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人魚奇譚  作者: しきみ彰
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魔性に魅入られる

 それが起きたのは、少年が海で泳いでいたときだった。

 ここ一帯は海が近いことで有名で、彼は良く遊びに来ていたのだ。彼は泳ぐことが大好きだった。


 彼はそれほどまでに、海が好きだったのだ。いっそのこと、海に身を投げたいとすら思っていた。


 澄んだ水に身をつけているととても心地良く、もともと海の住人だったのではないか、と思うほどだった。もちろん、それを両親に言えば笑われたが。


 そんなことを思っていたのがいけなかったのだろうか。波に流され、自力で戻れないところまできてしまったのだ。

 その上足が攣り、泳ぐことすらままならなくなる。


 沈む、沈む、沈む。


 海は無慈悲で、少年は抵抗する間もなく飲み込まれた。

 驚く間もなく、開いた口から空気が抜けてゆく。たくさんの気泡が上がり、すぐに息ができなくなった。好きだったはずの群青色が、黒く黒く染まってゆく。


 苦しい、苦しい。

 たす、けて。


 しかしその声も虚しく、少年はみるみるうちに底へと流された。

 意識がなくなる間際。

 魚のような尾ひれを持った乙女が、純白の髪をなびかせ上がってくるのが見えた――






 少年が次に目覚めたとき見たのは、真っ白い天井だった。

 その様を見た両親は、泣いて少年の生還を喜んだ。彼は家の跡取り息子だったのだ。

 しかし少年の頭を占めていたのは、意識をなくす前の光景だった。


 あのときのヒトは一体、なんだったんだろう。


 美しいヒトだった。海の中にいても分かるほど、純白の髪は様々な色を帯び輝いていた。

 まるで揺れる水面のようであったと。少年は思う。

 気になった彼が両親にそれを聞くと、二人は驚いた顔をした後いたく喜んだ。


『それはね、人魚というのだよ』


 ――にんぎょ。


『人魚はね、滅多に人前に現れないんだ。彼女たちは海の使者だからね。でも彼女たちは、出会った人間に惜しげもない富を与えると言われている』


 ――とみ?


『そう。恵みだ』


 両親は少年を『神の愛し子』であると言い、今以上に大事に、大切に扱うようになった。

 そんな両親たちに、少年は書物をねだった。人魚のことが書かれた、数少ない文献が欲しかったのだ。

 そんな少年の願いは叶えられ、彼は人魚の文献を集めることに熱中するようになった。


 少年は魅了されてしまったのだ。海に住むとされる、彼女に。少しの間しか見たことがない彼女に、恋い焦がれてしまった。


 目をつむれば、その姿は鮮明に思い出せる。


 純白の髪は様々な色に輝き、波に揺れていた。肌も白くきめ細かで、尾ひれは優雅になびき。鱗は群青色だった。


 日を追うに連れて、彼の想いは深くなる。


 彼女が。彼女が、欲しい。

 捕まえて、囲って。自分だけのものに。


 その頃だ。彼が、新たな人魚の文献を手に入れたのは。






 気づけば彼は、当主の位置にいた。

 両親の言う通り家は安泰で、彼はここらで一番大きな屋敷を構え、人々に慕われる存在になっていた。


 しかしやはり、人魚に対する想いは変わらない。むしろ若い頃よりも激しくなっていた。ぐらぐらと、当主の気持ちは揺れる。


 彼は仕切りに海へ行った。彼女に会えないかと、そう思ったからだ。されど彼女が姿をあらわすことはない。


 あまりの年月に、気が狂いそうになったときだ。ひとつの漁船から、こんな話をもらったのだ。


 人魚が網にかかった、と。


 それは、よく晴れた春の日のことだった。

 彼は今までにないほど慌てた様子で、その人魚を買った。大金をつぎ込んだ。

 その甲斐あり、当主はようやく人魚を手に入れたのだ。



 ***



 手に入れた人魚は、彼の記憶の中に宿っていたその姿よりも美しく、とても澄んだ生き物であった。


 金色の瞳、白磁の肌、そして純白の髪。

 当主に会った瞬間、彼女の髪が群青色に染まったのも気に入った。怯えなどおくびも出さず。彼女は彼を見つめた。美しくて強い、そんな生き物であった。故に余計欲しくなる。


 唯一惜しいと感じたのは、彼女と意思の疎通ができなかったことだろうか。

 人魚はあくまで、彼女たちの言葉のみしか話せなかったのだ。しかし時々口ずさんでくれる歌は心地良く、彼は彼女にさらに惹かれていった。


 されど、彼女には尾がある。人のものでない、魚のような尾だ。それをどうにかしなくては、陸では生きにくい。


 彼は彼女を人と同じ姿にする方法を、すでに知っていた。


 それは、人の血を飲ませること。


 そうすれば人魚は人の形を取る。そう、文献に刻まれていた。


 もしかしなくとも、この文献を書いた者もわたし同様、人魚に魅了されてしまったのかもしれないな。


 そんなことを思いながら、彼は自らの手のひらを切り、それを人魚に与えた。

 自ら血を口に含み、彼女の唇にそっと寄せて。



 ***



 人の姿へと変わった人魚との生活は、そうして始まった。

 当主が彼女に与えたのは、屋敷の端の端にある離れだ。決して誰も近づくなという命令を下し、彼女をそこに置いた。その庭に、彼女と良く似た紫陽花を植えて。

 彼女のためだけの屋敷をあつらえた。


 人魚と会える時間はさほど多くなかったものの、彼はとても幸せだったのだ。


「君はとても美しいね」


 ことあるごとにそうつぶやく当主に、人魚は首をかしげる。どうやら、どういう意味か分かっていないらしい。

 されど彼女はたいそう賢く、声色で感情を読み取った。

 ゆえに言葉など、あってもなくても変わらないもので。


 しかし彼は必ず、言葉を出して人魚に愛を囁く。


 彼女も同じ気持ちになればいいと。そう考えたのだ。彼女は人の感情というものを理解できず、彼の想いに対してもよく分からないという態度を取っていたから。


 その気持ちが通じたのか、彼女も彼に想いを返してくれるようになった。




 それは人魚と出会ってから、一年経った春のこと。


 久方ぶりに一日中休みが出来、当主は離れに入り浸ったのだ。

 人魚がいる場所というだけで、そこは彼にとっての楽園になる。それが、本邸とは比べ物にならないくらい狭い部屋であったとしても。


「君は今日も美しいね」


 そうつぶやき、当主は彼女の体を拭き清める。

 体を洗うという概念がない彼女たちには、人間流の常識というものが分からなかった。


 それを良いことに、当主はすべてのことを自分自身でおこなっていたのだ。


 食事を取るときも、彼の手ずから。

 着物を着せるのも、身を清めるのも、彼の仕事だ。


 当主が一番好きな、群青色の着物を着せれば、朝の仕事はおしまいだ。あとは一日中彼女に話しかけ、眺め、触れ、それで一日が過ぎる。そのはずだった。


 しかし普段の疲れもあったのか。彼は眠りこけてしまったのだ。春の陽気が眠気を誘ったのかもしれない。


 とにかく、彼は畳の上で眠ってしまったのだ。


 ゆらゆら、ゆらゆら。


 まるで波に揺られているかのように、心地よい感覚が当主の身を包む。

 あまりのぬくもりに、身を委ねようとしたとき気づいた。


 誰かが彼のことを抱き締めている。それもとても優しく、まるで割れ物を扱うかのように。


 誰、誰が?


 そんな疑問が浮かび上がり、彼はゆるりと瞼を開いた。


 はじめに目に付いたのは、群青色だった。

 一瞬溺れたときのことを思い出し、されど違うと否定する。


 確かに冷たいが、そんなものよりももっと穏やかであったからだ。

 顔をかすかにあげれば、そこには人魚がいる。


 一瞬わけが分からず、彼は惚けてしまった。

 しかし人魚はしっかりと彼に抱き着き、穏やかな寝息を立てている。


 あの、人魚が。

 彼に抱きついている。


 その事実に、当主は言葉もなく泣いた。声を殺して涙をこぼした。

 にもかかわらず、人魚は目を覚まし驚きをあらわにする。彼女が懸命に涙を拭ったが、涙が止まることはなかった。


 困り果てた彼女は、必死に唇で涙を受け取る。ついばむような口づけは冷たく、柔らかい。


 その様が愛おしすぎて。

 当主ははじめて、泣きながら笑った。






 ――そんな日々が狂い始めたのは、初夏のことだった。


 彼女の様子が変わり始めたのだ。つい先日まではあれほどまでに慕ってくれたのに、どこか冷たいが態度を取るようになった。

 笑みを浮かべてくれはするものの、どこか人形のように作り物めいていて。


 当主は焦る。原因は何かと、彼は忙しい仕事の合間を縫い、彼女の元に向かったのだ。


 空には鈍色の雲がかかり、大粒の雨が降っている。


 彼女が好きな、雨だ。

 人魚であるためか、彼女は水が好きだった。


 その中を、当主は行く。唐傘を叩く雨音は心地良く、彼は楽しそうに鼻歌を歌いながら離れへと向かった。


「こんにちは」


 そんな風に声をかけ、当主は人魚の部屋に入る。

 しかし直ぐに違和感に気付いた。


 彼女の着物の合わせが、普段よりはだけている。


 様子もどこかおかしく、当主の登場を恐れているようだった。


「どうしたんだい」


 そう声をかけ手を引こうとしたとき、気づく。


 手首が、赤い。それはうっ血した痕だ。強い力で握られた場合に、その痕はできる。


 じわじわと、当主の胸に黒い感情が滲んでいった。


 帯を解き脱がせ、目を見開く。


 赤い痕が、たくさん散っていたのだ。


 彼女に乱暴した男がいる。当主以外に、彼女のことを抱いた人間がいたのだ。

 その事実に、頭に血がのぼる。されど、怯える彼女をこれ以上怖がらせるわけにもいかなかった。


 人魚をそっと抱き寄せた彼は、白いままの髪を優しく撫でる。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 ひとしきり撫でていると、彼女も落ち着いたらしく髪が群青色に染まってゆく。

 そんな彼女に、彼は優しく笑いかけた。


「安心して良い」


 君を穢した男は、わたしが必ず殺すから。



 ***



 刀を持ち出したのは、久々だった。久しく使ってない刃は、しかし鋭い光を灯している。

 彼はその刀を持ち、その日は寝ずに離れにいた。

 目が冴え、意識が研ぎ澄まされていく。そこに怒りはなかった。ただひたすらに、殺意だけがある。

 何かしらの予感だけがそこにはあった。人魚を穢した男が来るであろう、という予感が。


 長い長い夜が明ける。


 それからしばらく待っていると、音が聞こえた。彼は庭に降り立ち、音が人魚の部屋に近づくのを待った。


 やってきたのは、細い男。

 確か、この屋敷の庭師として雇った男だ。


 男は未だに眠っている彼女の部屋に入ると、何やら声をあげている。

 それがひどく耳障りで。

 早く消してしまおうと、そう思った。


 ゆらりと、影が蠢く。


 背後への警戒など微塵もない庭師の男は、やはり、人魚を乱暴に扱っていた。

 それが当主の殺意に火をつけ、刀を握らせる。

 ためらいなど微塵もなかった。


 刀を構え、横になぐ。


 庭師の首はあまりにもあっけなく、床に転がった。

 そのとき胸に広がったのは、歓喜だった――









 人魚に愛された男はこうして、彼女のみに傾倒する。

 海を愛した男はそうして、彼女とともに海に沈んだという。

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