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人魚奇譚  作者: しきみ彰
1/3

紫陽花の君

好みが分かれる作品となっております。

三話読んでようやくすべてわかる作品になっていますので、出来れば三話読んでいただけたらな、と思います。

 雨の日になると必ず、歌が聞こえてくる。


 それはどうやら異国の歌であるらしく、庭師の男には理解できない言葉が連なっていた。しかしながらその声は清く美しく、ついつい聞き惚れてしまう。


 歌声が、当主から入るなと言われている離れから聞こえてきていることが分かったが、賃金をもらっている分際で約束を破るわけにもいかず。されど日を置くごとに好奇心が高まり、彼は離れにとうとう忍び込んでしまった。




 離れは、紫陽花が咲き誇る美しい庭を持っていた。

 皆一様に紫色を灯した紫陽花が、雨粒を弾きながら上を向いている。

 その間を濡れながら渡った庭師は、縁側に座るひとつの影を見つけた。


 見つけた瞬間、息が止まりそうになる。


 長く伸びた純白の髪に、雪のような肌。

 日に当たったことがないと言われても納得できてしまうほど、彼女は白かった。

 身にまとう着物は、目が覚めるほど鮮やかな青色で。

 そのすべてに見惚れた。


 金色の瞳が空を見つめ、恋しそうに濡れる。

 しかし決して涙をこぼすことなく、彼女は歌を歌い続けていた。


 歌詞も分からない、どこの言葉かも分からない歌。されど妙に心に響いて。

 男は無意識のうちに、紫陽花の間から飛び出してしまう。


 歌がやんだ。

 彼女は驚いた顔をして、庭師を見つめている。その目には泥だらけの阿呆らしい姿が映り込んでいた。


 彼女の柳眉が寄るのを見て、庭師は慌てて立ち上がろうとする。しかしぬかるんだ泥に手を取られ、再度滑った。


 その一連の醜態を見ていた彼女は、ぽっかりと口を開けて目を丸くしている。

 これにはさすがの庭師も恥ずかしくなった。穴があったら埋まりたい。いや、今すぐ穴を掘りたい気分である。庭師の落ち込みっぷりは、傍目から見てもよく分かった。


 雨音がささめき、ふたりの逢瀬を見守っている。


 和やかな沈黙を破ったのは、彼女のほうだった。


 くすくす。


 軽やかな声音を響かせながら、彼女は喉を鳴らして笑う。その顔には満面の笑みが浮かび、とても楽しそうだった。

 彼女の髪が、薄っすらと桃色に染まる。


 それがまた美しくて。

 庭師の心はすっかり、彼女に囚われてしまった。一挙一動が目につき、呼吸ができなくなる。髪の色が変わるという異質な出来事も、まるで目に入らなかった。むしろそれすら、愛おしいと思う。


 そしてこれが庭師と彼女――紫陽花の君の、出会いであった。











 彼女の歌が聞こえるとき。

 それが庭師と紫陽花の君が会うことができる、唯一の時間であった。


『紫陽花の君』とは、庭師がつけた愛称である。この時代における女性が、本名を夫にしか打ち明けない、というのもあるが、彼女の場合は名前が分からないから、と言う理由があった。彼女は、異国の言葉しか話せないのだから。


 もちろん紫陽花の君自身は、その名で呼ばれても反応しない。庭師も、口に出したことはなかった。


 だからそれは、庭師だけが知っている唯一の名。


 彼はそれを大切に胸にしまって、彼女と接していた。


 彼女とのやりとりは基本、身振り手振りやものを使って行う。

 その日庭師は、とあるものを持ってきていた。


「これは、桔梗という花を模したつまみかんざしです」


 そう話しかけ、庭師は懐に忍ばせていた簪を取り出す。

 小さな布を加工し、それをひとひらの花びらとして幾つかにまとめた、つまみという手法。それを用いて作られた桔梗を、彼女はいたく気に入ったようだ。頬を薔薇色に染め、瞳を輝かせている。


 紫陽花の君は話せなくとも、その表情で様々な感情を表した。

 純粋無垢な、乙女のように。

 庭師が持ってくるものすべてを、楽しそうに受け取る。


 当主に対する後ろめたさがあったものの、彼女が笑ってくれるのなら、と小さなものを持ってきてしまった。

 本当ならば花でも贈りたいのだが、そうなるとばれてしまう。そのことに歯がゆさを感じながらも、庭師は彼女に溺れていった。


 何をするでもなく、縁側に佇み外を見上げる。

 少しでも、彼女が見ている世界を見れるように。

 庭師は雨空を眺めていた。

 屋根を伝い、いくつもの雫が絶え間なく落ちてゆく。


 ぽちゃん、ぽちゃん、と。


 それは地面にいくつもの水たまりを作った。波紋が水面みなもに浮かび、揺れている。


「あなたに会うときは必ず、雨が降っていますね」


 そうつぶやけば、紫陽花の君は寂しそうに首をかしげる。どうやら庭師の声から、悲しい音を拾ったようだ。

 彼女はこの国の言葉を話せない代わりに、声から感情を読み取るのが上手かった。

 庭師は慌てて笑顔を浮かべる。


「いえ。せっかくなら、晴れた空が見れたらと思いまして。きっとあなたには、太陽が似合う」


 理解できるわけもないのに、庭師はそう語りかける。

 紫陽花の君はゆっくりと瞬いた。とてもとても、不思議そうに。


 事実、庭師はそう思っていた。彼女には陽の光が似合うと。しかし本当に言いたかったのは、そういうことではない。


 雨の日でなくとも、逢えたらいいのに。


 そんな気持ちが、ぽろりとこぼれてしまった。

 そろそろ梅雨も終わる。そうなれば、彼女に会うことは叶わないであろう。


 当主から「断じて入ってはいけない」と言われていた場所に入り続けているという罪悪感が身を支配するが、この激情を止めることはできなかった。


 もしかしたら彼女は、当主の妻なのかもしれない。


 そんなことを思う。

 噂好きの女中たちがかしましく話しているのを、聞いたことがあったのだ。


 離れの屋敷には、当主が本当に愛した女がいる、と。


 この美貌に、この声だ。当主が隠したくなる気持ちも分かる。他者に見せたくなかったのだ。されど庭師にはそれが、ひどく歪んで見えた。


 紫陽花の君はこんなにも外に恋い焦がれているのに。


 雨が降るたびに歌を歌い、ただ庭を眺めている。それこそ、外への渇望の表れだろう。庭師はそう思う。


 このヒトを、外へ連れ出せたらいいのに。


 そう思えど、庭師に絶対的な力はない。後ろめたさが尾を引き、彼女を連れ出す勇気も持てなかった。庭師は苦悩する。

 そんな彼を、彼女は見つめていた。ふと、唇が緩やかに開かれる。


「――――」


 その唇がかすかに動き、軽やかな音を立てたことを。

 庭師は知らなかった。



 ***



 梅雨も明ける。そんな頃。

 庭師はたまらず、彼女のいる離れに忍び込んだ。歌も聞こえない、雨も降っていない朝に、だ。


 もう逢えないかもしれない。

 その事実が、彼の心を黒く染めたのだ。

 激情に駆られ忍び込めば、いつもの場所に紫陽花の君がいる。しかし今日はもうひとつ、別の存在がそこにいた。ここに庭師以外の者がいるのだとしたら、ひとりしかいない。


 この屋敷の、当主。


 庭師が顔を合わせるのはこれが初めてだった。しかしそんな状態にもかかわらず、息を飲んでしまう。


 まさか、男に対して美しい、という感情を抱くことになるとは。


 そう。当主はとても美しかったのだ。彼女と並んでも、見劣りしないくらいに。

 その日の彼女の髪は青く、蒼く。それが実に似合っていて、どこか妖艶で。自分といるときとはまったく違う顔を見せていることに、ひどい焦りを覚えた。


 庭師の胸の内を、すさまじい劣等感が支配する。

 しかも当主は、彼女の傍らに座ると口づけをしたのだ。


 決して、庭師(お前)のものではないのだと。そう、突きつけられた瞬間だった。

 頭が真っ白になり、時間が経つにつれてよどんだものが溜まっていく。






 一体いつまでそうしていたのだろう。気づけば空には分厚い雲がかかり、雨が降ってきていた。歌が聞こえる。

 枯れかけの紫陽花の中から身を起こせば、彼女が縁側にいるのが見て取れた。


 それに気づいた彼女は、柔らかな笑顔を浮かべる。真っ白だった髪が薄紅色に染まり、春の乙女のようだ。


 無垢で初々しい、穢れを知らない少女の顔。


 しかし一方で、当主の前では妖艶な女の顔をする。身の内側から匂い立つようなそんな、成熟した女の顔をしていた。


 そう。当主の前だけで。

 紫陽花の君があのような顔を浮かべるのは、当主だけなのだ。


 それがたまらなく悔しくて。憎くて。

 庭師は彼女の腕を乱暴に掴む。

 そして無理矢理、彼女を押し倒した。


 目を見開き驚く彼女の両手を押さえ込み、着物の襟を乱暴に暴く。


 彼女は何も言わなかった。

 何も言わないまま、庭師のことを見つめていた。何も知らない無垢な瞳が突き刺さる。

 その瞳から逃れるように、庭師は自身の欲に溺れていった。




 雨が降っていた。強い強い雨が。

 それは地面をえぐり、綺麗に整えられていた庭を汚してゆく。

 白く枯れた紫陽花が一房、泥混じりの水たまりに落ちた――



 ***



 早朝。

 庭師は人目を避け、離れに来ていた。

 昨夜彼女を抱き、決心がついたのだ。


 彼女を連れて、ここを出よう、と。


 抱いてしまったことへの責任感もあるが、彼女を独占したいという欲求もあった。ここから出れば少なくとも、紫陽花の君は当主のものではなくなる。自分だけのものになる。


 いびつな欲が、庭師を動かしていた。


 早朝ともなると人が少なく、侵入は容易だった。離れに忍び込み襖をいくつも開ける。屋敷はそれほど広くなく、庭師はすぐに彼女を見つけることができた。


 何事かと、彼女が目をこすって起き上がる。そんな彼女の腕を乱暴に掴み、庭師は言った。


「逃げましょう、ここから」


 何を言われているのか分からない彼女はしきりに首をかしげるばかりで、率先して動こうとしない。それに苛立った庭師は、さらに力を込め彼女を引っ張り上げようとした。


 すると、彼女が目を見開く。そして口をぱくぱくと動かし、首を横に振った。


 行きたくない、ということだろうか。


 そう思ったときだ。

 何かが、風を切る音がした。











 ごろり、と。男の頭部が落ちた。

 続いて胴体が倒れる。部屋が血に染まる。その血飛沫は、彼岸花のように咲いていた。


 その様をただ見ていた彼女は、ぼんやりと前を見る。

 そこには当主がいた。その手には刀が握られており、切っ先から赤い雫が落ちている。


 彼が、庭師の首を斬り落としたのだ。


 その瞬間、彼女の髪が染まる。

 純白から、深海よりもなお深い瑠璃色へ。


 そんな彼女に満足した当主は、血まみれの彼女を優しく抱きかかえ風呂場へと連れ出した。


「ああ、手首がこんなにも赤くなっている……あとで薬を塗ろう」


 当主がそう告げても、彼女は何も言わない。

 ただ仄かに微笑んで、こくりと頷くだけ。それはどこか人形のように見えた。

 それに満足したらしい当主は、狂気が滲んだ瞳を細め笑う。


「本当に君は、美しいね」


 彼女は――尾をなくした人魚は。

 庭師の血がついた唇でそっと、当主の唇に口づけた。







 それから数ヶ月、雨が降り続いた。その大量の雨に、村人たちは神の怒りの雨だと悲鳴をあげた。


 雨は降り続く。どこまでも。

 そして屋敷もろとも、辺り一帯は海に沈んだという――

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