05 香は、人生最大の驚愕というものを、再度味わった。
月が中天を過ぎる頃、再び光が香を包み込む。たたずむ女性は右手と右足に手をかざした。ゆっくりと、なでる様に、愛しむ様に、香の体には触れずそっとかざしてゆく。
痛みから顰められた眉も、少し浮かんでいた汗も、少しずつ和らいでいく。
穏やかな呼吸が感じられるようになると、哀しげに微笑みながら頬をなで、髪を梳き抱きしめるように覆いかぶさった後、光に溶けた。
月だけが照らし出す場所には、枯葉の布団と果実が残った。
ゆっくりと目覚めた香は、朝靄の中身を起こす。
辺りを見回し状況を思い出す。今日は下流へと足を伸ばしてみようと思いながら立ち上がる。身に残る枯葉の名残を払いながら、川へ向かった。
口を漱ぎ顔を洗い窪みの石の側へ寄って立ち止まる。
そこには溢れんばかりの果実が山となっていた。
いぶかしみながらもチョッとだけ口に含み、思案する。
また一杯になってる。枯葉も増えてたし近くで誰かが様子を見ている?何のために?
香の慌てふためく様を面白がっているのだろうか。何かのドッキリだとしても大掛かり過ぎる気がする。嫌がらせの類だとしても、相手に何のメリットがあるのだろう。
見知らぬ誰かが自分を見ていることに気づいて、気分の良い者はいない。ストーカーのような不気味さを感じるだけだ。純粋な好意からだとしても、姿を見せない相手を信用したいとは思わない。
だが見知った相手からの悪意よりは、見知らぬ相手の好意のほうがまだマシな気がした。一連の状況が、朝の爽快感が、体の軽さが、悪意を信じたくないと香に思わせた。
昨日酷使した足は、痛みが引きいつも以上に状態がいい。右手首にいたっては違和感さえなくなっている。
起きたら動けないかもしれないと思いながら眠りについた。眠っている間に誰かが側へ来たのは間違いない。枯葉や果実が沸いて出てくるはずが無いのだから。
寝顔を見られたであろう事は不愉快だが、何かを自分に施してくれた結果がこの体だとすれば、感謝しなくてはいけない。もちろん何もしていない可能性のほうが高いだろうが、それだと体が好調なことの説明がつかない。
香にとって不可解なことが一つ二つ増えたとしても、この現状ではたいした問題には思えなくなってきている。昨日一日で、人生の中での驚きのすべてを使い切ってしまったのかもしれない。
性別が変わったこと以上の驚愕には、今後、出会うことは無い。
そう言い切ってしまいたいほど一昨日からの出来事の中での印象はそのこと一色になってしまっている。よく思い出せば髪の色も変わっているし、なれない杖での木立の中を歩きまわってもいる。思わず果実をほとんど食べてしまって、誰かに申し訳ないとさえ思っていた。
一夜明けてみれば、やっぱり自分一人きりで前日と同じように果実と枯葉は山盛りだ。これはもう笑ってもいいのではないか!?誰かにからかわれているにしろ、香にとっては今のところ悪いようには思えない。性別のことは別として…。
バックの中の板チョコは一枚と半分ほど。これからのことを考えれば温存するに越したことはない。改めて石の側に座り、手を合わせた後頂いた。
甘酸っぱい果実をほおばり今後を考える。昨日は上流の方へと進んだから、今日は下流にしよう。ここへは戻らないつもりで下ったほうがいいだろう。戻れば枯葉の寝床があるが、効率が悪くなってしまいそうだ。
川を下れば人里は必ずあるだろうし、もしかしたら、農道とかの小道を見つけられるかもしれない。ハンドタオルにそっと果実を包み込みバックにしまうと、杖を手に川下を目指して歩き出した。
川べりよりは木立の近くを歩き、木々の隙間から果樹を探す。あの場所を離れ、戻らなければ、明日の朝にはバックの果実と板チョコのみになってしまうだろう。
留まっていたとしても、今朝までの幸運が明日からも続くとは限らない。少しでも食べられそうなものを見つけなければ飢えに苛まれる事は確実だ。
一歩一歩足場を確認しながら、周りを見渡しながら進んでゆく。水面はキラキラと光り輝き木々の緑は目に優しい。小鳥の囀りは耳に心地好いし、空気は澄んで心から汚れたものが洗い流されてゆくようだ。
だが、小鳥がいるということはそれを狙う獣もいるはずで、いまさらながらに二晩無事だったことに胸をなでおろす。
姿を見せない誰かさんは、自分に大きな害意は無いのかも知れない。知らない間に行動されることは不快だが、寝ている間の安全を見守っていたのかも知れないとさえ思ってしまう。
日が傾いてくると手ごろな木の側に枯葉を集めた。心のどこかを削られながら今日何度目かの用を足し、バックの中の果実と一かけのチョコを食べた。
川で口を漱ぎ、ハンドタオルを濡らす。木陰で服を着たまま手を突っ込み体を拭った。
川での行水が一番なのだろうが明るい中で裸になるのはいやだし、日が暮れてからは水は冷え切っていることだろう。ましてや右足のことがある。
だから後数日は我慢して、我慢しきれなくなったらTシャツを着て入るしかないだろう。その後の下着やシャツのことはまた考えよう。
完全に日が落ち、やわらかい月の光が辺りを照らす。川向こうの木々のシルエットの上に瞬く星があまりに綺麗で、木陰から這い出し満天の夜空を見上げる。
………香は、人生最大の驚愕というものを、再度味わった。
空には赤味、青味、黄味がかった月(らしき天体)が三つ並んで浮かんでいた。
一番大きな青い月の右下に少し重なりながら黄色の月が、少しはなれて左下に一番小さな赤い月があった。
CGで作ったような満天の夜空には、月(らしき天体)が三つ浮かんでいる。何度見直しても、目をこすってみても、頬を抓ってみても無くならない。地球上から見える夜空にこんな月は見たことが無い。惑星が接近しているのであれば、大々的なニュースになっているだろう。
口を閉じることも忘れて自分で作った寝床に戻ると、胎児のように丸くなって目を閉じた。
夜半、光とともに現れた女性は前夜と同じに手をかざし、頬をなで、髪を梳いて覆いかぶさると光に溶ける。後には枯葉と果実が残された。




