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63 「ごねんね、名前しか覚えてなかったの」

 ドンドンッ! ドンドンッ!


「――――――!! ――――!?」


 誰かが扉を強く叩いていた。声も聞こえる気がするが、叩く音に遮られよく聞こえない。それよりも部屋の人間は、小さな人へと視線を釘付けにされていた。


 ソファに仁王立ちする妙齢の女性。 風も無く、ふわりと舞う毛先と裾。その姿に記憶を刺激され、ポツリと言葉が転がり出た。


「レイシェス……」


――香! どうして呼んでくれないの! あんなに約束したのに、あれから一度も呼んでくれないからこちらから押しかける事になっちゃったじゃない!!――


「えと、あの、どうして? 呼ばなかった?」


――そうよ、私が逢いたいから呼んでちょうだいって、あんなにお願いしたのに、香は私の事なんてどうでもいいんだ……――


 ふわりと宙を舞い、香の目の前へと浮かび上がる。とっさに香を隠そうとしたギルベルは、レイシェスの一瞥によって体が固まった。


「ッ!」


 硬直した体を無理矢理動かそうと力を込める。筋肉が盛り上がり、服の袖が弾けそうなほどパツンパツンになった。


「ギルさん、ストップ。今は逆らわないで、彼女は“湖の精霊”香の守護者です」


 レイシェスとギルベルの間に入りユーリックは告げる。その視線はレイシェスを捉え、顔は緊張に強張っていた。

 レイシェスはそんな事は知らないとばかりに香に向かって手を差し伸べ、香の胸へとダイブした。


――香、香! もしかして、覚えていないの? だから呼んでくれなかったの?――


 胸に縋りつく小さな姿にきゅんとどこかを刺激され、香はコクリと頷いた。


「ごねんね、名前しか覚えてなかったの」


 顔を上げ、宙に浮かび二人に向き直るとレイシェスは言い放った。


「この役立たず! 香を守ることも出来ないで、何が騎士よ!!」


 さっきまでの言葉とは違い、耳で聞き取れるその声音は、鈴を転がすようと言う表現がぴったりのものだった。言葉の内容はともかく……。



 部屋に突然現れ、ふわりと香に近付く不信なもの。香は見知っているのか警戒は薄く、喋り掛けさえした。ギルベルの知らない香の一面に、心の隅がキリリと痛む。だから、無理矢理硬直させられたことは、不覚以外の何者でもない。

 ユーリックの言葉に力を抜きながら香を見つめる。親しげなその様子が、なおいっそう焼け付く痛みを齎していた。横目に見えるユーリックの顔は強張り、歯を食いしばっている。自分も大差ない顔をしているようだと思えば、肩の力が完全に抜けた。


 だから、振り返った“精霊”に罵声を浴びせられるとは思いもよらなかった。

 気色ばむユーリックを押さえ、レイシェスを見る。光に煌めく長い髪と、蠱惑的な肢体を持つその女性は、怒りに染まった瞳をギルベルたちへと向けていた。


「香を何処へ連れて行こうとしているの、変な所へ連れ込む気なら容赦しないんだから!」


「少し落ち着けないだろうか“湖の精霊”」


 激昂するレイシェスにギルベルの低く落ち着いた声が答える。フンッと顔を反らせたレイシェスは、ふわりと香の肩に降り立ちターバン抱きついた。


――こーおー、ギルベル・ザントがイジメル〜。私は変なこと言ってないのに、なんで〜?――


「あのね、レイシェスのいってる意味がわかんないからだと思う。ボクもわかんないから……」


 目を丸くして香を見つめるレイシェス。


「どうして怒ってるの? ボクが呼ばなかったから?」


 頭がふるふると横に振られる。じゃあ、どうしてと続けて問えば、レイシェスは困ったように三人を見回した。三人ともに解らないと書かれた顔をしている。

 それを見ると赤くなって香の後ろへと隠れてしまった。香の背に隠れ、首の横から少しだけ顔を出し、ギルベルとユーリックを見る。


「……ごめんなさい、早とちりだったみたい。こんなに鈍くなってるなんて思わなかったから」


 謝罪のはずが何気に無礼なレイシェスの言葉に、苦笑しながらもギルベルが応じる。


「いや、それよりも、さっきの怒りのわけを教えてもらえないか? 香を危険の晒すつもりは無いからな」


「そうね、これから向かうのは王都なの? それとも通り過ぎるだけ?」


 レイシェスは元のソファへと移動し、香を横に座らせ、二人を前に招いた。王都だよと香が答えれば、じゃあ舞いましょう! と手を叩く。訳がわからない……。


「香は、ここの食べ物は口に出来なくなっているでしょう? それは瘴気が増えてきたから。香に対して悪い感情を持った者達が多ければ多いほど、香に不都合が出てくる。だから舞で瘴気を浄化し、魔素を整えるの」


 困惑した様子の三人に、また間違えちゃったとレイシェスが説明を始める。その内容にユーリックが飛びついた。何も食べれないことがどれほど体力と気力をそぐ事になるか、それが宿の人間が起こした事であれば容赦するつもりは無かった。


「それはこの宿に敵意を持つものがいるということか!」


「いいえ、敵意でも悪意でもない。ただちょっと、羨ましかったんじゃないかしら。多くの男から大事にされている香が、羨ましくて妬ましかったのよ」


 ただそれだけの感情が、周りの瘴気と合わさり香に害をなす。王都へ近付くに連れ瘴気は多くなる。そして敏感で無防備な者ほど影響を受けやすい。そういうことらしい。


「舞うにしても狭いわね……。えいっ!!」


 レイシェスの気合と共に光が満ちる。とっさに香へと伸ばした二人の手は、空を切った。香の影は、光の中に溶けてなくなった。後には、抜け殻の衣服だけ。


 焦りと共にレイシェスを睨みつける。


 二対の目をクスリと笑う事でやり過し、レイシェスは目の前の存在へと抱きついた。

 レイシェスよりは少しだけ低い身長と、膝裏にまで届きそうな銀の流れ。肩口から二人を見つめ、至福の顔で撫でさする。


「香を何処へやった!」


 ギルベルが吼える! ユーリックは驚愕の目でレイシェスを見ている。そして恐る恐る言葉を紡いだ。


「もしかして、香くん? 小さくなった?」


 なにっ! とギルベルが、レイシェスの抱きつく存在に注目した。


「恥ずかしいでしょ、隠してあげる。――さあ、舞いましょ」


 片手で何かを引っ張るしぐさをすると、布が現れた。それを香へと巻きつければ、一瞬にしておそろいのドレスである。一歩踏み出した香が、困惑に顔を顰める。一枚のみのため、動けば股間のモノが不安定に揺れていた。なれない元の年齢のモノに涙を溜めながら、レイシェスに手を引かれ二人の前へと押し出された。


「香、なのか」


 頷くしぐさに、さらりと髪が流れる。頭と体の揺れに素直に従う銀の流れに、二人は視線を離せない。ランプの光に照らされ、複雑な色を見せることにも魅了される。


 二人を見上げる小さな香は、以前の蜂蜜の瞳を煌めかせながら、おずおずと視線を合わせる。


「ぎるべる、ゆーり」


 小さな体からの囁くような呼びかけに、二人は笑って答えた。



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