新人とブラックコーヒー
「いいか、神谷、役人ってのは人の役に立って初めて役人なんだ。お前はまだ、誰の役にも立っていない。勝負はこれからだ。もがけ!苦しめ!」
「…っ、」
…?!
…夢か。
神谷はゆっくりと起き上がると、時計を見た。
5時半…まだ早い。
隣の妻は小気味よく吐息を立てて寝ている。
すっかり目が覚めてしまったので、仕方なく起きることにした。
神谷は一階に降り、キッチンに行くと、ケトルでお湯を沸かし始めた。
12畳のリビングダイニング。オープンキッチン。
5年前に購入した自慢の我が家だ。
今じゃ、ローンを返すために働いてる様なもんだな。
神谷は自分で皮肉った。
「懐かしい…。あの人の夢を見るなんて。」
それは最近入った新人のせいだろうなと感じていた。
「…マジ…ウゼェ。」
神谷はいつもより濃いブラックコーヒーをすすった。
「おはよう、早いのね。」
Yシャツに着替え、ベルトを締めたところで、妻が二階から起きてきた。
「ああ、ちょっと早めに出勤しようと思ってね。弁当は要らないから。」
「そうなの?朝ごはんは食べてくでしょ?今準備するね」
「ゆっくりでいいよ。新聞でも読んでるから」
そう言って、神谷は新聞を開く。
まず先に地方面に目を通す。
いつもの習慣だ。
「おはようございましゅ…パパ」
まだ、眠いのか、目をこすりながら、拓真が朝の挨拶をする。
「おはよう〜!ちゃんと挨拶できたね〜!拓真は偉いね〜」
僕は拓真を抱っこする。
拓真は嬉しそうに僕に抱きついてくる。
「たー君、先に顔洗って来ようか?ほら、おいで」
妻が拓真を呼ぶと、拓真は「はーい」と言って僕の手から離れて行った。
この平穏な暮らしを続けていくことが僕の夢であり、責務だ。
それ以上は何も望まない。
だから…。
「あっ!神谷さんご苦労様です!朝早いんですね!」
神谷はぎょっとした。
今日はいつもより大分早くきたつもりだ。
なのに…こいつがいる。
「あ…真田君、おはよう。そう言う君もずいぶん早いねえ」
「いえいえ!新人ですから!」
そう言うと、真田はオフィスの机を乾拭きしだした。
神谷は居づらさを感じ、自販機にコーヒーでも買いに行く事にした。
早くも本日二杯目のブラックを。
踵を返し、部屋から出ようとした時だった。
「神谷さん!あの、至らない所ばかりですが、よろしくお願いしますね!OJT!」
真田が、一点の曇りもないような目で言った。
神谷は振り返った。
わかっている。こいつは決して悪いヤツじゃあないんだ。
「…ご苦労は目上の人が下に対してねぎらう時に使うのが一般的だから、あまり使わない方がいいかな。そう言うの厳しい人もいるから、気をつけた方がいい。」
「あぁ!すみません!気をつけます!」
神谷は今度こそ、部屋を後にした。
OJT、実際の現場の中で、働きながら就業スキルを身につけていく…。
ウチでは1人の新人に1人の先輩社員が担当となり、責任を持って教育をする事になっている。
よくある、新人教育方法だ。
問題は…。
「あの、部長、今何て…」
「いや、だから、今度の新人の真田君?だっけ?そのOJTを君に任せたいと考えているんだよ。」
「…?!」
朝一で部長に呼ばれた俺は、悪い予感しかしなかった。
わざわざ部長が直接俺を呼ぶなんて…。
どうせ厄介な仕事を任せるに決まっている。
しかし、部長の話は厄介は厄介だが、神谷の予想もしなかった話であった。
そして、正直納得がいかない話であった。
「やってくれるよね?神谷君。」
「あっ、はい…あの、それはもちろん構わないのですが、ただ、この場合、私より野村の方が適任かと…」
野村は、神谷より3期下の後輩だ。
OJTは新人を見ながら、自分の業務をこなさないといけない。正直、手間だ。本来なら、神谷より下の野村に話が行くはずだ。
「まあ、そうなんだけどさ…。国からの新業務の担当に野村君なってるじゃない?前例ないから、一から作って行くのに結構手間がかかってるみたいでね〜。正直、野村君にはOJTで新人の面倒を見るまで余裕ないみたいだから。ね?先輩の神谷君が一肌脱いでやってよ??」
バカ言え。俺だって、仕事は抱えている。忙しいのはみんな一緒だ。
「…わかりました。」
部長の命令に平社員が断れるわけ無いよなぁ。
神谷は一昨日の事を回想しながら、心の中でボヤいた。
なんだか胃が痛い。
神谷はこの胃痛が、本日二杯目のブラックコーヒーのせいだけじゃ無いと思った。