朝月夜の袂で誣言を
「おーい、嬢ちゃんはいるかい?」
六月ある日の夕暮れどき。カナカナと輪唱を奏でるヒグラシの唄声を背景に、無精髭で筋肉質の男が、日下生花店と呼ばれるちいさな花屋の、開き切られたドアをくぐりながら、店の中へと入ってきた。
外の暑さをものがたるかのように、その男はスーツの上着を脱いて肩にかけており、カッターシャツは汗で汚れ、薄く肌が透けているほどに濡れている。
男が入った花屋のレジカウンターに、一人の少女が座っており、手元に視線を落としながら、なにかしらの作業をしていた。
彼女は、この花屋で暮らしている日下菊李という、青色のオーバーオールを着た、肩まで伸びたボブカットの女子校生である。
「…………っ」
彼女は店に男が入ってきたことに気付くや、嫌悪した視線でその男をいちべつしたが、それが客ではないとわかるやいなや、視線を手元に戻し、今までやっていた花のリーフ作成を再開しはじめた。
「おいおい、店に入ってきた客に向かってその反応はどうかと思うぞ?」
男は菊李が見せた素振りに少々腹を立ててみせる。
「どうせ外が暑くて涼を求めに来たんでしょうけど、あいにくとうちは冷房とかかけてませんよ」
菊李は目の前の男……杉山という、警視庁E署の刑事一課に所属している刑事に文句を述べる。
「っと、今日はちゃんと客としてだ。実は知り合いの刑事が今週末で引退するんだよ」
つまりその人に渡す花束を買いに来たのだろう。そう思った菊李は、ジッと杉山をまっすぐ見つめる。
「お、おいおい嬢ちゃん、よくここに来るとはいえ、オレに媚を売ってもなにもならないぜ。オリャ公私はしっかり分けているんだ。それにここで未成年を買っちまったら――」
「冗談はその傍若無人な顔と態度だけにしてください。杉山さんが人に感謝するなんて、今日はこれから土砂降りの雨になるんじゃないかと思って、すこし心配になっているんですから」
うろたえている杉山にたいして、菊李はおくびにも出さないという言葉を無視した態度で言い返した。
「あのなぁ、オレだって世話になった人に感謝することくらいはするぞ? 若い時は結構迷惑かけちまってたからな」
杉山は唖然とした顔でためいきをついた。
「杉山さんが今日は冷やかしでもなんでもなく、ちゃんとお客として来たのはわかりましたけど、ちょっと待っていてください。今やっているのを先に終わらせますから」
杉山はレジカウンターを見下ろすようにうかがった。
菊李の手元には、開花している赤色のバラと、つぼみのままになっている白色のバラを交互に、一周させるような形でリーフ作り上げられていた。
「花のリーフを作っているみたいだが、学校の宿題かなにかか?」
平日の昼間、奇妙な事件が起きるたびに、なにかわかることがあるんじゃないだろうかと、決まってこの店へとおとずれることがあった杉山だったが、本来学校に行っている時間、そのたびに菊李が店の中にいる事に違和感を持っていた。もちろんプライベートのことなので、聞けずしまいだったが、
「もしかして不登校か? ダメだぜ、ちゃんと学校は行っておいたほうがいいぞ」
「高校は通信教育ですし、レポート提出するために週一で通ってますよ。それにこれ先生から作ってほしいと頼まれたものですし」
菊李は蔑視するような声で言い返す。なにか触れてはいけないことを聞いたみたいだな……と、杉山は苦笑を浮かべる。
「まぁ人生人それぞれだしな。しかたない、嬢ちゃんの作業が終わるまでブラブラと店の中を見させてもらうぜ」
杉山は怠惰をむさぼるような足取りで、店の中に置かれている花を見まわりはじめた。
菊李はそれを目で追いかけると、作業に集中するため首にかけていたイヤーマフを耳にはめ、外から聞こえる音を遮断すると、リーフ作成を再開した。
「しっかし、花ってのは、このちぃせぇ店でも結構種類があるな。相手に渡すとなれば花言葉も考えないといけないし、なんかこう角が立たなくて、相手に感謝を伝える良いやつはないかねぇ……んっ?」
不意に、花の匂いというには妙な香りが杉山の鼻腔をくすぐった。
「おーい嬢ちゃん?」
五坪(約十六.五平米)ほどしかない店内に、杉山の喧騒とした大声が響き渡った。
その声量は店の片隅まで響き渡るほどだったが、イヤーマフで外との音を遮断している菊李の耳には届いていない。
「おぉーい嬢ちゃんっ! ちょっと訊きたいことがあるんだがなぁ!」
杉山はもう一度大声を上げたが、やはり菊李の耳には届いていなかった。
杉山はレジカウンターにいる菊李を一瞥すると、彼女がイヤーマフをはめて作業していることに気付くと、
「――ったく、知り合いとはいえ、客が来ているのにあの態度はどうかと思うぞ?」
そう、おもわずためいきをついてしまった。
「しっかし、この匂いってチョコレートだよな?」
杉山の嗅覚は、犬にも劣らないと自負しているほどであった。
造花と生花の違いは当然香りがあるかないかだ。
日下生花店は、その名があらわすように生花しか取り扱っていない。
そのため店の中は色とりどりの花の香りが微かに風に乗って充満していた。
が、その花の香りとはまったく違う、チョコレートの甘苦い香りがしている。
その匂いのもとをたどっていくと、ちいさな鉢形のプランターに植えられた、五十センチほどの背丈をしたコスモスに似た蘇芳色の花を見つけた。
「匂いのもとはこれか?」
杉山はその花が植えられているプランターを手に取り、花弁を顔に近付け、鼻をヒクヒクとさせる。
漂ってきていた匂いは手に持ったその花から放出されており、それはまさにチョコレートに近い匂いだった。
「うーん、しかし妙な匂いだな」
コスモスに似たその花から漂う匂いに、杉山が片眉をしかめている時だった。
「杉山さん、どうかしました?」
うしろから声をかけられ、杉山はそちらへと視線を向ける。
そこには菊李が首をかしげるような仕草で杉山を見つめていた。
「っと嬢ちゃんか? 作業は終わったのか?」
杉山は、自分に声をかけた菊李におどろきながらもたずねる。
「ちょっとオジイに相談しようかと思っていったん手を止めてますけど。……その花がどうかしたんですか?」
菊李は杉山が手に持っている花に視線を向ける。
「いや、店の中で妙な――チョコレートみたいな匂いがしたんでな。……で、これはなんて花なんだ?」
「えっと……、それって冗談で言ってるんですか?」
杉山からの、質疑という形で投じられたボールを、菊李は怪訝な表情で打ち返した。「冗談は云ってないぞ?」
そんな菊李の態度に、杉山はさらに片眉をしかめる。
「でも、さっきチョコレート《,,,,,,》みたいなって言いましたよね? てっきりそれが[チョコレートコスモス]の品種だって知ってるんだと思いましたけど」
本当に知らないのだなとわかった菊李は、杉山に対してキョトンとした態度をみせた。
杉山は自分が手に持っている花の名前を聞くや、
「えらいストレートな名前だな」
と、苦笑をうかべていた。
「ちなみにコスモスはメキシコ産を中心に二十六種類ほどあって、日本で見られているのは、秋によくみちばたで咲いているピンク色の[コスモス]と、夏から秋にかけて咲いている黄色の花弁[キバナコスモス]。杉山さんがいま手に持っているチョコレートコスモスと、それに似たピンク色の[キャンディーコスモス]の四種類だけなんです」
「意外に少ないんだな」
杉山は、種類の多さのわりに日本で見られる数のすくなさに、おもわず目をみひらく。
「まぁこれはあくまで日本独特の、高温多湿な自然環境によるものが理由ですけどね。ちなみに、今説明した四種類を分別すると、コスモスとキバナコスモス。チョコレートとキャンディーで大きく違いがあるんですけど、なにかわかりますか?」
「そう聞かれても、そんなに詳しくないからなぁ。まったくわからん」
降参……と、杉山は両手の手のひらを相手に見せ、軽く上げる。
花に関して、専門知識を持っている菊李に勝てるとはそもそも思っていなかった。
「どっちもキク科の草花なんですけど、種子の種類が違うんです。コスモスとキバナコスモスは一年草と呼ばれる、その年に地面に植えられた種子が発芽してから見頃の時期になると開花し、冬には枯れるものなんです。チョコレートとキャンディーはそれとは違う多年草で、同じ球根から何年も続けて、その場で咲くものをいいます」
「同じ科目の植物でも、種が違えばそもそも咲き方も違うのだな」 菊李の説明に、杉山はうなってみせた。
「杉山さんがいま持っているのは[ノエル・ルージュ]と呼ばれる品種で、チョコレートコスモスの中では日本みたいな高温多湿な場所でも育てやすいやつなんです。それに口紅のように深い赤色をしているのも名前の由来ですね。他にも控えめな香りで、深みのある赤色が綺麗で育てやすく人気のある[ショコラ]。黒に近い色でチョコレートの香りがもっとも強いけど、ノエル・ルージュと違って高温多湿に弱いので日本で育てるにはすこし大変な[コスモス・アトロサンギネウス]。キバナコスモスとの交配種で、キャラメルの色に近い茶色の花弁をしていて、茎が硬いですから切り花に適している[キャラメル・チョコレート]。花持ちがよく、花茎が太く、春から夏にかけては赤色、秋になるに連れて紫色に花弁の色が変化していく[ストロベリー・チョコレート]。……と、チョコレートコスモスと一言にたとえてもこれだけの品種があるんです。うちはノエル・ルージュのほかに、ショコラもおいてあって、どちらも育てやすいですから、若い女性に花の珍しさもあって人気があるんですよ」
杉山は、普段物静かな菊李が、花のこととなれば饒舌となるのはすでに知っていた。
「品種を聞くだけでも腹がいっぱいになりそうだな。その……、コスモス・アトロサンギネウスやノエル・ルージュって品種以外、ほとんど食べ物の名前じゃないか」
杉山は、目を爛々とさせて、興奮したかのように花の説明をしている菊李に思わず失笑してしまったが、あることをふと思い出していた。
「っと、チョコレートか……」
杉山は顎に手を当て、いぶかしげそうに口を開いた。
「どうかしました?」
そんな杉山の難しそうな表情に、菊李はハッとした顔つきでたずねる。
「いやな、さっきオレが世話になっていた刑事が今週末で引退するって話をしただろ? その人と一緒にある事件を調査してるんだが、まぁこれもなにかの縁ってことで、嬢ちゃんにちょっと助言をお願いできないものかね」
杉山は手に持っていたチョコレートコスモスを、近くの、プランターが並べられたテーブルの空いたスペースに置く。
そして「ふぅ……」と呼吸を整えた。
「現場はここから車で二、三十分走らせた先の公道にあるチョコレートショップでな、そこの主人兼ショコラティエをしている三十代なかばの男が、店の奥にある作業場で殺されていたんだ。発見したのはその店で働いている二十代後半の女性従業員で、通報があったその日の朝八時頃、女性従業員は店に来て、店内で開店の準備をしていたそうなんだが――」
「その店の主人が店内の様子を見に来なかった……と?」
菊李の問いかけに、杉山は応えるようにうなずいてみせる。
「その女性従業員は店の裏口から建物の中に入って、そこから直接店内の方に入ったと機捜から聞いている」
「店の主人が殺されたのは作業場でしたよね? そこは見なかったんですか?」
菊李がそう訊いてみたが、杉山は首を振った。
「先に店内の掃除をしてからだったらしい。いちおう食い物を取り扱っているからな、建物っていうのは意外に綺麗にしていても埃が残っている場合がある。昨夜、店を出る前に掃除をしてからも、翌朝また掃除をすることもままあるらしい」
「それじゃ遺体が発見されたのは、その掃除が終わってからってことですか?」
と、菊李はいぶかしげな視線を杉山に向けた。
「嬢ちゃんが思っているとおりだ。発見が遅れたのもそれが原因だろう。女性従業員は掃除を終えると、ショーケースのレイアウトをしていたみたいでな。まぁそんなに有名な店じゃないみたいだし、開店してすぐに客が来るようなところでもないそうだ。開店時間になろうとしているのに、姿を見せない主人が心配になった女性従業員は、主人の携帯に連絡をしたんだが、その音が店の奥から聞こえてきた――」
「そこで、店の主人が中で殺されていたことをはじめて知ったということですか」
菊李はそう氷解を得る。
「まぁそういうことだ。ちょっとばっかし奇妙な話だろ?」
杉山の問いかけに、菊李はちいさくうなずいてみせた。
「現場はどうだったんですか?」
「っと、凄惨だったとしかいえないな。遺体は作業場にある大理石のテーブルの下で発見されたんだが、首の動脈をスバッと切られていた。そのせいか遺体の周りに血が吹き出していてな、まさに血の海に溺れるといったところだ」
菊李はその状況を想像してしまい、青褪めた表情を見せた。
「……あれ? でも従業員って主人を外すと、その女性従業員しかいないんですか?」
話を冷静に考えると、さほど大きなお店ではないのだろうと菊李は疑問をぶつける。
「まぁそうなるな。そもそも店自体がちいさかったからな」
「だったらその人の狂言ってことも……」
「いや、それがどうもそういうわけにもいかないんだわ」
後頭部を掻きながら、杉山は言葉を詰まらせる。
「さっき遺体の周りは血の海だったって言ったな。作業場に血の足跡があったんだが、ウロウロと部屋の中を歩きまわって、窓の外で止まっていた。ついでに言うと窓ガラスが割られていたんだ」
「それじゃぁ外部の人間?」
「――そう考えられるな。靴の跡を測ったところ、だいたい二十七センチだということがわかった。いちおう参考までに店の関係者の靴のサイズを調べてもらったが、女性従業員が二十五センチで、主人は二十六センチだったそうだ」
どちらも、発見された血の色をした靴跡のサイズと重ならない。
「それで警察は、外部の人間による犯行だと判断しているんですか?」
「まぁ嬢ちゃんが不審に思うのも仕方がないが、理由は他にもある。現場には被害者の指紋以外は発見されていない」
「そんなの手袋してればいくらでも誤魔化せると思いますけど」
「しかしなぁ、いちおう防犯カメラはあるからなぁ。女性従業員が店を出たのは午後十一時になるあたりで、それが防犯カメラに映っていたんだ」
「遺体の死亡推定時刻は?」
「通報があったその日の午前三時から四時のあいだになっている」
「防犯カメラはどこに有ります?」
「ぜんぶで三機。ひとつ目は店内に。ふたつ目は店の裏口。みっつ目は駐車場にだな」
「女性従業員が映っているのは、裏口のほうだけですか?」
「あぁ、裏口だけ《,,》だった」
菊李はそこまで聴き、しばらく考える。
そしてジッと杉山を見据えた。
「いくつか聞きたいことがあるんですけど、いいですか?
「別になにか嬢ちゃんが気になったことがあるなら話を聞くぞ」
さてどういう質問をしてくるか。
杉山はすこしばかりの期待を胸に、菊李の問いかけに耳をかたむけはじめた。
「作業場の温度は何度に設定されていましたか?」
いきなり、今までの話ではまったく出てこなかった言葉を用いた質問に、杉山は思わずギョッとする。
「作業場の温度か? うーんエアコンの電源は消されていたからな、詳しくはわからん」
「そんなのいくらでも偽造できますよね?」
「……まぁな、しかしこれに関しては指紋が発見されているから、主人が自分で消したってことになるぞ。念のために言っておくがリモコンでオンオフしていないからな」
「リモコンがなかったんですか?」
「家庭用と違って、店のは業務用だからな。設定パネルはあるみたいで、そこの電源と温度設定のあたりに主人の指紋が発見されている」
なるほど……と、菊李は肩をすくめる。
「杉山さんがその作業場に入った時、中は外と比べて涼しかったですか?」
ふたつ目の質問も、どうしてそんなことを訊いてきたのかといったものだった。
「いや、どっちかといえば暑かったな。といっても、窓が割られていて外気が入っていたからじゃないか?」
杉山はそんな質問も、疑問を孕みながらも応じる。
「たしかにそうかもしれませんね。それじゃ窓の外は見晴らしが悪かったですか?」
「いや……窓から外の道路がクッキリ見えていたな。つまり外壁もなにもないってことだ」
「外から作業場が見えるってことでもあるわけですね。もしかするとわざとって考えられません?」
「わざと……か、よく食事処で調理しているところをパフォーマンスとして客に見せているのもあるからからな。それも兼ねていたってところか」
杉山は、菊李の質問に「うむ」と唸る。
「ところで窓が割られていたみたいですけど、中と外、どっちにガラスの破片がありましたか?」
「どっちに? そりゃもちろん外から出たんだから、中に決まってるだろ?」
杉山の素っ頓狂な態度に、菊李は頭を抱える。
「これ結構重要だと思うんですけど。不知火のおじいちゃんが窓が割られた現場で、最初に中と外どちらに多く窓ガラスが散らばっているかを調べていると思いますし」
「そうか? 外部からの人間なら……んっ?」
菊李が聞きたいことの意図に気付いた杉山は、その愚鈍な態度に、自分のこととはいえ苛立ちを覚え始めた。
「あぁそういうことか。なるほど……そりゃぁそうだよなぁ。あぁそうだ」
どうしてそんな単純なことに気付かないのか。
そもそも最初に気付くべきだったのだ。
どうして犯人は、そもそもする必要のないこと《,,,,,,,,,》をしたのか。
そしてなにより、杉山ら警察が現場に着くよりも前、自分たちよりも先に来るべき人間がいないことに。
「それではこれが最後に調べてほしいことです。――作業場の窓のサッシに足跡はありましたか? もうひとつ……ショコラティエが使う道具で、本来なくてはならないものがなくなっていないか」
菊李が事件の真相を聞いたのは、それから一両日経ってからのことであった。
「嬢ちゃんから聞かれた質問だが、あれからいくつかわかったことがある」
その日の夕方、日下生花店へと訪れた杉山が、菊李の質問に対して、新しく知ることができたことに対して説明しはじめた。
「まずひとつ目。作業場の温度だが、エアコンの温度は三十度に設定されていた」
それを聞くや、
「可笑しいですよね。お店はチョコレートを扱っているのに、作業場の温度が高いのは」
と菊李は納得のいかない声を上げた。
「それに関して、ちょっとお菓子作りが趣味の婦警に聞いたんだがな。チョコを作る時、まずテンパリングっていう、チョコの原料であるカカオバターを適切な温度に安定させる作業をするそうだ。その時、室内の温度は二十度前後にしておかないといけないらしい」
そもそもカカオバターというのは、何種類もの融点の違う結晶が集まったものだ。
テンパリングをしていないカカオバターの中には常温で溶けるものもあれば、口の中で溶けないものもある。
滑らかさが売りのチョコレートにとって、口溶けが悪いチョコレートはそれだけでも失敗作といえよう。
チョコを溶かすことで中の結晶体を一度溶かし、温度を冷ましていくことで新しく結晶体を作り上げていく。
そして製品として最適な状態とされる融点の結晶のみが増えやすい温度へと調整し、ふたたび流動性があり作業性がよく、かつ、不順な結晶体が増えない温度まで調整させる。
これがテンパリングをする理由だ。
そんな、チョコ作りをすこしかじったことのある人間でもわかる作業を、プロが気を使っていないわけがない。
「部屋の温度が高いということは……」
「遺体の腐敗速度や、血の乾きを早めるためだろうな」
杉山は菊李に視線を向け直す。
「それから包丁は棚に保管されていて、血液反応はなかった」
「別に凶器が包丁だなんて、ボクは一言も言ってませんでしたけど?」
なんとも的はずれなことをいう人だなと、菊李はそんな目で杉山にいいはなつ。
「と言ってくるだろうと思ってな、道具の中でなくなっているものがわかった」
杉山はぐぬぬと顔を歪める。
「言っていることと顔が真逆な気がしますけど」
「るっせぇ。ちゃんとわかってたよ。嬢ちゃんが気になっていたのは、大理石の上でチョコを広げ伸ばしたり、混ぜたりする時につかうフライ返しだろ?」
愚痴をこぼしながらも、ちゃんと説明する杉山は、菊李が気になっていたことに対してしっかりと説明する。
「正確に言うと[パレット]なんですけどね」
「どっちでもいいんだよ名前なんて。もちろん道具が減ったってだけで、それが凶器になったってわけじゃないだろ?」
「でも、そもそも死因は首の動脈を切られたことによる出血多量でしたよね? 包丁で殺すんだったらだいたい刺殺のほうがあっていると思いますけど」
「まぁな。でも考えてみろ。いくらなんでもパレットで人が殺せるわけないだろ」
杉山はわけがわからないと言った口調で言い返す。
菊李はカウンターの引き出しから、細いナイフのような銀製の道具を取り出すと、それを杉山に手渡した。
「そのナイフの刃のあたりを触ってみてください」
「んっ……ペーパーナイフか。まぁ別に切れないものじゃないだろ」
これがなんなのかと、杉山は首をかしげる。
「それじゃ聞きますけど、切れにくくなっていた包丁をどうやって切れやすくします?」
「そりゃもちろん包丁の刃の部分を砥石で磨いて……」
杉山は言葉を止め、ジッと菊李を見すえる。
いや、目の前にいる少女の想像力に唖然としたとも言えよう。
もしかすると現場がチョコレートショップで、店の中にはパレットの他にも、そういう砥石もあるのではないか……。
たったそれだけの想像で、こんなことを考えてしまう少女が見せる微かな表情の仕草が、杉山にとっては逆に凄艶なものとして見えていた。
「つまり、パレットの一辺を薄く、カッターのように磨き整えることで鋭利な凶器にし、それで主人の首を切った。作業場に砥石が置かれていたが、削り粉は全部水に流されているし、凶器はいまだに発見されていない」
「凶器を棄てるなんていくらでもタイミングはあったと思いますしね」
菊李にとっては、それよりも気になる部分があった。「窓のサッシに血の跡や泥は?」
菊李の質問に、杉山はふぅと息をつき……、
「どっちもなかった。それからやっぱりこちらから確認をしてみたが、店が契約している防犯管理会社に連絡が来ていなかったそうだ。窓ガラスも外というよりは中に落ちていた。おそらく犯人は外から窓を割って、外から入ってきた不審者による犯行にしようとしていたってことだ」
杉山が胸ポケットから煙草の箱を取り出そうとした刹那、ゾッとする得体の知れない、いや感じたことのあるとも言えるその緊迫感のある視線を感じた彼は、思わず震駭した。
その視線に顔を向けると、そこには菊李が杉山を睨むように見つめていた。、
「ここ……禁煙ですよ」
普段見せるような少女の顔ではなく、正面を見れば無表情、されど角度や光の影によって表情が異なる能面のごとき顔で見つめている。
「…………」
そのあまりにも迫力ある双眸に、手にかけていた煙草の箱からゆっくりと指を外していく杉山は、
『なんだ今の目……、まるで殺人者の眼だったぞ? 嬢ちゃんからそんな目を向けられるとは思ってなかったが、もし本当にここでタバコを吸っていたら、どうなっていた? 力で負ける気はないが、それでも嬢ちゃんはオレを殺しかねない。そんな目だった』
と、恐怖を感じていた。
菊李から、普段、蔑視に近いものを向けられることはたびたびあったが、それは彼女が警察嫌いだと聞かされていたことによるものだと杉山は考えていた。
しかし、いま向けられた、心の臓をえぐるようなするどい眼光は、彼が何人もの凶悪犯をみてきた中でも、一、二をあらそうほどの恐怖をはらんでいた。
「そもそもここは火気厳禁ですよ。それに煙草の脂で商品がダメになるんですから」
ゆっくりと表情を普段のものへと変わっていく菊李に、杉山はふたたびちいさく喉を鳴らす。
「あぁわかったよ。ったく最近は喫煙場所がなくなってきてるし、愛煙家に厳しい世界になってきたもんだ」
杉山は後頭部を掻きながら、
「とにかく、嬢ちゃんが思っていたとおりだ。……いや、こっちが聞く前から気付くべきだったんだな――犯人はわざと窓を割っていたってことだ」
とためいきまじりに言葉をつむいていった。
「主人を殺したのは――女性従業員だった」
その言葉に、菊李はやっぱりと言った、気怠けな表情を浮かべた。
「殺人の動機は?」
「男女の情事のもつれから……と言えばなんともお決まりな結末になっちまうが、元々の理由は主人が店の売上をくすねていたことが始まりだったらしい」
「売上をごまかしていたんですか?」
「あぁ。店の金庫から金を盗っていっていたらしいな。月に三十万、今年の初めあたりかららしく、今六月だから……大体百五十万くらいか」
それはくすねたとは言えない量なのではと、菊李はあきれて言葉が出てこなかった。
「だがなぁ、ちょっとこれには理由があってな。実をいうと主人は去年の師走に乗った電車の中で痴漢にされて、若い男女二人組に脅迫されていたそうだ。まぁわかりやすくいうと美人局の被害にあっていたってところだな」
「……それじゃ、殺された店の主人が店のお金を持っていったのって――その脅迫に屈していたってことですか?」
ギョッとした目で菊李は口を出した。
「そういうことだ。ついでに言うと、加害者である女性従業員と、被害者である店の主人はその痴漢事件が起きる前から婚約していたらしい。しかも今年結婚するはずだったんだが、主人がそんなことに遭っていたことをつゆ知らぬ女性従業員は、主人が浮気をしているんじゃないかと疑念し、店が休みの日、主人の後を追ってみると、例の痴漢の被害者だと騙って、主人を脅迫していた男女の片方……まぁ殺害理由の状況からしておそらく女性の方とだな。主人がそれと会っているところを目撃し、女性従業員は裏切られた……と勘違いして犯行におよんだ――。まぁこんなところだ」
「すれ違いが、さらにすれ違いを生んだ末の犯行ってところですか」
なんとも皮肉な話だ……と菊李は嘆息をついた。
「現場にあったっていう足跡ですけど、自分と店の主人とは違うサイズの靴を履いて跡を付けることで外部の人間による仕業……にするためだった」
「まぁそんなところだろうよ。あれからもう一度現場に行ってみたんだが、糸くずのひとつも出なかった」
「出なかったと言うよりは、出ないように工夫していたんじゃないんですかね? たとえば足にラップを巻いて糸くずが出ないようにしていたとか」
菊李の言葉に、「なるほどな」と杉山は膝を打った。
「でもなぁ、ちょっと納得がいかない部分がある。その女性従業員は婚約指輪を捨てずに大事にしていたんだよ」
それを聞いて、菊李はゆったりとした足取りで、チョコレートコスモスの苗が置かれている場所へと歩いて行く。
「杉山さん……チョコレートコスモスの花言葉ってなにかわかりますか?」
「オレに花言葉の質問するなよ。まったくわからないんだから」
苦笑を見せる杉山に対して、菊李はちいさく笑みを浮かべる。
「チョコレートコスモスの花言葉は[恋の思い出]と[恋の終わり]……そして[移り変わらぬ気持ち]」
杉山はその言葉に、思わず喉を鳴らす。
まったくの偶然だろう。
だが女性従業員のことを斟酌するとすれば、殺した相手からもらった婚約指輪をいまなお大切にしているということは、冷め切った恋の終焉とは対照的に、いまでも心の底では彼のことを愛しているということの裏付けでもあった。
「とまぁ……今日の用事はこの辺りで切り上げる。これから会議があるから、そろそろ失礼させてもらうぜ」
杉山はガハハとした声で菊李に別れを告げる。
「あ、そうだ……ちょっと待っていてください」
菊李はハッとなにかを思い出し、店を後にしようとしていた杉山を呼び止めると、彼をその場にとどめ、自分は店の奥へと入っていった。
しばらくして、菊李は手にラッピングされた花束を持って現れた。
「この前相談されていた、定年退職される刑事さんに渡す予定だった花ですけど、どうせ杉山さんのことだから適当に選ぶだろうと思ってこっちで選定しておきました」
菊李が持ってきたのは、青色と白色のバラを一輪ずつラッピングしたものだった。
「バラかぁ。オレァその人を愛してないんだがなぁ」
「花言葉は渡す人がその人をどう思っているかで決まりますから気にしなくてもいいですよ。白いバラの花言葉は[深い尊敬]。青いバラの花言葉は[神の祝福]とそれぞれそういう意味がありますから。杉山さんが伝えたい感謝の気持と、その人がこれから歩む人生に、神様の御加護がありますように」
菊李はちいさく頭を下げる。そして……、
「そちらの商品、シメて七百八十五円となります」
「金とるのかよ?」
「当たり前です。もともと買う予定で来てるんですよね?」
目の前の菊李は、営業スマイルで言い返す。
なんともしっかりとしていると、杉山は頭を抱えながら財布から料金分のお金を取り出し、菊李に手渡した。
「ありがとうございました」
菊李はもう一度頭を下げる。先ほどとは違って、店の従業員としての、礼節な態度だった。
青と白のバラを見つめながら、杉山は引退していく老兵たちを思い浮かべていた。
目を覆いたくなるような凶器に満ちた事件はいくらでもあった。
新人の頃、刑事課の人間となった杉山は、必死になって、先輩刑事たちの背中を追い駆け、色々と教えてもらってきた。
荒唐無稽な彼でさえ、反抗的な態度は尊敬の裏返しであり、本心ではしっかりと感謝はしていた。
だから、菊李がいる日下生花店へと訪れ、花を選ぼうと思ったのだ。ここなら的確な花を選定してもらえると思ったから。
その考えは間違っていなかった。
白いバラの花言葉である深い尊敬は、まさにそんな杉山の気持ちを代弁している。
……警官である以上、悪を赦してはいけない。
その基本的な気持ちは次へとつながっていくものだと、鈍感な彼であっても、それだけは理解できた。
いや、今度は自分がそんな彼らから教えてもらったことを後世に教えていかなければいけないのだ。
いつまでも周りを見て見ぬふりをしていく訳にはいかない。
そしてなにより、人間の穢れた部分を見続けてきた警官たちに対して、菊李はそうあってほしいと思って選んだのだろうと、杉山はちいさく唸った。
「神の祝福か。……ほんとそう思うよ」
ただ、杉山は、警察嫌いだと自分に言っていた菊李が選んだものとは思えなかったが、あくまで客のリクエストに応えたものだと考え、深く問おうとは思わなかった。
杉山はその一両日あと、店の主人に痴漢冤罪の脅迫をしていた男女二人組をつきとめ、連行するまでにいたった。
こうしてこの事件は無事に解決し、杉山の先輩刑事は、心残りなく定年退職を迎えられることとなった。