息をするだけで生きていける優しい世界。
息をするだけで生きていける優しい世界。
そんなベリベリイージーな世界で、僕は二十年間一人で生きている。
他の人類は、大体みんな死んだ。
みんな、息ができなかったからだ。
***
そのキノコが、一番最初に確認されたのは、アメリカのダウンタウンだとか、日本の裏通りだとか、どっかの国の道端で死んでいたホームレスだとか、まあ、色々な話を聞いた気がするんだけど、どれが正しいのかは不明だ。
とかくとにかく、道端に死体が転がっていて、それを苗床にするかのように、そのキノコはにょきっと生えていた。
一本だけならまだ笑い話にもなりそうなものだが、さながらブナシメジのように、笠を寄せ合い群生している姿は、見ていて気分の良いものではない。
しかもそのキノコは、更に気持ち悪いことに、胞子をばら撒くのだ。
いや、まあ。
キノコが胞子をばら撒くということ自体は、人が呼吸をするように当たり前のことで、それを気持ち悪いというのは、なんだか、人間のエゴのように思えるけれども、感情自体がエゴなのだから、気持ち悪いと思うのは、仕方ない。
拳大の笠をもったキノコが、わさわさと、視界が曇るぐらいに胞子をばら撒くその様は、精神的にも、肉体的にも、気持ち悪い。
死んでしまうぐらいに、気持ち悪い。
キノコがばら撒く胞子を吸い込むと、暫くすると気分が悪くなり、ちょっと経つと、死んでしまう。
死んでしまった体からは、件のキノコが生えてくる。まるで冬虫夏草だ。
キノコの胞子を防ぐ手段は息をしない。ぐらいしかなく、体の中に侵入されれば、一気に繁殖する。
キノコは瞬く間に世界中に広がった。
初めに発見されてから一ヶ月も経った頃には、地球上を歩いている生物の姿は殆ど見られなくなった。
生き残りがいるのかは分からない。
しかし、ここ十数年、生きている人間を見たこともなければ、真新しい死体も発見できていないから、多分、少なくとも、日本の人類は絶滅した。と考えてもいいだろう。
僕以外。
不思議なことに、おかしなことに、どうやら僕の体には、キノコの胞子に対する免疫があるらしく、キノコの胞子が蔓延しているこの世界でも、普通に生きることができている。できてしまっている。
僕はまだ生きている。生きてしまっている。
***
「はぁ……」
僕は大きくため息をつきながら、目の前のキノコをもぎった。
呼吸ができなくて大体殆どほぼ全員死んでしまっているから、ため息の音というのは、かなりレアだ。
ただしそれは地球全体の話であって、僕の周りに限定してみれば、吐いて捨てるぐらい聞こえてくる。
「どこを探してもキノコしかねえ……」
一人で生きていると、自然とため息と独り言が多くなってきた気がする。
あまりにも静かで、自分でなにかを喋っていないと、気が狂いそうになるからだ。昔は音楽を流したりしていたのだが、今は電池が少なくて、節約のため、かけていない。
ブチブチと、今日の昼食になる予定のキノコをもぎっていく。キノコをもぎると、たまに、その下から頭蓋骨が転がってくることもあるんだけど、骨には興味はない。肉がついてるのであれば、話は別だ。
「あぁ、肉が食べたいなあ」
呼吸をする生物であれば、人間でなくとも、胞子の餌食となることに気づいたのは、街の中がキノコだらけになり始めた頃だった。
当時六歳だった僕は、皆がキノコの苗床になってしまった後、寂しさのあまり、大好きだった動物園に逃げ込んだ。
ここなら人以外の動物もいるから、きっとなにか生き延びている動物がいるかもしれない。と考えたのだ。
結果だけを言うならば、檻の中は既にキノコで一杯になっていた。
呼吸をしていれば、どんな動物も、胞子の餌食になる。猿の眼窩と口から細いキノコが生えていたあの姿は、今も少しトラウマだ。
呼吸をしている時点でアウト。
なら、殆ど全ての動物も死滅しているだろう。
それは同時に、肉食の崩壊を意味していた。
スーパーにある肉も、電気がないから、暫くして全滅。
残った食材はといえば、畑で育てられていた野菜と缶詰――それと、キノコ。
幸いにも――不幸にも?――キノコはそこら辺に、幾らでも生えているから、食事には困らない。
野菜とキノコの、ベジタリアン生活の始まりだ。大体、焼き肉のタレをつけると美味しい。しかしどうせなら、焼き肉に使いたい。
ぐぐぅ。と腹がなる。
昔は肉が食いたいあまり、つい、人肉に手を出そうと考えてしまったこともあったのだけど、今はもう、大体の死体が腐り果てていて、食べれる肉は残っていない。食べておけば良かった。
「まあ、生きていけるだけ、儲けものだと考えるべきなんだろうけどさ」
そうだろうか。もしかしたら、先にあっさり死んでいった人たちの方が幸せだったのではなかろうか。
恐らく、人間で生き残っているのは、僕一人だけだろう。
もしかしたら、ヨーロッパ辺りに、生き残っている人がいるかもしれないけれども、現状、海外旅行の予定はないし、出会うこともなく、やはり、一人で死んでいくのだろう。
これまでもずっと。これから先もずっと。
一人で生き続けないといけない。
果たして、そこまでして、生き残るべきなのだろうか。
なにか理由があるから、なにか目的があるから、なにか意味があるから。
人間は生きているのではないだろうか。
実は、さっさと死んじまったほうが、いいのではないだろうか。
少なくとも、一人で生きているのは、なんていうか、物凄く、寂しい。
「死んじゃおっかなぁ……」
そんなことを考えながら、キノコをむしる。
死にたいと考えながら、飯の用意をするのは、我ながら滑稽だ。
くつくつと笑いながら、キノコをもぎった。
「いったあああああああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
まるで、髪の毛を一掴みされて引っこ抜かれたみたいな、そんな悲鳴が聞こえてきた。
人の声だ?
人の声だ!
僕は思わず、声のした方を向いた。
その人は、キノコの山の中から、さながら布団から起き上がるかのようにして、立ち上がった。
「あ、あんたねえ! 人の体をもぎるってどういう神経しているわけ!? 死体に生えているキノコとはいえね! 神経にひっかかるように生えてたりするから、すっごく痛いんだからね!? まあ、それは私も今知ったんだけど、こんなに痛いって初めて知ったんだけど。というか、あれ、私喋れてる……?」
口早に、僕に文句を言ってきた彼女は、しかし、後半、自分が喋れていることに疑問を覚えたようで、段々と、尻すぼみになっていく。
彼女の恰好は、少し奇妙だった。
服装は病院で患者が着ている、いわゆる病衣。緑色。
頭には笠を被っていて、毒々しい、赤色の髪を背中に垂らしている。
いや、正確に言えば、それは、髪の毛ではない。
キノコだ。
彼女の背中には、まるで髪の毛のように、キノコが生えているのである。
よくよく見てみれば、頭に被っている笠も、笠は笠でも、キノコの笠だ。ブナシメジみたいに群生しているキノコが、そう見えるだけだ。
つまり、目の前にいる彼女は――キノコの苗床になっている。
苗床が、喋っている?
***
ゾンビというものは、もちろん存在はしない架空の化物ではあるのだが、『ゾンビみたいな状態にする』ウイルスや虫や菌というものは、存在する。
例えばブードゥー・ワスプというハチは、イモムシの体内に卵を植え付ける。体内で孵化した幼虫は、イモムシの体を『死なない程度』に食って食い破ると、その近くでサナギになる。イモムシはといえば、どういうわけか、そのサナギから離れることがなければ、近づく虫を、必死に、虫が変わったみたいに、全身を振り回して追い払うのである。
例えばロイコクロリディウムという寄生虫は、カタツムリに寄生すると、本来なら嫌うはずである日の当たる開けた場所に向かわせ、まるでイモムシみたいな動きをするのである。そんなことをすれば、鳥に見つかり、すぐに食われてしまうというのに。
例えばアリタケというキノコは、アリに寄生すると、本来の生息場所を放棄させ、自分が繁殖しやすい場所へと移動させ、体内でパンパンに菌糸を伸ばして、増殖、繁殖する。しかも恐ろしいことに、アリが死ぬタイミングまで、自分の都合の良いタイミングになるように、操作しているのである。
寄生した対象を操る寄生生物は、確かに存在する。
「多分、私もそういう類のキノコだったんじゃあないかなって思うのよね。この苗床である女の人を操ってこうして歩いているわけだし。まあ、最近まで話すことも出来ていなかったんだけど、多分、苗床全体に菌糸が広がったんだと思うのよね。まあ、逆を言えば、完全に操れるようになって、痛みも感じるようになった。って話なんだけど」
「キノコを採集していたら、キノコの山の中に、痛みを感じるキノコがいるっていう可能性を考える方が難しいだろう」
じゅうじゅうとキノコが焼ける音がする。
僕と彼女の間に置かれている七輪で焼かれているキノコからは、香ばしい匂いがする。そろそろ食べごろだ。
とりあえず、彼女には僕の住処に来てもらった。
正体はよく分かっていないけれども、すごく久しぶりに出会った、話すことができる相手だ。あの場で離れるなんて、そんな真似は出来なかった。
「苗床の女の人ってことは、やっぱりお前は、死んでいるのか?」
「ん、どうなんだろう。確かにこの体は死んでいるわけだけど、この体から生えているキノコは明らかに生きているわけで、しかも、本体はそのキノコだ。だから、『体は死んでいる』という表現が一番正しいかもしれない。でもね、この体の意思は完全に無くなったってわけじゃあないんだよ。彼女の記憶も、私は引き継いでいるんだ。違うな、脳みそにも菌糸が伸びてて、脳の記憶を、記録を、探ることができる。が正しいかな」
「なるほど。じゃあ、お前、名前とかあるのか?」
「体の方には『苗乃潘』って名前があったらしいけど、これは体の名前で、私の名前じゃあないからねえ。うーん。実験のときの被検体番号でもいい? 『086』っていうんだけど」
「実験?」
「ああ、うん。なんだっけ、『第三の人類』の模索とか、なんかそういう実験をしていたらしいんだよ。ほら、私、体の方はもう死んでるから呼吸を必要としないし、そもそもキノコだから、胞子なんて関係ない。胞子をこの世から無くすことはできないから、胞子があっても大丈夫な人間をつくろう――進化させようってことになって、私はそこで実験体として生活していたんだよ。まあ、逃げ出したんだけど」
「実験ってことは、お前――えっと、086以外にも、生きている人はいるのか?」
「実験体以外の?」
「以外で」
「いたよ。私が知ってるだけでも16人いた」
「16……」
多いのか少ないのかよく分からないけれども――地球全体から見たら少ないけど、集団としては多い方――僕以外全滅していたと思っていた人類が、まだ生きているという情報は、なんというか、嬉しい情報だった。
「そっか、絶滅してはいなかったのか……」
「まあ、私の知ってる集団は、全員男だったし、おっさんばっかだったけどねー」
「絶滅が遠のいただけかー」
まさか人類が男だけになっているとは。
それを込みで考えてみると、086の性別が『女』であることにも、別の意味が産まれた気がする。
生きる理由。生物的本能にまで遡れば、種の保存というのも、まあ、確かにあるだろう。
果たして死体に、子供を産むことはできるのだろうか。という、根本的な疑問は残るんだけど。
「そっちからの質問だけじゃあなくて、私からの質問にも答えてよ」
「なんだ?」
「あなた、どうして生きているの?」
ずびしっ。と086は僕の顔を指差した。
どうして生きているのか。どうして生きているのか。どうして生きているのか……。
「……分からない」
「ええ? 私は『第三の人類』を模索するための実験体だから、この胞子の中でも生きているのは分かるんだけど、あなたは実験体じゃあないんでしょ?」
「あ、そっちか」
無駄に哲学的なことを考えてしまった。
最近、死にたくなったりしたせいだろうか。
「僕はキノコの胞子に対して免疫みたいなのがあるみたいなんだよ。だから、息をすることができて、生きることができるんだ」
「へええ……つまりきみは、あの研究者たちが必死につくろうとしている『第三の人類』ってことになるんだね。バレたら、ナイフで腹を裂かれてホルマリン漬けにされちゃうかもしれないから、気をつけてね」
「おっかねえ奴らだな……ところで、『第三の人類』って、なにが『第三』なんだ?」
「さあ? 『男性・女性・その他』のその他じゃあないの?」
「第三の人類、そんなオカマ的扱いなのか?」
「私だって知らないよ。あいつら研究者が言っていたんだから」
086はぷくーと頬を膨らませた。
器用な寄生キノコだ。
まあつまり、こういうことらしい。
彼女は、このキノコの胞子に満ちている『呼吸するだけで生きていける世界』で、人類がそれでも生存できるように造られていた実験体である。
体の人間――苗乃潘は既に死亡しており、彼女の本体は、頭の上から生えているキノコである。
死体の全身に菌糸が張り巡らせることにより、寄生主を操っている。
寄生主の記憶を探ることが可能で、寄生主の記録を持ち合わせている。といえる(脳みそを探っているらしく、もしかしたら性格や話のノリなども、寄生主に依存している可能性がある)。
名前は『086』。
現在、実験施設から逃走中。
「そんなわけで、そんなわけでさ。ここで会ったのもなにかの縁だよ。私を匿ってくれたら、非常にありがたいなーって思ったりするわけなんだけど!」
「いいよ」
「え、即決?」
086は驚いたように、目を見開いた。
なんだ。自分で頼んでおきながら、肯定されたら驚くのか?
「いや、だって。自分で否定材料をあげるのもバカらしいとは思うけれども、一応、私、追われている身なんだよ? 普通、面倒ごとに巻き込まれないように、追い払ったりしない?」
「ん。まあ、確かに……」
「あ。でも、追い払えってことじゃあないからね? あなたがとてもとても心の広い、誠実で、軟弱なまでに心優しい、少年漫画の主人公のような性格の御人であることは、惰弱な私も、無論、知っておりますゆえ……」
「いや、僕はそんな性格じゃあねえから……」
そう。そんな向こう見ずで顧みずな性格だからではなくて。
もっと単純な理由。
焼けたキノコを皿の上に置いて、彼女に差しだした。
「丁度、話し相手が欲しかったんだ。食事のとき、誰かと話しながら食べるのも、やっぱり良いモノだろう?」
「いや、さすがに自分の頭に生えていたやつを食べようとは思えない」
頭に十円ハゲ――キノコをもぎった痕――がある彼女は、焼けたキノコを手で押しのけた。
そりゃそっか。
***
「ところでお前、繁殖能力は備わっているのか?」
「そんなところでを、私は生まれて初めて聞いたよ」
住処――昔はたくさんの人が住んでいたのだろう、マンションの後ろには、大きめの畑がある。
より正確に言うならば、食糧事情が芳しくなくなり、覆っていたアスファルトをはぎ取って自分で耕した畑がある。
土地の栄養はそんなにない。痩せこけた土地だ。
それゆえに、そんな土地でも四か月ぐらいで育ってくれるじゃがいもは、今や、この畑の主役と化している。
そんなじゃがいもを収穫しながら、ふと気になったことを、僕は086に尋ねてみた。彼女は僕の顔を、まるで性犯罪者でも見るかのような目で見てきた。この終末世界に、犯罪なんて概念はないとは思うけれども。
「いや、あるよ。あるに決まってるよ。罪というのは決して法律で罪だと記載されているから罪なのではなくて、悪いことだから罪なんだよ? 法律に書いてなかったら何をやってもいいってわけじゃあないんだよ?」
至極正論だった。
「お前は『第三の人類』として実験されていたんだろう? この世界でも生きていける人類。それで、そのまま、繁栄することができるようになっているのかなって。ほら、お前だけが生き延びたとしても、それはあくまでも、絶滅が一世代分だけ伸びただけだろう?」
「それでも話を続けるんだきみ。セクハラだよ、セクハラ。それ」
はぁ。と大仰にため息をついてから、彼女は答えた。
「ないとは思うよ。多分。ほら、私、死体だし」
「そうなのか」
「そこのところをどう改良していくつもりだったのかは、私は知らないよ。キノコみたく胞子をばら撒いて繁殖していく方向なのか、それとも、人間のように、そういう行為をして……繁殖……していく……のか……」
段々と086の声は尻すぼみになっていき、僕から目をそらした。
ちらっちらっ。と僕の顔を見ては、すぐさまそらしている。
もしも死体でなければ、顔が真っ赤になっていたのではないだろうか。そんな感じの反応である。
ああ、そっか。こいつ、寄生主の――苗乃潘だっけ?――記憶を探ることができるから、そういう知識を持っていてもおかしくはないのか。
もしかしたら、僕の顔はニマニマと笑っていたのかもしれない。
086はそんな僕の表情に気づいて、僕の顔を指差した。
「仮に、出来たとしてもあんたとは絶対しないからね!」
「別に、構わない。僕は話すことが出来れば、それでいい」
「それはそれでなんか、ちょっとショックだけど……あんたって、前から思ってたけど、生きる気力がなさすぎない?」
「そうかな?」
「ない。全然ない。どうして食事をとっているのか不思議なくらい」
そこまでか。
どうして食事をするのかと言えば、お腹が空くからだ。
お腹が空くと、つらい。きつい。
だから、食べている。
死ぬのはつらい。きつい。
だから、生きている。
とどのつまり、僕がこうして生きているのは、死にたくはないからである。
生きていたいからではなくて、死にたくない。
だから、積極的に自殺をすることはないし。
だから、消極的に自生をすることはしてる。
多分、まあ。そういう感じだと思う。
「自生には決して、人間が生きていく。っていう意味はないよ。それは私たち、植物の言葉だ。あれ、キノコって植物なのかな?」
086はおかしそうに笑いながら言った。
語呂が良かったからそう言っただけだ。
「消極的に生きることを、静かに生きることを、よく人は『植物のように生きる』って表現するけど、あれってどうなのかな」
086はじゃがいもを畑から引っこ抜く。
青々とした葉っぱを掴んで耕した地面から引っこ抜くと、ひげ根に紛れて、小さなじゃがいもが幾つもついて現れる。小振りだが、貴重な食糧だ。
「消極的に静かに生きていたとしたら、例えばじゃがいもとかは、こんなにたくさん、実ったりするものなのかな」
子供の数で消極的かどうかを考えるなら、確かに人間は一人しか産まなかったりするから、消極的だ。二人から一人なんて、そんなゆるゆると絶滅へと向かっていく道を、通っていたものだ。
「生きるということに関しては、人間なんかよりも、植物や虫の方がよっぽど積極的で騒がしいよ。種の保存、それだけのために生きているんだ。植物は。虫は。寄生菌は。そうじゃあなけりゃ、カタツムリに寄生して、食べれられに行くなんて行動はとらないよ」
生きることへの積極さを、なめないでもらいたいね。と鼻をならして、086はじゃがいもを入れたカゴを持ち上げた。かなりの量が入っているのだが、よく持ち上げれるな。
畑で収穫したじゃがいもを回収して、僕と彼女は住処へと帰る。
動物から逃げるために高いところを住処にしたんだけど、今となっては階段をあがる手間がかかるだけの場所になってしまった。
面倒だし、はやく引っ越しをしたいとは思ってるんだけど、引っ越しをするのも、面倒だとも思っている。
これが多分、生きることに消極的ということなのだろう。
「そんな、生きることに必死な植物・菌類を代表して言わせてもらうけど、きみはやっぱり、生きる気力がないね。もっとしっかりしてくれたまえ。唯一の、ナチュナルな人類の生き残りなんだ。もっとがめつく、生きて貰わないと」
私はあくまでも、第三の人類ですからねー。と086はケラケラと笑った。
「別に、積極的に生きているわけじゃあないけど、積極的に死のうとしているわけでもないから、問題はないと思うんだけどなあ……」
「あるよ。おおありだ」
086は階段をあがりながら振り返った。前を見ろ、前を。
「きみは、私を話し相手として引き入れたんだろう? 私にとっても、きみは唯一の話し相手だ。それが、そんなうじうじくんじゃあ、困ったものだろう?」
「……善処する」
「おう、善処してくれたまえ。前処してくれたまえ。前向きなのはいいことだ。前向きは心を強くしてくれっつううぅぅうぅぅぅ!!」
話途中に。
振り向いたまま歩いていた086は、階段に足を引っかけて、思いっきりズッコケた。持っていたカゴの中からじゃがいもが飛び出して転がる。どうやら額をうったらしく、086は額をおさえて、悶絶している。
「確かに、後ろ向きはダメかもな。階段で転んで、痛い目にあう」
「そ、そうだろぅ……そうだろぅ……ようやく理解してくれたようだねえ……ててて」
お馬鹿な彼女の横を通って、僕は転がっているじゃがいもを回収する。丁度、踊り場の場所に散らばったせいで、あちこちに転がってしまっている。
踊り場には、あちこちにヒビがはしっている。
補修というものを一切していないから、もうあちこちがボロボロなのである。本当、早めに引っ越した方がよさそうだ。
「…………?」
取ろうとしたじゃがいもが、手から逃げた。
もう既に、転がったときの勢いは無くなっていて、静止状態にあるはずのじゃがいもが、だ。
いや、違う。これは、揺れているんだ。じゃがいもが、踊り場が、地面が!
「わ、わわわわわ。揺れてる、揺れてるよきみ!」
「地震だ。大きい。急いで降りるぞ、086!」
「な、なんでだい。じゃがいもを回収しなくてもいいの?」
「ボロいんだよ、ここは!」
叫んだ。その直後だ。
バキン。と嫌な音が、足元からした。
086がうずくまっている階段が、壊れた音だった。
彼女がいる階段と踊り場の間に亀裂がはしって、階段が落ちていく。
086は呆然とした表情のまま、僕の視界から消えていこうとする。僕を見た。なんだろう、ちょっと安心しているようにも見えた。ああ、なんだ。きみは生きているのか。と。そんな感じの表情を浮かべているようにも見えた。
「ふっざけんなよお前!」
僕は思わず、彼女に向けて手を伸ばしていた。ギリギリどうにか、彼女の手を掴んだ。掴むことができた。しかし、落ちていく彼女の体を支えることができずに、僕は、彼女に引っ張られるようにして落っこちた。
086は驚いた表情を浮かべている。せっかく生き延びていたのに、どうして。そんな顔をしている。
いや、だって。
一人は寂しいだろう。誰とも喋れないのはもうこりごりだろう。
少なくとも、僕はもう嫌だぜ。だから、助けたいと思って、なにが悪いんだよ。まあ、全然助けれてないんだけども。それでも、まあ、一人で生きていくよりかはマシか。僕は086の体を抱きかかえる。僕の体一つで、生き残れるようなクッションになるとは思えないが、それでも、もしかしたら、生き延びれるかもしれないだろう? ああ、何階から落ちたんだろうなあ。僕らは。実は二階だったとか、そんなオチは……ないよなあ。
ぐしゃあ。
***
そんな音がして、目を覚ましてみると。
086の体はぐしゃぐしゃに潰れていた。
激突する直前、彼女は、僕を庇うように、自分をクッションにするようにしたのである。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおっっっ――――――――」
***
私には名前がある。
正確に言うと、それは私が寄生している死体の名前である。苗乃潘。六年前に死亡した人類の生き残りで、現在まで、冷凍保存されていた女性である。
菌糸によって脳を探ってみると、どうやら地球上の生物は、とある寄生キノコによって絶滅させられてしまっているらしい。
私は、そんな地球上で生きれるように制作された実験体のようだった。
環境に合わせて進化する。というのは、どの生物もする行動ではあるものの、環境に合わせるための進化を、自らの手で行おうとする人類は、なるほど、中々いかれた精神を持ち合わせているらしい。
私は086という被検体番号で呼ばれた。
私のことを『第三の人類』と彼らは呼称していた。
人類は私に到達するために、三つの工程を過ぎる必要がある。
生きて、死んで、寄生される。
つまるところ、『第三の(舞台まで到達した)人類』ということだ。
私が苗乃潘の記憶について語ると、研究していた男たちは皆喜んだ。
――人は、記憶によって、個性を象る。
――体ではない。肉体ではない。
――そうだろう。そうでなければ、義手や義足をつけた人は、個性が崩れてしまっていることになるではないか。
――人とは、個性とは、個人とは、記憶であり、記録である。
――すなわち、きみ、086は、苗乃潘だと言っても過言ではないのだよ。
それが、研究者たちの弁ではあったけれども、記憶や記録はあくまでも記憶や記録だろう。と私は思った。私はこの死体から記憶や記録をサルベージしているだけに過ぎず、この苗乃潘という女性は既に死亡していて、ここにはいないはずだ。ここにいるのは、苗乃潘の記憶を持った、086という私である。
そう思ったのだが、喜んでいる彼らに、そんなことを言う気になれず、黙っていた。
暫くの間、私は経過観察されることになった。
その間、ひどく暇だったことを覚えている。記憶や記録をサルベージし続けるだけ。あくまでも苗乃潘の記憶だから、まるで、他人の家族ビデオを見せられているよう。ひどく退屈だ。
でも、彼女が特定の異性と話しているときの動悸は楽しかった。
そうか、この人と話すのはとても楽しいのか。
話すことが楽しい相手かあ。私も、出会えたりするのだろうか。
しかし残念なことに、まだ菌糸が全身に広まっていない私は、喋ることが出来ないのである。ああ、楽しそうだなあ。楽しそうだなあ。誰か、私と話してくれないかなあ。
数日後、研究者たちに呼ばれた私は、彼らが待っている場所に向かった。
そこには研究者16人全員いて、ニコニコと笑いながら、私の到着を待っていた。彼らは私が来たと思うと、私に『今から私たちは自殺するから、死んだら、きみの頭に生えているキノコを僕らにも植えてほしい。菌を繁殖してほしい』と言ってきた。私は返事をしなかった。することができなかった。そうこうしているうちに、彼らはまるで乾杯でもするかのように、拳銃をぶつけあってから、自分たちの頭を撃ちぬいた。
硝煙の匂いがする中、ようやく私は、彼らがどうして私を造ったのか気がついた。彼らも、私と死体が同じだとは思っていなかったのだ。
ただ、記憶が残っていればいい。記録が残っていればいい。
自分たちが死んでも、代わりに生きてくれる人がいてくれたらいい。
自分たちは、もう、生きるのに疲れたんだ。
多分、そういうことだ。
だから私は、彼らに菌を付着させることも、キノコを植えることもなく、研究所を後にした。生きることを諦めた人の後始末を、どうして私がしなくてはならないんだ。
研究所は海の底だった。ああ、なるほど。確かにここなら、菌は届かない。
研究所を出てから、私は適当にふらついた。やることもなかったから、適当に生きた。歩いて、眠くなったら寝て。起きたらまた歩いて。
それの繰り返し。退屈だった。思えば、退屈ではない日は殆どなかった。退屈は人を殺すというが、なるほど確かに、死にたい気持ちも理解できる。でも、私は死なない。生きるために造られたのだし。死んでしまったら、あの研究者たちと同じではないか。
そして、二十日ぐらい過ぎた頃だろうか。
私は、彼――大家陸に、キノコを引っこ抜かれたのである。
この日は珍しく、楽しかった。
なにせ、ようやく菌糸が全身に回って、言葉を話せるようになったし、なにより、人と出逢えたのだ。嬉しいことはない。
彼は、苗乃の記憶の中にいた、『特定の異性』と顔がそっくりだった。ただし、目には覇気がなく、そこはまるで、研究者どもとそっくりだった。
目を離せば、いつの間にか死んでいそうな不安定さ。
私は彼から目を離さないことにした。
彼は死んではいけない。そう思ったのだ。
どうしてそう思ったのだろう。私の頭に生えていたキノコを、私の目の前で食うような、周りの雰囲気をまるで気にしない、風で飛んでるティッシュみたいな男なのに。
まあ、話せる相手がいるのに越したことはないからいいか。
彼と過ごした数十日はかなり楽しかったと、私なりに思っている。
閑話休題で、大幅にカットされてしまったみたいに、その楽しい時期は通り過ぎていった。
終わりはすぐ訪れた。地震で、私が立っていた階段が壊れたのである。前々から崩れそうだな。とは思っていたけど、まさかこのタイミングで崩れるなんて。
落っこちる。ああ、この高さから落ちたら、きっと私は死ぬだろうな。死体が死ぬっていうのも、なんだか変な話だけど。
と、思った私の体を誰かが掴んだ。
大家陸だった。彼は崩れていない踊り場にいて、助かっていたのに、私を助けるために、手を伸ばしてきたのだ。そんなことをすれば、自分もまきこまれて落っこちてしまうことも分かるだろうに。
実際、彼は私に巻き込まれる形で一緒に落っこちた。彼は諦めている顔をしていた。私を抱き寄せる。どうやら、自分を犠牲にしてでも私を助けようとしているらしい。
まったく、そんなところまで、死にたがらなくてもいいだろうに。死ぬのは、死者の仕事だよ。
私は彼の手を振りほどいて、私がクッションになるようにした。
ああ、なるほど。どうして彼は死んでいけないと思ったのか。ようやく理解できた。私は彼に、恋をしているのだ。好きだから、死んでもらっては困るのだ。
ぐしゃり。
私は潰れた。はてさて、彼は生き延びてくれたのだろうか。私の死をみて、かつての私のように、死んだ彼らを見た私のように、死ぬのはアホらしいと気づいただろうか。
***
ぱちり、と目を覚ましてみると、目の前に彼がいた。
ただし、ちょっと老け込んでる。
十歳ぐらい、老いてるんじゃあないか?
「……ようやくだ、ようやく、新鮮な死体を見つけたんだ」
前聞いたときよりもダンディーな声で、彼は言った。
死体? 新鮮な? はて、どういうことだ?
彼は私に鏡を渡してくれた。
ひび割れている鏡だったが、私の顔が、苗乃潘の顔ではないことは、よく分かった。
脳の記憶を探ってみると、この死体は、苗乃潘ではなく、別の人の死体で、どうやら、冷凍庫の中で凍死してしまった死体のようだった。
ああ、そうか。なるほど。
確かに私の本体はキノコだ。
だから彼は、潰れた苗乃の死体からキノコをもぎ取って、新しい死体を苗床にしたんだ。
そうすれば、また、私に会えると思って。
「十年、すごく寂しかったんだぞ。お前のせいで、人と話す幸せを覚えてしまったからな、まったく……ああ、そうだ。一つ質問させてくれ。この質問に答えてくれるだけでいい」
彼は指を一本立てて、私に尋ねてきた。
「お前の名前は、なんだ?」
086だよ。と私は答えて、彼に抱きついた。
ああ、ああ、今度は死なないさ。
きみに寂しい思いは絶対にさせない。
挿絵はふにゃこ様より頂きました