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39 「名を聞いてもいいか」

 絡め取られた視線を外す事ができず、どれほどの時間がたったのだろう。市のざわめきは遠のき、男の瞳が迫って来るようだった。視界全てをその目に覆われるかと、知らず香の体は震え始める。


「申し訳ない、汚れを落とすからそこまで付き合ってもらえるだろうか」


 ギュッと力を込められた腕に、市の喧騒が戻ってきた。香は思わずフォルハにしがみ付き、何とか震えを止めようとする。フォルハは大丈夫と言うように頭をなでながら、男と共に市の端にある泉へと向かった。香は先ほどの恐怖から男を見ることは出来ず、ただフォルハに抱かれその胸に顔をうずめていた。


「その子供は、あなたの子か?」


「いや、今日は預かって面倒見てるだけ」


「名を聞いてもいいか」


「ん〜オレはフォル、これはチビ、そう呼んでる。異国の名は難しくて発音できん」


 そうかと言いながら着いて来る男は、フォルハと同じ位の身長で、明るい茶髪をさらしていた。珍しいその容貌に人の目が集まる。護身用の剣にそこそこの身形、服もお忍びの貴族が着ているような、いまいち着慣れていない感じがする。

 泉につき傍に香を座らせ、腰から出した布を濡らし男の服を拭う。タレは染み込むことなく、全てふき取れた。そのことにより、フォルハの警戒心はますます大きくなって行く。防汚の魔術は高度で、高位の貴族でもお忍びの服にかけることはない。


「後は大丈夫か、おれ達は帰らなきゃなんないんだが」


「あぁ、その子供の親のもとへ案内願おうか」


「それは、どういうことだ?」


 もしかしたらなりは見かけだけで金をせびるのかと、それならばまだ安心だと気を抜いた瞬間、フォルハは眩暈に襲われた。

 何が起きたと周りを見ても変わった様子はない。


 男の目が輝いている意外は!


 腕に力を籠め、すばやく香を抱き上げる。顔をしかめフォルハを見る香に、異常は見られない。自分だけが何らかの術を使われたとしか思えなかった。


「なかなかしぶといですね、この子は頂いていきます。教団が“精霊の子”として手厚く保護いたしましょう」


「子供は親の傍が一番なんだ、連れて行かせるわけにはいかねえ!」



 抱き上げられ、様子がおかしいフォルハに香は縋りつく。名を呼んでも、叩いてもいつもの笑顔は返らない。

 男の口は動いているし、それに続いてフォルハも喋っているのだろう。だが、香には一切聞こえなかった。強く抱きしめられ、フォルハを見れば苦しそうに顔が歪んでいる。男を見れば目が光っていた。


 視線を合わせないよう、ずらしながら男を見る。香の汚したはずの服は、どこにぶつかったかも解らなくなっていた。町の人たちが着ている服となんら変わりはないのに、違和感がある。そう思ったとき、香の中に嫌なものが入ってきた。


 木から落ちた後の不快感が一番近いだろうか。異物が入ってくる感覚に、香は何とか対抗しようと、無意識に魔素を練り上げる。体に入った瘴気を追い出そうと、ボートネスからの言葉を思い出し、自分の魔素で包んで何とか排除しようとする。


「ちっ、魔素が扱えるのか、面倒な……」


 声と共に男の腕が伸び、香の手を取った。そのまま引っ張られ、吊り上げられるようにフォルハの腕から引き剥がされる。


 捕まれた香の右腕が悲鳴を上げた。何とか逃れようと身を捩るが、子供の香では抵抗らしい抵抗にもならない。ただじゃれ付いているようにしか見えなかった。周囲は、子供と遊ぶ二人の大人としか認識していない。微笑みながら通り過ぎていく。


 やがて香は押さえ抱き込まれ、不快感のある魔素を流され意識が朦朧としてくる。このままではギルベルとユーリックに会えなくなってしまう。必死で抵抗しようと体を動かす。指に引っかかった何かを思い切り引っ張り、香の意識は途絶えた。




  〜・〜・〜



 肩を揺すられ目を覚ましたフォルハは、痛む頭を抱えながら周囲を見回す。肩に置かれた手をたどればギルベルの顔に行き着いた。


「ギルベル……」


「何があった! 香はどこだ!」


 問われるままに答えていく。勉強部屋を早くに辞し、町へ出て人にぶつかりここへ来た事。そして、術で惑わされ香を連れ去られたこと。相手が教団で保護をするといった事。



 朦朧とする意識の中、抵抗する香を見ていた。助けなければと思うばかりで体は命令を聞かずほとんど動かない。緊急連絡用の玉を壊さなければと手を動かせば男に阻まれてしまった。薄茶の瞳で覗き込まれ、目が離せなくなりながら、男の腕にいる香がぐったりとしていることに気づいた。そして意識が途絶えたのだ。


 フォルハは自分の迂闊さに腸が煮えくり返った。ギルベルが毎夜相談に来ていたとき、香の特殊性は散々聞かされていた。話しても良いのかと問えば、お前だからと返され満更でもなかったのだ。

 だが、警戒を怠りこのざまだった。目の前の二人は術を使われれば誰もがそうなると慰めるが、この二人にはありえない。最初の違和感でさっさと香を抱き上げ、砦へと引き返すだろう。術を使われても自分のような無様は晒さない。それが悔しかった。


 辺りは闇に包まれ始めている。男と接触したときはまだ日が高かったから鐘二つ(4時間)は経っている事だろう。



「アリの教団支部へはすでに人をやった。新しい“精霊の子”が連れ込まれたとなれば、何らかの動きがある。今のお前は魔素を乱されているから治療室へ向かえ、おれ達は支部を見張る」


「!、オレも! ……いや、俺じゃあ足手纏いだな、この借りは必ず返す。教団にも、ギルベル、お前にも!」


 ふらつく体を何とか保ちながら、フォルハは砦へと帰っていった。



「ギルさん、それは?」


「教団の階位メダルだ。これを持たずに支部には戻れないだろう。どこかの宿か、隠れ家か……」


「!支部は見張らせているのですよね」


「あぁ、だが、支部に連れ込まれたら最後だと思え、この街から出られると思うな教団司教!」


 唸るようなギルベルの声に、辺りの温度が急に下がった。ユーリックは教団とのいざこざは初めてだが、《大鷲》第3師団としては何度も事を構えているという。そんな中ギルベルは“精霊の子”の実状に触れたのだ。


 香を保護した湖畔で聞いた事は序の口で、砦に戻ってから聞いた話はユーリックに悪夢を見せた。


 そんな所に香は捕らえられたのだ。



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