれと肩を竦め、彼は立ち去っていく。僕は心中で荒れる会議もそっちのけで、目の前の雪に目を輝かせる。


ここに来るまで、こんな白さは知らなかった。ここに来るまで、服についた雪が叩けば落ちるものだなんて、知らなかった。


「そろそろ帰った方がいいな」


どうやら心中の会議は少年の部分が丸め込まれたようで、そんな言葉が口をついて出る。それなら帰ろう、と僕は歩き出す。憧れて止まなかった、雪の多い道を。




僕の生まれは泣く子も黙る大都会の住宅地で、育ったのは海と川に囲まれた地の漁師町だ。


特に育った町は、肩まで雪でも足元では水溜りになる温暖な地だったので、雪は年に二回も降れば珍しく、積もって遊ぶなんて機会は無かった。雪をまともに見たのは、小学生の時のスキー教室くらいのもので、その後に見た覚えが殆どない。


まぁ、小学五年生以降は部活動が忙しかったのもあって、それ以外に目を向ける余裕が無かった事も一因かもしれないけれど。なんにせよ、干支が二巡するまで積雪やら凍った道路などというものは、両手の指で足りる程しか見たことが無かった。


だから、今の景色は、僕の目には酷く真新しく、幻想的なものに見えるのだ。


そもそも地元を離れて遥々この北の地にやって来た理由は、ありがちな事に恋人の為であった。けれども今の僕を傍から見れば、雪の無い土地から雪に憧れてのこのこやって来た温室育ちにしか見えないだろう。


「別にいいけどね」


思った事が、口から出た。もう遅く寒い時間である事が功を奏して、周囲を歩く人はいない。車の音は多いが、雪を踏んで歩く音は僕のものだけだ。誰にも聞かれた心配は無さそうだった。


いくつもの足跡の形に凍った、所謂"シバれた"道を、ザクリザクリ、とトレッキングシューズが均していく。たまに溶けかけていたのだろう氷が露出した部分を踏むと、酷く不安定な感覚になる。少しでも重心移動を失敗すれば転んでしまいそうな、そんな感覚。


なんだかこれは人生みたいだな、なんて。そんな事を思う。


先人が歩いた道を、さらに歩き易いように均して歩いていく。危うい道も気を付けて慎重に進めば、転ばずに渡りきる事ができる。油断すれば簡単に転げるし、本当はもっと歩き易い道があるのかもしれないと模索する。


けれどきっと、歩き難い、氷の上に雪が降り積もったような、そんな道の方が楽しさがある。踏んだ時に鳴る音も、その感触も、何も無いコンクリートの道よりもずっと、味わいがある。


おそらく人生だって、そんなものだろう。だからこそ、『苦労は買ってでもしろ』などという言葉が生まれるのだ。




金属製の階段の前で軽く地面を爪先で蹴って、雪を落とす。手袋が薄いので、手摺りは掴まない。今日も春夏と活躍した自転車が盗まれていないのを階段越しに確認して、上っていく。


我が家の扉を開けると、鼻歌を歌いながら料理をしている音がする。それを遮るように扉を閉める際にバタンと音がして、少し重い扉をほんの少しだけ憎んだ。


「あっ! お帰りなさい!」


「ただいま」


しかしそれで気付いたのか、彼女が台所の戸を開けてくれた。 別に同棲しているわけでもない、今日はたまたま時間があって夕飯を作りに来てくれた彼女。


「今日はオムライスにするよ、この間食べたいって言ってたでしょ?」


「あぁ、覚えてたんだ。ありがとう」


外ではまだ、雪が降り続いている。今晩帰すのは危ないかもしれない。そんな事を言えば、彼女はきっも苦笑いをしながら平気だとでも言いそうだ。


それでも一応、提案だけはしてみる。


「まぁ、私は貴方と違って、雪に目を奪われたりはしないからねぇ」


頬張ったオムライスを飲み込むと、彼女は意地悪く笑ってそう言った。いつぞや、僕が雪に見とれすぎて誤操作し掛けたのを、忘れてはいないようだった。


「心配だけは受け取っておくから、ちゃんと着いたら連絡するね」


「……わかった」


またも心の中で少年の部分と大人の部分が喧嘩を始めたが、彼女の手前もあって大人の部分の方が圧倒的に優勢だった。渋々ではあるが、頷く事にする。


「ありがとね」


照れ臭そうに笑う彼女に、僕は自分の頬の筋肉が仕事を忘れるのを感じる。大人の部分も、今は見て見ぬ振りをしているようだ。ちゃんと仕事をしてほしいものだが、今し方の功績を考えれば、仕方ない事のようにも思えた。とりあえず、心中で不問にする事にして、食器を洗うのを手伝う。


彼女が笑ってくれるのなら、僕のちっぽけなプライドよりも彼女の手伝いを優先すべきだ。別に破顔していたところで、それくらいはできるのだから。


彼女が出ていく時も、まだ雪は降っていた。駐車場まで送ると、彼女は颯爽と自宅へと帰っていった。ひとしきり車が見えなくなるまで見送って、それから帰路に就く。


一人になった途端、雪が余計に強くなったように思うが、多分気のせいだろう。あんなに強い憧れと眩しさも、彼女の前では霞んでいたのだと思う。


ふと暗い空を見上げて、落ちてくる雪に手を伸ばす。何の意味も無いけれど。差し上げた手の、その指の間を抜ける雪はまるで彼女のようで。


なんだか寂しくて、胸が締め付けられるようだった。


だから僕は、こんな景色が日常になる前に、彼女にもっと近付きたいと、憧れで終わらせたくないと、そう思った。

【後書き】

ノンフィクションではありませんが、自分の感じた事を主軸に書いたので私小説扱いで投稿しました。

人生が道だとすれば、雪道は歩き難い分楽しそうだと思うのが私です。

少しでも読んでくださった皆様の心に残れば僥倖です。

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