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30 反射的にギルベルとユーリックはその手を取った。 

 ボートネスの手によって一度は目覚め、ギルベルとユーリックの名を叫んだ香は再び意識を失った。


「副師団長!!香ちゃんは…香ちゃんはどうなってますか!!」


 くったりとベッドに横たわり瞳を閉じた香は、まるで精緻な人形のようで…濡れた頬に張り付く少しの髪の毛が先ほどまでの狂乱をわずかに物語っていた……。


 部屋にいる全員が不安を顔に表し、香を見つめる。ボートネスの手は未だ香と繋がっていた。そこへ医務長の手が重なり、再度練り上げた魔素で香を診ていく。



 ギルベルとユーリックは自分の魔素を引き出した時を思い出し、自分との違いを見せ付けられ、焦燥に駆られながら香の目覚めを待っていた。


 導き手と離れたら自分の内面は、真っ暗ではなかったか?最初に意識を沿わせることで、不安が和らいだのではなかったか!!


 ユーリックは三年半、ギルベルに至っては八年以上前の事である。今の香よりは大きかったとはいえ、幼い自分は不安と不快感で溺れそうになっていたではないか。そう思い出せば、ただ、香が無事に目を開く事だけが望みとなった。


 魔素の扱いや、魔素を感じ取る事は出来なくても構わない。瘴気が消えた今、目覚めれば以前までの生活がまた始まるはずだ。

 そうしたらまた、香の笑顔をこの目にすることが出来る。名を、嬉しげに呼んでもらえる。



 少しの変化も見逃すまいとボートネスと香を見つめる。思わず濡れ光った香の頬を拭ってやりたくなって、ギルベルの手が伸びた。そっと髪を整え、冷えた頬を包み込む。


 その時、ふわりと何かが広がった。


 暖かい春の陽だまりであり、夏の木陰の清涼感のような、涼しげな澄んだ秋の夜空にも似て、一面の銀世界に指す一条の光を見つめるような………。


 自然の中、その雄大さと厳しさ、美しさと優しさ、暖かさの全てを含んだとても大きな気配が香を中心に広がっていった。

 白く作り物めいていた肌は紅くに染まり、ふるりと震えたまつ毛が、ゆっくりと、持ち上がってく。ボートネスから離れた両手が、ゆうらりと宙を彷徨う。

 反射的にギルベルとユーリックはその手を取った。 


「!!」


 びくりと一瞬強張った香の体は、その開いた目に二人を映し、華が綻ぶようにふんわりと微笑んだ。日頃よく見た闊達なニコッではなく、楽しげなアハハッでもなく何かを思うニッコリでもない。

 ふんわりと微笑むその顔は全てを見透かすような、そして見下ろすような超然としたものだった。


「……“湖の精霊”」


 ポツリと零れたユーリックの言葉は、見返す金色の瞳によって肯定された。


『ありがとう、我が、愛し子を、お願い…』


 言葉ではない何かで皆に語りかけられる。音として捉えられない、でも確かに認識できる言葉が、香の小さな口から紡がれた。


 その言葉と共に一気に部屋が暗くなる。日が傾き部屋を闇が覆い始める頃に、香は叫び、糸の切れた人形のようにくたりと倒れたのだ。今まで暗さを実感しなかったのは、淡く燐光を発していた香の姿が闇に浮かび上がっていたからだった。


 “湖の精霊”が去った香は元通りベッドに横たわっている。先ほど二人に手を取られ起き上がり、微笑みかけた姿は幻としか思えない。ついさっきまでの事は一切無かったように力なく、香はそこにいた。


 しかし部屋に満ち溢れる凝縮された魔素は“精霊の湖”そのものといっても過言ではないほど濃密で、香を浮かび上がらせていた燐光の欠片がチラチラと煌めいている。


 二人は恐る恐る離してしまった手をまた求める。香の体温を実感できるように、確かにここに存在し、自分の目の前で呼吸していると言う事を確認するために、儚く消えてしまいそうな香の存在を、自分の手で確かめようとした。


 指先で少し触れ、そして包み込むように香の手を取る。大きな体の手の中で煌めく貝殻のような爪のある指先がぴくりと震えた。

 それは次第に全身へと波及する。まつ毛が震え、まぶたに力が加わる。唇から小さな歯が覗きかすかな吐息が漏れた。


 ゆっくりと蛹から蝶が羽化するときのように、少しづつ香の体に血が巡っていくのだろう。体の端から始まった小さな動きは全身へと至り、ゆっくりと瞳を覗かせていった。


 “精霊”が宿っていた時には金色に輝いていた瞳は、今、蜂蜜色にまたたいている。薄暗い部屋の中、浮かび上がる香の体は光を放っているわけではない。ただ白い肌と銀の髪が、窓からのほのかかな光を反射しているのだ。


 男達は宿る命の違いが、これほどまでに瞳の輝きを変化させるのかと、驚きながら見守っていた。


 目覚め手を取る二人を認めた香はゆったりと笑いかける。それは幼子が目覚め始めのまどろみの中、とてもいい物を見つけたときのような、もう少し寝かせてくれるよねとねだっているような、見た者の心のどこかに火を灯す、幸福の象徴のような笑顔だった。




「もう大丈夫だな、これで明日は普通に目覚める事だろう」


 香は幸せな笑顔を見せた後、また静かに瞼が下りていった。その寝顔は穏やかで、安らかで、先ほどまでの人形めいた感じは微塵もなくなっていた。血の気の戻った頬は薄紅色で、口元は笑みを浮かべてさえいる。涙に濡れ泣き叫んでいた事などまったく想像も付かない穏やかな寝顔だった。


 医務長の言葉に、ボートネスは肩の荷が下りたと力を抜き、ユーリックの頬は濡れた。ギルベルはベッドの傍に跪き、香の顔を撫でさすり、そして額を寄せた。

 香のその笑顔に、声に触れる事が出来るのだと、そう思えば凍りついていた心が、凍て付いていた感情が再び熱を持ち始めた。


「副師団長、香の魔素は引き出されたのですか?」


「たぶん成功している。香君の意識を途中で見失ってしまったから何ともいえないが、最初の叫びまでは把握していた。それまでの感覚からすると近年にないほど稀有な魔素操作の素質を持っていると感じた」


「それならば、魔素の循環も回復しているのではないかな、明日、香君が目覚めたら聞いてみる事にしよう」


 ボートネスの言葉に一人言葉を落とし、それではと部屋を出て行く医務長。それを追う様にボートネスも部屋を後にした。残されたのは眠る香と二人の男である。



「今夜は一緒に付き添っても良いですか?」


「構わない、食事はどうする?結局昼も夜も食いっぱぐれているが」


「何か軽いものを厨房に頼んできましょう。もし香ちゃんが夜中に目覚めても良いように、飲み物も用意してもらいます」


 そう言って部屋を出たユーリックは、扉を閉めたあと柱の影に崩折れるように蹲った。鼻と口を手で覆い、嗚咽のもれる事のないように一人肩を震わせていた。



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