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56 「香、お前もういいのか? さっきは死にそうな顔してたのに」

 レイシェスは金色に輝く瞳を煌めかせ、香を見つめる。さっきまでの可愛らしさは何処へやら。妖艶ともいえそうな笑みを浮かべ、香の頬をその手で包み込む。ころころと変わる彼女の雰囲気に追いつけない香は、内心焦りまくりながらレイシェスをみていた。


――ん、ともかく、香の瞳は変えようね。私が変えるから。それから、私のこと忘れないでよ! 呼んでよね、用事なんてなくてもいいんだから! ……あと、……精霊族には気をつけて――


 何故と問い返す間もなく言葉は続けられる。


――香を今苦しめている瘴気は持ってっちゃうから安心して。香に変なことしたあいつらは許さないから、思い知るといい!!――


 ほんわかとした空気が一変し、周囲に怒気が満ちる。


「ひっ……!」


 思わず怯えた香をゴメンネと抱きしめた。


――私の香ちゃんに手を出すなんて、三百年早いんだから、……あ、もちろん香が手を出して欲しいと思ったら大丈夫よ。香ちゃんの意思を無視するような事が無ければ……だけどね――


 クスクスと笑いながら、香は何か大変な事を言われている気がする。いつの間にか、抱き付かれていたはずの香は抱きこまれているし、優しいしぐさで頭も撫でられていた。その場所が、香にはギルベルの胸にも匹敵するほどの安心感をもたらす。ゆっくりと自分に言い聞かせるレイシェルの言葉は、不思議と心の中にストンと入ってきた。


――香の嫌な事は絶対しないし、香が笑って過ごせればいいと思ってる。私の香、愛しい子……、香が幸せである事が私の幸せ。覚えておいてね――


 その言葉と共に香の意識は深く沈んで行った。



  〜・〜・〜



「お前がカイか、ユーリが助けたという」


 上からの押さえつけられるような威圧感が、カイの背を冷やりとなでていく。口を引き結び目に涙を溜めながら頷くのが限界だった。この窮地からまた救って欲しい、その思いでユーリックを見れば彼も険しい顔でカイを見ていた。何とか堪えていた涙は決壊し、頬を伝って顎から落ちる。


「あ、お、おれ、……」


「中隊長、子どもに威嚇しちゃあダメですよ。ただでさえ恐い顔なんだから」


 ぽすんとカイの頭に手を載せながら、フォルハが言った。その顔には呆れしかない。香が係わると、この二人は冷静さをなくす。それを自覚しているのかいないのか、カイへの八つ当たりはさすがに可哀そうになって口を出す。

 二人は少し目を泳がせ、バッと同時に扉へ目をやった。


 その瞬間!!


 扉の隙間から光が零れ出る。サァーッと差し込んだ一条の光は次の瞬間には収まり、見慣れた通路となった。


「香はどうした!!」


 バタンッと乱暴に飛び込む二人に続き、フォルハとカイも部屋を覗いた。


 そこには起き出したばかりの香と、所在無げにたたずむボートネスと医務長、香を囲んで跪く二人の保護者が見えた。



「あー、……ザント、アルバ、まだ呼んだ覚えは無いんだが……」


 医務長のボソリとこぼした一言だけが部屋に響く。


「香、香、もう体はいいのか? フォルハが一刻を争うなどど言っていたが、そこまで酷いのか」


「香くん、夜中から我慢してたんじゃないよね、 もしそうなら僕は怒るよ」


 寝起きの香は傍の二人をぼんやりと見つめ、その言葉は耳を滑って行った。香の中で意味を成す事無く、ただその表情でまた自分は心配させてしまったんだなぁと思っていた。ごめんなさいと誤らなきゃダメだなと口を開きかけ、そしてそのままあたりを見回せば、医務長の後方にフォルハとカイを見つける。


「ふぉるは! カイくん! どうしたの?」


 身を乗り出し、扉近くの二人に声を掛ける香にフォルハは唸った。今夜は血の雨でも降るのではなかろうか……。主に自分の上で!! 元気な香はありがたいが、傍の二人を差し置いて、こちらに話しかけるとは何事だ! 俺の身にもなってくれ……フォルハは平穏な日常が崩れる音を聞いた。


 そして、空気の読めないガキが一人。


「香、お前もういいのか? さっきは死にそうな顔してたのに」


 グワンッッと、部屋が揺れた、……気がした。ゆっくりと立ち上がったギルベルが、ただ一歩、カイへと足を踏み出しただけだ。

 それに気付いたカイは、さっきまでの恐怖を思い出す。あわあわと踊りだす手足に意味を成さない声が重なる。目は潤み鼻は真っ赤になった。


「カイ! カイこそ大丈夫? どっか痛い!?」


 香はタタッと駆け下りこてんと首をかしげ、カイを見上げる。止めようとしたのだろう、ギルベルとユーリックの手は空をかき、にぎにぎと虚しく空気を掴んでいる。二人の表情はただもうボーゼンとしか言いようの無いものだった。


「ふはっ、ぁあはははははっ! ひぃ〜っひひひひっ、くっくっくっく、クルシイ〜」


 この二人のこんな顔は見ようと思って見れるもんじゃない。飄々としたとか、冷静なとか、頭につけて呼ばれる二人の顔に、医務長と副師団長でさえ肩を震わし、咳払いをする。


「あ〜、香くん、もう大丈夫だろう? 私は部屋に戻ろうと思うんだが、いいかな」


 ボートネスがヒクつきながら香に言う。キョトンとボートネスを見上げた香はニッコリと笑った。


「副師団長さん、わざわざありがとうございました。多分、もう大丈夫です」


 香からとびっきりの笑顔を向けられ、ボートネスの背に視線が刺さる。だが砦の強者はそれを無きものとして、去っていった。


「なあ、今から庭へ行かないか。もう、体は大丈夫なんだろ?」


 何とかここから脱出しなければと、カイがもごもごと言葉をつむぐ。そわそわと落ち着きの無いその様子に、香は医務長を振り返った。


「医務長さん、もう術の欠片はなくなってると思う。だから庭に行ってもいい?」


 くっくっくと笑いながら医務長は許可を出した。香の視線から背後の二人を隠しながら……。


「じゃあ、行ってきます!!」


 元気良く走り出す香に、おい、待てよと言いながら、カイが続く。目礼ののち、フォルハが去れば部屋には医務長と二人の騎士が残った。未だボーゼンと手を上げたままの二人に苦笑しながら、医務長は告げる。


「ザント、アルバ、香くんのことで伝えておく事がある」


 香の名で一気に引き締まる顔に呆れながら、術の残滓に香の魔素が過剰反応を起こしていた事。“精霊”の助けにより、もう心配は無いであろう事が伝えられる。


「では、医務長の師匠に会う必要は無くなったのか?」


 腕を組み、目を瞑って医務長は今後を考える。香を師匠はどう見るのか、香の目に師匠はどう映るのか。二人が互いを知る事無く過ごす事は、互いにとってのデメリットでしかないだろう。香は師匠が長年探してきた人物である可能性も高いのだ。香を会わせ、確認だけでも取ってもらわなければならない。

 香にとっては、師匠ほどの魔素の使い手に会えることは、プラスにこそなれマイナスとはならない。これからボートネス殿に使い方を倣うにしても、最高峰の手本を見ることは香くんの為になる。



「香くんの体を正しく知っておくためにも、師匠の精査は必要だと私は思う」


 ギルベルの問いに目を開き医務長は答え、しっかりと二人に頷いた。



  〜・〜・〜



 中庭に着いた香は、あの部屋にギルベルとユーリックを見たような気がしたが、自分の気のせいだと思っていた。



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