105 「ぎるべる、ゆーり……」
呼んでも現れないレイシェスとシェスに自分は見捨てられたのだろうかと、半身を覆い始めた闇に体の自由を奪われながら香は思う。
焦燥に駆られながら脳裏にチラチラと血濡れの人影が浮かんでは消えていった。
あの二人は父さんと義母さん。
自分がはじめて手にしたバイト代で夕飯をご馳走したからいなくなってしまった。
自分が動くとろくなことがない。ここですごしていた時も、自分が不用意に結界から出たからレイシェスたちを煩わせた。だから待っていれば此処に来てくれる。助け出してくれるんだ。
ただそれだけを念じて、香は目を閉じ、少しでも闇から逃れようと身をよじる。まぶたに映る血濡れの人影は、いつの間にか男女から男二人となっていった。そのことに疑問も持たず、ただ、不快感をやり過ごすために体は動き、口は助けを求めてしまう。
「レイシェス、シェス、……ボクは此処にいる。何とか頑張るから、早く来て、お願い、ぎるべる、ゆーり」
無意識に紡がれる言葉は、香の記憶をザリッと引っ掻いていった。
~・~・~
「ならばその覚悟を見せるが良い! その命、香にささげよ」
言葉と同時に闇に包まれたギルベルは、辺りを覆ういやな魔素に顔をしかめた。特訓により魔素の質を感じることが出来るようになったギルベルにとって、周囲を覆う瘴気は嫌悪を煽り立てるものだった。
だが、此処のどこかに香がいるのだ。さっさと探し出して、此処から出なければユーリックにどやされてしまうと、気合をいれ辺りを見回す。
ユーリックもまた違うどこかで香を助けるために力を振るっているはずである。初めて会ったときの頼りなさは影もなく、一端の騎士としてまた術者としてのユーリックはとても頼りになる男になっていた。
香を救い出し、二人で笑うその腕の中に香の笑顔を見たい。そのためならば、シェスの言うとおり命を懸ける事になんらためらいはない。
ふっと息を吐き、香の気配を探るため自分の中の魔素を練る。
周囲を闇雲に動き回っても消耗するだけである。ほんの少しでも可能性の高い方角を探し当てなければ、時間ばかりが無駄に過ぎるだけとなってしまう。
薄く広く延ばしていく術に触れる瘴気にギルベルの肌があわ立つ。ツっと冷や汗が背を伝ったとき香の存在が一気に身近に感じられた。
「香!!」
カッ、と目を開き、感じた方角を見る。
闇の中薄く浮かび上がっている香の姿。ギルベルはガッと地を蹴った。なりふり構わず一直線に香へと駆け寄る。途中足を掬われそうになるが、手を突きバランスをとって進んでいく。
あと少しで香に手が届く!!!
~・~・~
「ぎるべる、ゆーり……」
口をついて出た名に香は混乱していた。
無意識に紡がれた言葉に自分が何を言ったのか、もしかしたら自分はすでに闇の塊に取り込まれ、自分でない何かになってしまっているのではないか。
未だ自分の体は闇に埋もれ、抜け出せていないはずなのだが。
でも……、これが幻だったら?
知らない名前が浮かぶほど変になっている自分を、香は信じられなくなっていく。自分はすでに狂い始めているのだろうか……。
闇の中、たった一人レイシェスとシェスを呼んでいた香は、此処でどれくらいの時間が過ぎたのか解らなくなっていた。
足掻けばあがくほど絡みつく嫌な感触に嫌悪感だけが募っていく。自分は普通に穏やかに生きて居たいだけなのに、どうしてこんなことになっているのか。
混乱とともに記憶の渦があふれ出す。
まぶたに血濡れの男たちが浮かぶ。何故男女ではないのか……、広がる血溜まりに思考が真っ赤に染まった。
そして、自分の知らない人影が浮かんでいく。
そっと安心させるように抱きしめられる、温かな胸の中。優しく啄ばまれる、自分の髪。存外大きな手の中のつるりとした爪。大勢の笑い声や、甘いお菓子やコンソメスープ。
「あっ、あぁっ、ぎるべる、ゆーりっく、団長さん、医務長さん……」
ボロボロと零れ落ちる涙で何も見えなくなってしまう。目を瞑り、ただあったかい記憶を抱きしめた。
「香!!!」
此処で聞くはずのない声にびっくりして辺りを見回す。
そして遠くに鬼の形相のギルベルが見えた。同時に最後の言葉を思い出す。
『香とともには居ないほうがいい』
自分はギルベルの傍にいてはいけない。彼に嫌がられるのはどうしてもイヤだった。
香はそれまで以上に必死に体をねじり、もがいた。抜け出すために、ギルベルから遠ざかるために力をこめる。
無理にひねった関節がきしんで嫌な音を立てるが、今は気にする余裕はない。足を取られながらも迫ってくるギルベルから逃げなければ、これ以上嫌われたら本当に耐えられない。
「いやだ!! 来ないで!!」
香の叫びがこだまする。涙に濡れた頬を向け、悲壮な顔でギルベルへと拒絶の言葉を叫んだ。
「香……、香!! 今、助ける。無理に動くな!!」
ギルベルが先に手を振り払ったのだ。いまさら拒まれたからと怯んではユーリックに後ろから刺されるだろう。許しを請うのは此処から出てからだ。
どんなに情けない姿ですがることになろうとも、香をこの手に取り戻すまでは諦めるつもりはギルベルにはない。
抜け出すために突っ張る腕も飲み込まれ、ギルベルが傍に立ったときには香は胸まで埋まっていた。
「香、今から引っ張り出す。どこか痛んだら言え」
なんで、なんでとつぶやく香を半ば無視し、ギルベルは脇下に手をかけずぼっと香を引き抜いた。なおも纏わりつく瘴気には、練った魔素をぶち当て、散らしていく。
出会った当初の軽さになった香に、ギルベルは眉をしかめながら魔素を整えていった。
「香、ゆっくりと魔素を練って俺にあわせることは出来るか? 周りの瘴気を吹き飛ばす」
ゆっくりと練られていく魔素に、香は自分の魔素を沿わしていく。徐々に術が形になり香は少し脱力する。いい子だとギルベルが笑って頭をなでてくれたような気がしたが、香の意識は夢の中だった。
疲れきり泣き腫らしたまぶたに、ギルベルの唇が落ちた。




