38 「此処ではあんなことしているの?」
フォルハと共に入った部屋は、学校の教室半分くらいの広さで五人の団員が細長い机に向かっていた。
「崎田 香です。おじゃまします。よろしくお願いします」
挨拶は基本と香から口を開く。縦にも横にも大きいお腹の出た初老に男性がニッコリと二人に向かう。
「こんにちは、香くん、でいいですか。私は教官のアルフレット・ユーベル。見学ならば壁際の椅子へ、もし授業に興味が有るのであれば端の席でも良いですよ、どうぞ座って」
ありがとうございますと端の席へと座らせてもらった。フォルハも隣に着席する。団員達を伺えば、机の上に砂盤を置き、前の壁に掛けられた大きな砂盤に書かれた計算を解いていた。
その計算式を見て香は目が点になる。
言葉の副音声はなくなったが、文字に関しては訳文が重なるのかと……。これでは読む事は出来ても、書く事は頑張らなければならないだろう。
そして、書かれている計算は二桁の足し算引き算だった……。
困惑顔の香をよそに、思案顔で問題を解く団員。始めこそちらりと香を見て表情が変わったが、ユーベル教官の視線を浴びて、問題に再度取り掛かっていた。
「此処ではあんなことしているの?」
フォルハへの内緒話は内緒にはならなかったようで、教官から声が掛かった。
「香くん、この問題が解けるのですか?それならば、答えをどうぞ」
お邪魔している自分が、授業の邪魔をしてしまったと申し訳なく思いながらも香は答えた。
「143と31、187です」
「フォルハ君、後で香くんのことを聞いてもよろしいですか?」
「ぇ〜っと、香くんに関しては、ザント中隊長たちの管轄なんで、勘弁していただけないでしょうか、教官」
少し首をかしげ、目を泳がせながらフォルハがこたえる。香は何か不味い事をしてしまったかと、緊張しながらやり取りを聞いている。一生懸命問題に取り掛かっていたはずの団員は、香を呆然と見ていた。
ますます場違いな所に来てしまったのだろうかと、肩をすくめ、身を縮める。
「ふむ、香くん、ちょっといいですか?」
緊張で固まった香が頷く。硬くならなくても怖いことはしませんよと言って、香の持っていた砂盤に問題を幾つか書いた。
「これが解けますか?」
砂盤には簡単な掛け算、割り算が書かれていた。それに答えれば、桁が増えていく。そうなると香は砂盤の端に筆算をすることとなる。だが、見覚えのない文字にユーベルは目を眇めた。
「正解です。この部屋の誰よりも香くんの計算能力は高いのかも知れませんね」
驚きが広がり、団員は落ち込んだ。隣のフォルハも沈み込んでいる。香は、自分がここに来た事によって齎した場の雰囲気を、どうにかできないかとユーベルを見た。
「ここの団員達は基本計算及び、読み書きに不安がある為、学んでいる最中です。誰にでも得手不得手はありますから、香くんが気に病むようなことは有りません。もしどうしても気になるのであれば、私の助手として今日は動いてみますか?」
キョトンとした香の表情はいかにも歳相応で、ユーベルが出した先ほどの問題をすらすら解いたとは思えない。しかし砂盤を見れば見慣れぬ記号で計算した後がある。それがどこで使われている物なのか、この国の文官として多くの国や地域と接してきたユーベルの興味を引いたのだ。
「ボク、文字は書けません」
「では、香くんの計算式を教えていただけますか?端に書かれた記号は、香くんの使っている文字ではないのですか?」
これはどうすればいいんだろう、ギルベルに聞くべきなのだろうか?
香としては筆算を教える事は躊躇わないが、文字は詮索されれば自分が落ち人であると知られる可能性がでてくる?
互いに言葉が解るようになり、最初に言われた事は落ち人とばれたら危険だという事。言動には注意する事だった。今、数字を使い解いた計算はそれほど難しい問題ではない。事実、高校中退の香が解けるのだ。香は注目されるなどと欠片も思わなかった。
しかしユーベルは、数字に興味を持ち計算方法を知りたいという。自分の迂闊さが恨めしかった。
「ぎるべるに、聞いてからでもいいですか?」
「構いませんよ、香くんほどの計算能力があれば、私の補助として、十分に動いてもらえる事でしょう。ザント中隊長には私からも話を通しておきましょう」
「香くんどうする、早めに切り上げて中隊長の所に行くかい?それとももう少し見てるかい?」
居辛くなってしまったここから連れ出してもらえるならば、香は嬉しいのだがギルベルのもとへ行けば邪魔をしてしまうのではないだろうか。少し躊躇い気味の香を促し、フォルハは席を立ち部屋を後にした。
〜・〜・〜
「香くん、何したい?」
「?!」
「中隊長の所は迷ってるんだろ?なら他に行きたいとこある、行けるとこなら連れてってやるよん」
弾むように告げられた言葉に思わず笑ってしまう。外は無理?と聞けば、少し出るかと、返された。一気に弾んだ気分のままに、フォルハの手を引き門へと向かう。
「こら、待て!!マント持って行かないと、これから先出して貰えなくなるぞ!!」
方向転換してマントを被り市街へと飛び出した。
香にとってフォルハは理想の付添い人だった。保護者二人は一時も手を離さず、周りを警戒してピリピリしていたのだ。香がフードを剥いだからだとは解っていたが、それでも窮屈だったのだ。
その点フォルハは目の届く範囲で自由にさせてくれる。右へ左へとうろつく香の後ろを、着かず離れずついて来る。香が振り返ればどうしたとばかりに笑顔を向け、小さい香が埋もれ見失わないように気をつけてもいる。
小物や服の露天、食べ物の屋台に果物の店。香にとって珍しいものと見慣れたものが混在する店先は、楽しくてしょうがなかった。昨日買ってもらった串焼きと似たものを齧り付きながら、増えてきた人ごみを歩く。
そういえば子供は串を齧ったまま歩くと、危ないとか何とか聞いたっけ?何でだっただろうと、思いながら歩いたのがいけなった。フォルハの声が聞こえたと持ったら衝撃と共に尻餅をついてしまった。
見上げれば、服の裾にべったりとタレをつけた男が香を睨んでいた。フォルハに抱き上げられ、怪我はないかと聞かれるが、自分がぶつかって服を汚してしまったことに気を取られ、口が開かない。それでも謝らなければと必死で声を絞り出した。
「ご、ごめんなさい。すみま、せんで、し、た」
尻すぼみに小さくなる声に、相手の視線が刺さり目の奥が熱くなる。フォルハの良く出来ましたの声さえも耳を素通りし、相手の男の目から視線が外せない。
それほどに凝視されていたのだ。




