28 香は砦の中でなくてはならない存在となっていたらしい。
日が昇り、日が沈む。それが三度繰り返されても、いまだ香は目覚めていなかった。軽い擦過傷は消え、枝で切ったであろう深い傷も塞がり始め、全身の打撲の痕も薄くなってくる。
魔素の流れが悪い、右手足を、除いて……。
事の翌日、手当てのために肌蹴られた体は、元の肌色が見えないほど痣で覆われていた。腫れと熱を伴った打撲痕は全身にわたり、手足の先に行くにつれ切り傷、擦り傷が増えて行く。幸い頭はターバンで保護されていたため怪我はなく、しかし目覚めない事で強く打ったのではと懸念が募る。
ギルベルとユーリックは交代で任務をこなし、どちらか一方が香に付き添っていた。砦の中は空気が重くなり、皆沈んでいる。
香は砦の中でなくてはならない存在となっていたらしい。
そう思えば、胸の奥、込み上げてくるものがある。自分が始終、傍に付き添うことは無理だと理解していた。だが、何とか無理を言ってでも、誰かが傍に居るべきではなかったのか、今回のような事を回避する事は出来なかったのか。
ギルベルは自問しながら日々を送った。
他の者達も、香が木の上で遊んでいる事は知っていた。最初こそ危ないからと注意したが、何なく登り下りする姿に安心し、微笑ましく見守るまでになっていたのだ。みなが皆、何故止めていなかったかと己を悔いた。
ユーリックにいたっては、意識の無い香以上に憔悴していた。香に木の上は危ないと再三注意し、香の大丈夫と言う言葉にしぶしぶ引き下がっていたのだ。自分がもう少し強く反対していればと、また香を守ることが出来なかったと沈み込んでいった。
「医務長に来てもらって!!」
傷の状態を確認していた治療士が突然声を上げた。傍で見守っていたユーリックはとっさに反応できず、治療士と香を交互に見やってしまう。
「早くお願いします。香君の目覚めない原因がわかるかもしれない!!」
その言葉に弾かれたように踵を返し隣へと急ぐ。来てくれの一言で医務長の腕を引っつかみ、香の元へと急ぎ戻った。
「どうした!!なにがあった?」
「医務長、これを見てください!!」
指し示したのは、香の右の脛。治りの遅い右足の一番ひどい傷がある場所だった。
「大きく枝で傷ついていますが、よく見てください。傷口のすぐ傍に小さな丸い傷が並んでいます。その周囲だけ魔素の変化があるんです」
「香君に魔素を向けるなと言っておいたはずだが……、確かに香君以外の魔素を感じる。しかも瘴気が多い。香君は瘴気に侵されているのか、だとすれば……」
「医務長、どういうことです!!助かるんですよね?!香ちゃんはいつ目覚めるんです?!」
「ユーリック・アルバ、落ち着きなさい。香君が私の診療魔術にも拒絶を示した事は覚えているだろう。私達、治療魔術士は瘴気を極力排除する。多くの者が他人の色に染まった瘴気にこそ、嫌悪と拒絶を示すからだ。今、香君のこの傷口からは香君以外の色に染まった瘴気が溢れている。たぶん香君自身が他人の瘴気を排除しようと抵抗しているのだろう」
「それで香ちゃんはどうなるんですか?!」
「無意識の魔素の働きで、瘴気を排除する事は不可能といっても過言ではない、と思う。ボートネス副師団長に魔素の引き出しをお願いすることになるだろう」
「!!!、以前、医務長は命の危険があると言っていたではないですか!!」
「それでも、だ!今のままでもいずれ衰弱して命を落とす。ならば出来る事は全てするべきだと思う」
「ほかに、方法は……」
視線を逸らし、首を振る事で医務長はそれに応えた。その顔には無念の表情が浮かんでいる。医務長としても、幼い香に無理を強いる事はしたくない。以前からボートネスより、魔素の引き出しの許可を出せと言われていたのを断り続けていたのだ。だが、実際香ほどの魔素を持ち、それが何の制御も出来ていない状態は危険だった。
大きな魔素は魔素を呼び、魔素溜りを誘発する。純粋な魔素であれば“精霊”が、瘴気が多ければ“魔獣”が生まれる。香の魔素は純粋で、もし容を持ったとしても“精霊”だろう。だが、すでに“精霊の子”である香の場合はわからない。
実際、香の行動範囲の魔素は多くなっている。このまま増えていけば、いずれ何らかの異変が現れるだろう。それを回避するためには、香が魔素の扱いを覚えるしかない。そのために、ボートネスは魔素の引き出しの許可を求め続けていたのだ。不本意ながらも香の怪我によって、医務長からボートネスへの許可が下りる事となった。
ボートネスによる魔素の引き出しを許可するに当たって、医務長から条件が出された。
曰く、医務長の指導の下、ボートネス自身の瘴気を出来る限り取り除く事。
少しでも香の負担を軽減するために、にわかに治療魔術士としての訓練を受ける事となったボートネス。香の前では優しげだった医務長はスパルタ気質を発揮し、ボートネス副師団長に対し強鞭を振るった。
自身の色に染まった瘴気はなかなかその存在が把握できるものではない。だから治療魔術士以外は瘴気を取り除く事はあえてしていなかった。純粋な魔素とのわずかな違いを把握するために、わざわざ医務長が自分の色の染まった瘴気を送り込んでくる。
そのおぞましさに、初めて香が半狂乱に陥った感覚を知った。湧き上がる震えは止まらず、嫌な汗が全身を覆う。大声で叫びたい衝動を無理やり押さえ込む事ができたのは、ひとえに副師団長としての矜持だった。
普通、他人の魔素を体内へ入れることはまず無い。その必要がある魔素の引き出しについても、導き手の色に染まった少しの瘴気と、多くの純粋な魔素が使われる。今回の医務長のように、わざわざ瘴気だけを他者へと送り込む事は無い。
自分の意思で魔素を操作するとき動かしやすいのは魔素であって、瘴気ではないからだ。
ボートネスは過剰な反応を示した香を、只過敏な子供だと位置づけていた。しかし、先ほどの医務長の瘴気のようなおぞましさを感じるのだとすれば、香にとって魔素の引き出しがどれほどの負担になるのかを、今、実感した。
心を入れ替えるように、熱心に操作を模索するボートネス。何かを掴んだと思えば零れ落ちる感覚を、一生懸命に追いかける。何とか自分の瘴気を感じ操作できる頃には、丸一日が過ぎようとしていた。
「何とか掴めたようですな、それではゆっくりとこの部屋の魔素と、あなたに中の瘴気とを入れ替えてみてください」
医務長からに指示に従って、体内の魔素に混じる瘴気を探って行く。注意深く取りこぼしの無い用に右手の先へと誘導していった。
「そうです、さすが副師団長ボートネス殿。新人ならば、ここまで来るのは一ヶ月という所ですかな」
もともと魔素の扱いに長けていたからこそ、副師団長の地位にいるボートネス。コツが掴めれば早かった。医務長も思わず目を見張る。
「一つ疑問なのですが、魔素の引き出しに際して、相手の意識が無い事で、弊害はあるのですか?」
「いつもは、意識と魔素をあわせながら誘導していくのだが、相手の意識が無ければ、無理やり引きずるような感覚となるかもしれませんね……これは!」
したり顔の医務長と目が合った。
「瘴気が完全に体外へと出て行きましたか…、世界が変わったでしょう?たぶん香君の感じている世界と近いと思っています」
瘴気を魔素と入れ替えて行くにしたがって、体を覆っていた薄靄が晴れるように視界がクリアになって行く。完全に瘴気が去れば、体中を気力が巡り、指の先、爪の先までもが力に溢れている事を実感する。
「治療魔術士は皆、この感覚を知っているのか、これは騎士の必須項目としてもいいぐらいだ」
「よほど魔素の操作に適性が無ければ、その感覚はもてませんね。大抵の治療魔術士は、今のあなたの境地には至っていない。それだけ困難な事なのですよ、全ての瘴気を排出するという事は」
ニヤリと笑って医務長が言う。
その顔は副師団長ならば出来ると解っていたとでも言うような、ボートネスにとって何ともいえない、複雑な感情を起こさせるものだった。




