Dear my bear
――ただいま、くー。
帰ってきたご主人は、制服のまんまでぼくをぎゅーっとした。制服からは春のお日さまの匂いがして、ぼくはすこし眠くなった。
ご主人の胸元にはリボンのついた紙の花飾りが揺れていて、そういえば今日はご主人の卒業式だったと思い出す。学校、もう最後なんだ、とご主人は寂しそうな顔をしていたからちょっと心配したけど、大丈夫だったみたい。ほっとした。
――みんな泣いてたけど、私泣かなかったよ。すごくない?
ご主人の目の縁が赤いのは、今流行りの花粉のせいだろうか。ぼくはビーズの目でご主人をじっと覗き込む。
ぼくの名前はくー。ご主人の五つの誕生日からかれこれ十年と十一ヶ月、ずっとご主人のそばにいるくまのぬいぐるみだ。少しだけくたっとした柔らかい生地で、明るい茶色の毛と首もとのリボンがちょっと自慢。
――あっという間だったなー。もう女子高生だよ、私。
いつもなら床に雑に投げちゃうブレザーを綺麗にハンガーに掛けながら、ご主人は言った。そういえば、今朝していったはずのタイはどうしたんだろう。
――リボン、後輩にあげてきた。記念に欲しいって言われてね。
ああ、前に部屋に遊びにきたあの可愛い子だね。
センパイセンパイってご主人に妹みたいにくっついてた彼女に、すこしやきもちをやいたのは内緒だ。
――あの子の方が私より泣いてて大変だったんだ。
お姉さんっぽい優しい目つきでご主人は笑う。後輩のことを話すときのご主人は、なんだか大人びていてかっこいい。
――ねえ、くー。
何かな、ご主人。
――私さ、一人だけ外部進学するじゃない。
……ああ、そうだったね。
ご主人が通ってたのは、小学校から高校までが繋がってる学校で、ほとんどの子達は内部進学するらしい。最初はご主人も内部進学するつもりだったみたいだけど、三年生になった春、お父さんとの壮絶なバトルのすえに、ご主人は外部進学を決めた。
……あの日々のことは忘れたくても忘れられない。だってぼく、ほぼご主人のリーサルウェポンだったし。お父さんに向かって投げられたし。
――私、世界が限られちゃうのが嫌だったの。あの学校が嫌いな訳じゃないけど、ずーっと変わらないあの空気の中で、時間だけが過ぎてくのって、なんか怖い。気がついたら、なにもかも終わっていそうで。
ぼくは、静かにご主人を見る。ぼくの周りの空気は変わらない。いつまでたってもぼくはこぐまの姿のままなのに、ご主人はどんどん大きくなっていく。
変わらない、変われないぼくには、変わりたいと願うご主人の気持ちはよくわからないけど――きっとそれは、望ましいけれど勇気のいる、すごく大変なことなんだろう。
ご主人は制服を脱ぐと、ぼくを抱えてベッドに倒れ込んで、ぼくのお腹にぎゅうぎゅうと顔を埋めた。
――そうやって大見栄切ったのはいいけどさ、今になって少し、怖くなってきちゃって。
くぐもった声が少し震えていることに、ぼくは気づく。
――他のみんなは、中学出ても多分ずっと変わらないで仲良いまま高校で過ごすんだよ。私はみんなが知らないところで知らない私になるんだろうし、みんなも、私が知らないところで知らないみんなになるんだよ。……それに私、今までみたいに上手くやっていけるかな。新しい場所で。知らないひとと。
ぼくをぎゅーっとする腕も、ベッドに投げ出された足も、すごく細くて頼りない。ぼくのお腹に、いつかずっと昔みたいに温かい何かが染み込んでいく。
……大丈夫だよ、ご主人。
ぼくは、動かないビーズの目で笑ってみようとする。
変わらないってことは、悪くならない代わりに良くもならないってことでしょう。ご主人もご主人の友達も、きっといい方へ変わっていくよ。会った時に何かが変わってることに気づいても、それを埋めていけるくらい強くなればいいじゃない。
絶対大丈夫だよ、ご主人。だから泣かないで笑って。いつもみたいに、笑って。
いつの間にか眠ってしまったご主人の穏やかな呼吸に耳を傾けながら、ぼくは窓の外を眺める。
空は、茜色から深いたっぷりした紺色に変わり始めていた。
友人がスケッチブックに書いていた、くまを抱きしめた女の子の絵から生まれました。
まとまりきらない感があふれ出ている……また精進しなくては。
テーマ? えーと、変化って誰でも怖いよね、みたいな感じでした。適当適当。
それでは、またどこかでお会いしましょう。