犬の話をしようじゃないか。
「よし、コピー30部終了。次はこの資料を土木課の課長に渡しに行かないとな。その後は環境保全課に行って…」
真田はコピー30部のホッチキスどめを終えると、一息着いた。
神谷さんは物腰柔らかいが、仕事を容赦無く持って来てくれる。
その殆どが、コピーやお使いの様な仕事だが…。
どこでも新人の仕事なんて殆ど雑用みたいなものだ。
それはしょうがない。
今は与えられた仕事を精一杯やることが大事だ。
だが、もちろん、盗めるものは盗まなきゃ。
せっかく、企画経営なんて、ワクワクする様な部署に配属されたんだから!
真田は資料を持って土木課に向かった。
「失礼します、先日より企画経営課に配属された、真田です。神谷より土木課課長にこちらの資料を渡すよう、頼まれたのですが。」
「あー、課長ね、今ちょっと席外してて。資料渡すだけなら、預かっておくけど?えっと…。」
「真田です。それでしたらお願いできますか?」
そう言って、真田は男に資料を渡した。
男がニコッと笑ってそれを受け取ったので、真田がお辞儀をして帰ろうとすると、
「真田君のOJTは神谷が担当なんだって??」
男が、笑顔で話しかけてきた。
引き止められた時は、ロクなことを言われない…。そう、ここ最近の経験から真田が学んだ事の一つだ。
だが男は、思いの外にこやかなので、いつものパターンとは少し違っていた。
真田は少し警戒を解いて返事をした。
「はい、そうです。えっと…」
「等々力だ。宜しく。」
「等々力さん、こちらこそ宜しくお願いします。」
「しかし、真田君も大変だね〜。新人とは言え、雑用ばっかりやらされているんだろう?まぁ、あの部署じゃあ、新人に任せられる仕事は少ないのかも知れないけどね。」
「いえ、全てが大事な仕事だと思っていますので。」
真田は無難な答えを返した。
「しかもあの神谷だろう?」
「…?」
どういう意味だろう?
等々力は同情すると言った表情をつくり、話し始めた。
「あいつは、市長のお気に入りで、あの部署に入ったって聞くからね。市長には逆らえない。市長の言いなりだろう??あいつは"牙を抜かれた犬"だからね〜。そんな先輩に当たっちゃって君もついてないね〜。まっ、頑張ってね」
そう言うと、等々力は真田の肩をポンと叩いて去っていった。
…。
しまった!!やっぱり、ロクな話じゃなかった!
真田は人間の悪意は、笑顔の裏に隠されている事を知った。
確かに、神谷さんは、なんというか、仕事に対する熱意をあまり感じない。
二言目には"腰を低く"だ。
自分の意思を通すより、人と揉める事を避ける事を優先するのかな?と思った事はある。
だけど…。
以前に神谷が過去に作成した、社内外向けの掲示物や資料を見せて貰った事がある。
凄かった。
社外向けの資料はできるだけ分かりやすく、自分のような何もわからない者でも、理解できる様な資料だった。
一方で、社内向けの資料はかっちりとした、一言一句無駄のない文章で書かれていた。いわゆる"てにをは"も完璧な様に感じた。
これがプロの行政マンの書く文章かと素直に尊敬したものだった。
自分が目指す行政マン像ではなくとも、この人の元で指導を受けたいと思った。
自分のOJTを悪く言われるのはやっぱりいい気はしない。
真田はなんだか凄く嫌な気分になった。
「…聞かなきゃ良かったなぁ。」
「ねぇ!ちょっと、ちょっと!」
廊下を歩いていたら、休憩室に真田を手招きする女性がいた。
「僕ですか??」
「そうよ、手、出して??」
わけがわからず、手を出すと、その女性は「はいっ」と真田の両手いっぱいにせんべいを渡してきた。
「…あっ、あの、」
「あら?おせんべいは嫌い?最近の若い子はそんなの食べないかぁ。あっ!まって!確かこっちにマドレーヌが…」
「あー!いいいです!好きです!無類のせんべい好きです!」
せんべいかマドレーヌの問題ではない。
「そう?良かったぁ」
女性は満足そうな笑顔を見せた。
真田はその女性が悪い人ではなさそうだと思いながらも、さっきの例もあるので、お礼だけ言って早々と立ち去ろうとした。
「まぁまぁ、ちょっとくらい休憩してもバチは当たらないわよ?新人君。はいっ、コーヒー」
「…あっ、ありがとうございます。」
真田はいつの間にか、女性のペースにはまっていた。
「私は渚、会計課よ。」
「企画経営課の真田です。」
「真田君ね、よろしく。いや、さっきね、たまたま等々力と話してるの見ちゃったものだから…」
真田はさっきの等々力の言葉を思い出していた。
市長のお気に入り…犬…。
「何言われても気にしない方がいいわよ。あいつはそもそも嫌味な奴なのよ!入所当時から!!ただのひがみ、嫉妬よ。男の嫉妬ほど醜いものはないわよね〜!」
渚は本当に嫌そうな顔をして話す。
「あいつと神谷君は同期なのよ。だから、市長が自分より神谷君の方を高く評価しているのが、気にくわないのよ。それで、神谷君のOJT担当の君に絡んできてるだけなんだからっ」
「…そうなんですか。」
はっきりとは言われたことはなくとも、今まで何度か他部署で、神谷さんに対していい印象を持っていないのかな?と感じさせる人は少なからずいた。
部署柄、煙たがられる事も多少は仕方ないと思っていた。
だけど、あんなにハッキリと悪意を出されたのは初めてだった。
真田は正直、少し戸惑っていた。
そして、少しだけモヤモヤしたものも抱えていた。
神谷さんっていったい…。
いや、尊敬する気持ちに嘘はない。ないけど…。
「まあ、神谷君が市長の一存で今の部署に入ったのは確かよ。…ウチの市長は女だし?色々な憶測が飛ぶのはよくある事よ。」
嫌な、憶測だ。
市長の…犬。
…犬?
「…あの…、等々力さんが神谷さんの事を"牙を抜かれた犬"って言ってたんです…」
「あいつそんな事も言ってた??本当に嫌味なやつ!!自分の方が、課長や部長にぺこぺこしてるくせに!!」
渚は怒りを露わにして言った。
真田は続けた。
「…"牙を抜かれた"って言ったんです。わざわざ。普通にただ"犬"って言えばいいのに、なんでかな?って。…それってもしかして、神谷さんって…」
あら?この新人君、思ったより鋭いトコあるじゃない??
渚はそう思って、思わずニヤッとした。
「…あの、渚さん!昔の神谷さんってどんな…」
「まぁ、私が色々勝手に喋ったら、神谷君に怒られちゃうからなぁ〜。アイツ怒ると厄介だしねぇ?」
「…はあ。」
渚は、聞いてもいない事はベラベラ喋るのに、肝心な事にはお茶を濁した。
真田のモヤモヤは晴れない。
「でも、これだけは確かよ。ウチのトップはくだらない理由で人事権を発動させたりはしないわ。伊達に3期連続当選してないわよ。」
そう言うと、渚はニコッと笑った。
「…はい!!」
真田は少し、晴れやかな気持ちになった。
神谷の事もそうだが、こんなにはっきりと言い切れるほど、上司を信頼している人がいるということ。そして、そんな部下に信頼されている上司が自分達のトップにいるということ。
市役所のトップはある意味特殊だ。
4年に一度の選挙で常に代わる可能性がある。
しかも、自分たちの意思が必ずしも反映されたトップとは限らない。
市民の評価と職員の評価が一致しない事もよくある話だ。(どちらが市のためになるかは別として)
それでも、信頼されている。
自分の選んだ職場は間違いなんかじゃないと思った。
真田は新人らしい爽やかな、晴々とした笑顔で返事をした。
アーモンド型の瞳を細めて笑った。少し見えるエクボが少年の様なあどけなさを感じさせる。
「もう!可愛いわね!やっぱりマドレーヌも持ってって!あっ、流石にその量は怪しいから、この書類袋に入れてって!!」
「…あっ、ありがとうございます」
真田は、こんもりと如何にも怪しい書類袋を持って休憩室を出て行った。
あの、キラキラした瞳…。いい意味でコッチも"犬"ね。
渚は、まだぎこちないスーツの後ろ姿を見ながら、ほっこりしていた。
「戻りました!」
「おーう、お疲れ。土木課長いた?」
「いえ、あいにく席を外していて…。あっ!でも、等々力さんが代わりに預かって下さいました」
「そう?ならいいけど。ご苦労さん」
…等々力ねぇ。
神谷は内心、嫌な名前を聞いたと思ったが、顔には出さず、(出してないつもりで)返事を返した。
「あっ!あと、神谷さん、よかったらこれ…」
真田が急に小声になり、神谷に書類袋の中身を見せてきた。
何かと思い覗くと、中にはせんべいやらマドレーヌやらがパンパンになって詰まっていた。
「どうした??こんな大量のお菓子」
「…渚さんに頂いたんですけど、食べきれないので、神谷さんもいかがですか??」
…?!
「渚〜!?なんであいつが?!」
神谷は意外な名前に動揺を隠しきれず、思わず大きい声をあげた。
野村がこっちを睨む。
うっ…。すみません。
「渚さんと仲いいんですか?」
「…良いっていうか、まあ、同期??」
「あ〜!それで!」
真田は、渚が神谷の事も等々力の事も詳しそうに話していたことに合点がいった。
「…で、渚、なんか言ってた??」
等々力に渚…あいつら余計な事を新人に吹き込んでないだろうな??
真田は少し、考えを巡らせたが、やがて
「…いや、そうですね…。犬の話をしたくらいでしょうか??」
そうにっこりと笑って言うと、「おせんべい分けてきます」と小声で言って、パーテーションの奥にそそくさとかけて行った。
…犬?!
渚、犬でも飼い始めたのか??
真田はなんだか腑に落ちない気もしたが、とりあえず今度会ったら、独身で犬飼い始めたら終わりだぞ、とからかってやろうと思った。