8 こぼれる砂
――試験前夜かと見紛うほどだな。
開いた教科書を眺めるふりをしながら、タリクは目の前で分厚い本を睨みつけるナディアを見つめた。その細い指先が紙の上でペンを走らせるたびにカリカリという規則的な音が響く。
図書館での自習を始めてすでに五時間。休憩なしで過ごすには長すぎる。だが彼女はずっと同じ姿勢で勉強を続けていた。小柄なその姿は積み上げた本で半分ほど隠れている。
タリクは正直だいぶ前に飽きていたが、彼女のそばを離れられないので、仕方なく本を開いて同じ行をずっと目でなぞっている。
「ナディア。まだ続けるのか。もう真夜中をすぎたぞ」
欠伸交じりにそう声をかける。
「もう少し」
「七回目」
短くそう言うと、彼女が開いた本の中ほどに指を置いて顔を上げた。読みかけの箇所を見失わないようにするためだろう。
「七回目の『もう少し』だ」
「すみません、本当にもう少しです。魔術史の授業で出た『星見に関する民間伝承と学術的記録の比較』のレポートをもう少しだけ進めておきたくて」
「ああ、星見の祭典での巫女役を選出するための課題か」
「巫女役にならなくてもよいのですが、課題でいい成績をとりたいので」
彼女はそう言うなり再び本に目を落とした。
その視線を手で遮る。
「今日はもう終わりにしよう。課題の提出はまだ先だろう。本は逃げないし、君は少し休むべきだ。昨日の夜もこうやって遅くまで残っていたし、部屋に戻ってからも資料をまとめていた。ろくに眠ってないだろう」
部屋の窓のすぐ外に――不本意ながら――住んでいるので、ナディアの部屋の明かりが毎日遅くまで灯っているのを知っている。
そんな彼女を見ていると、かつての友の姿が脳裏に蘇る。優秀で、真面目で、常に努力を欠かさなかった。彼も毎日遅くまでこの図書館にいた。だがある日学院を去った。何の前触れもなく壊れてしまった友人をただ見つめることしかできなかった。そのときの衝撃は、今も消えない。
「もう少しだけ――」
「三週間くらい先の予習まで終わってるだろう。周りを見てみろ。眠そうな司書しか残ってないぞ。他の学生は今頃夢の中だ」
タリクの動きにつられるように、ナディアは周囲を見回した。
ランプの光が磨かれた床に映り込んで淡く輝く。壁一面を覆う本棚には色とりどりの背表紙が並び、空気に革や羊皮紙の匂いが満ちている。
空き時間や授業の終わりにナディアは毎日ここを訪れ、本と向き合っている。
「かえって効率が悪くなるぞ」
そう続けると、ナディアは下唇を噛んだ。
「前期の成績は圧倒的一位だ。廊下に貼りだされていた点を覚えている。見たことのない合計点に皆がザワついていたからな。主要八科目の合計が七百九十七点だったか。二位の生徒がどんなに頑張っても、あの点数差は覆せない。奨学生の地位は安泰だよ」
灰色の大きな瞳がこちらを見据えた。
叢雲から差す月明かりのような、深みのある色だ。
「……たしかに奨学金を得ることは勉強の目的のひとつですが、それが最終目標ではありませんので」
「最終目標?」
「魔術団に入り、希望の職につくことです。そしてそこで評価を得ること。そう考えるとまだまだ足りません」
正直なところ、「評価を得る」という彼女の返答は少し意外だった。ナディアからは「出世したい」というような功名心を一切感じなかったからだ。純粋に勉強が好きなタイプだろうと思っていた。
「それならなおさら巧く手を抜けるようにならないと、入ってから苦労するんじゃないか?」
そう言うと、彼女がムッとしたのがわかった。唇がへの字になっている。
「手を抜く……? 魔術団の方々が……?」
「時間は有限だ。抜くべきところは抜き、注力すべきところへ時間をかける。そうしないと自分が潰れてしまう。君が尊敬する母もそうしていた」
王妃は王との婚姻後もしばらくは魔術団に所属し、筆頭魔術師と妃の両方の役割をこなしていた。当初は「どちらも中途半端になる」とか「魔術団を諦められないなら妃になるべきではなかった」とか、周囲から色々と言われたらしい。だが王妃は「うるさい人たちが私の人生について責任をとってくれるわけじゃなし」と意に介さなかった。タリクたちが生まれた後も兼務は続き、王妃は常々「私にできることは限られてるから、できないことは割り切らないとね」と笑っていた。
ナディアは眉を寄せた。
「そりゃ……そりゃあ、ルル殿下は特別な方ですから。私とは違います。並べて語ることすらおこがましいです。私は器用じゃないので、力を抜いてしまったら失敗するんです」
――『君はいいよな。何でも器用にやってのけて、いつも軽々と僕の前を歩いて行く』
かつての友の声が、記憶の底からせりあがってくる。
「お疲れなら殿下は先にお休みになっては? 私はここで引き続き、無意味な努力を続けますので」
「無意味だなんて言った覚えはないが」
彼女の物言いに、こちらも少しムッとした。
「帰れ」と言われたのに傍に居残るのも癪で「ではお先に」とその場を後にした。向かうは小さな巣箱だ。
――『僕の努力に意味なんかあるのか?』
友から投げかけられた問いの答えを、まだ見つけられていない。
***
ナディアは去って行く大きな背中を見つめてため息をついた。
――嫌な言い方しちゃった。
タリクは優しい。それは彼と共に過ごしたこの一週間ほどで痛いほどよくわかった。そんな彼のことだから、純粋な善意からの助言だったに違いないのに。勝手に「努力が下手」と言われているような気分になって、ムキになって生意気なことを言ってしまった。
本を読もうと文字を視線でなぞったけれど、罪悪感で集中できなくなって、結局すぐに閉じて席を立った。
寮の部屋に戻り、窓に歩み寄った。巣箱を見ると、スナネズミは一心不乱に巣箱の入口を噛んでいるところだった。ガリガリガリガリと固い音がする。そして巣箱の上にはナディアを睨みつける鷹。
「あの」
声をかけると、琥珀の瞳がナディアを見つめた。そして小さなスナネズミは窓の隙間から部屋に飛び込み、机の上に乗った。こちらには背を向けたままだ。常ならぬその様子に一瞬驚いてから、はたと気づいた。
――そっか、離れたから不安だったんだ。
特に使役の関係を結んだばかりの頃は不安感が強いという話だった。
不安を感じるのは使い魔のほうなのに、その辛さも理解せず「先に帰っていて」だなんて、ひどいことを言ってしまった。
ナディアは木箱についた無数のかじり跡を見て申し訳なく思った。
「ごめんなさい、私の体のことを気づかってくださったのに」
返事はない。怒っているのだろう。
窓枠に腕を乗せ、そこへ顎を載せて空を見る。今日は月が細い。おかげで星がよく見えた。
スナネズミはトコトコと近づいて来て、ナディアの隣に座る。が、やはりこちらを見ない。
ビャー、と鳴いた鷹がナディアとスナネズミの間に割り込むように留まる。そして喉の奥で唸るような声をあげ、翼を何度かバタバタした。
すっかり嫌われているようだ。
ナディアは鷹の向こうのスナネズミを見た。やはりそっぽを向いている。胸がシクシクと痛んだ。
――友達と喧嘩したことがないから、仲直りのしかたがわからないよ。
でも、このままじゃ嫌だ、とナディアは思う。
――ちゃんと話したら、聞いてもらえるかな。
鷹とネズミのさらに向こう側、遠い空に無数の星が散らばっている。
その星を見つめてナディアは口を開いた。
「私は星の街ヌジュームで生まれ育ちました。だから母や叔母が恋しくなると星空を見上げるんです」
貧しい街だったから、夜になるとどの家も灯りが消えて真っ暗になった。そうすると、空が落ちてきたのかと思うほどの星々が一斉にきらめき、街を覆う。あの空を眺めているだけでナディアは幸せだった。
幼い頃は母も今より元気で、一緒に空を眺めることもできていた。「ほら、あれは旅人の星よ。ナディアもいつか旅に出るかしら」と話しながら繋いだ手のぬくもりを、いまも鮮明に覚えている。
その幸せな場所からひとりで王都まではるばる出てきた最大の理由は、そんな母の病だった。
原因不明、治療方法も不明。青白い顔でベッドに横たわるだけ。手のひらに掬った砂が指の隙間からこぼれ落ちるように少しずつ着実に弱っていく母を、ナディアはなんとかして救いたかった。
「魔術団の第三局に入って、母の病を治す方法を見つけたいんです。そのためにはまず、この学院を卒業しなければなりません。でも高額な学費を払う余裕はどこにもありません。だから、どうしても奨学金を得続けるしかなくて……絶対に成績を落とすわけにはいかないんです」
ちょうど一年前の今頃だった。王都の学校へ行ってみないか、と教師から提案されたとき、ナディアは首を横に振った。病床の母を叔母に押しつけて自分だけ王都へ行くことなどできない、と。
そんなナディアに叔母は「学ぶ機会を自ら手放してはダメ。お金も姉さんのことも私がなんとかするから」と言い、厳しい家計の中から旅費を工面して送り出してくれた。叔母自身は母の看病とナディアの養育のために若い時間のすべてを捧げ、学ぶ機会も時間も得られなかったというのに。
『あなたには才能がある。それは意味があって与えられたものよ。忘れないで。あなたは私の自慢の姪よ』
家を出るときの叔母の声が脳裏に蘇る。
もしも自分の能力に意味があるとしたら、母を救い、叔母の生活をよりよいものにすることだ。
ナディアには無駄にできる時間はない。叔母の想いに報い、母の病を治すために、一分一秒すらも惜しい。周囲のヒソヒソ話があまり気にならないのは、たぶんそのせいもあった。気にしている暇なんてない。そんな時間があれば勉強に費やしたかった。
「どんなにたくさんの本を読んだって、早く大人になれるわけでも、早く魔術団に入れるわけでもないとわかっているんです。それでも、何かしていないと落ち着かなくて」
母の体からこぼれ落ちる命の砂を拾って彼女の体に戻しているような、そんな心持ちで勉強していた。止まってはダメだ、手を動かし続けなければ、と。
「ごめんなさい。殿下には関係ないのに、焦りをぶつけてしまって」
横を見ると、琥珀色の瞳と目が合った。
「今までみたいに話せなくなるのは悲しいです。許してくださいますか?」
こわくてギュッと目をつぶったら、スナネズミがチチチチチチ、と低く鳴いた。そしてナディアの指に頬をすりつけてくる。
ナディアは目を開けて琥珀色の瞳を見つめた。相変わらず鳴き声の意味はわからないけど、なんとなく、許してもらえたような気がする。
開いた窓から吹き込む夜風がナディアの髪を揺らし、どこか遠くで鐘の音が一度だけ響いた。未来への不安は尽きない。けれど、こうして空を仰げば、星々が道を示してくれる気がする。
その夜は遅くまで、一人と一匹と一羽で星を眺めていた。
翌朝ナディアは柔らかな寝具に包まれて目を覚ました。いつのまにベッドに入ったのか、記憶がない。ただ、彼の魔力の匂いがかすかに残っていた。
――殿下が運んでくださったのかな。
起き上がって窓を開け、巣箱に「おはようございます」と声をかけた。巣箱の上にいた鷹が、今朝はピャーと優しい声で鳴いた。




