6 食堂の片隅に
『ナディア、起きて。朝よ』
叔母の優しい声がする。「ライラ叔母さん、お願い。もう少しだけ」と返事をしようとして、そこがベッドでないことに気づいた。頬に当たる感触が硬い。
ヂヂヂヂヂヂヂ、というけたたましい鳴き声が耳元で聞こえる。
目を数回しばたたいて、寮の自室にいることを自覚した。顔を上げ、目をこする。どうやら、昨晩机に向かったまま寝落ちしてしまったらしい。
「あ、え、あ、そっか、スナネズミ、殿下、あ、おはようございます」
寝起きのまとまらない思考ながら、傍にいるスナネズミに挨拶をする。机で寝こけたナディアを起こそうと耳元で鳴いてくれていたようだ。
相変わらず人前で言葉を交わすことはないが、朝晩に「チチチチ」と鳴いてくれるようになり、ナディアはこれを「おはよう」と「おやすみ」と受け止めている。
と、スナネズミの視線がナディアの手元に落ちていることに気づいた。ナディアは慌てて「わっ」と声を上げながら机に突っ伏し、手元を覆い隠した。叔母からの手紙に返事を書いているところだったのを思い出したからだ。
腕からゆっくりと視線を上げ、すぐ近くにいるスナネズミを見つめる。
――読まれた……?
琥珀色の美しい瞳がするりと逸らされたところから、手紙の内容を読まれてしまったと知れた。
「ぎゃー」
ナディアは思わず悲鳴のような声を上げ、再び突っ伏した。
叔母からの〈友達とは仲良く過ごしているかしら? 寮生活は寂しくない?〉という手紙に〈友達が皆優しいから寂しくなんかないよ。図書館で一緒に勉強したり、食堂で一緒にご飯を食べたり、毎日すごく楽しくて充実してる〉と嘘八百の返事を書いていたのだ。
――恥ずかしい。ついこの間「慣れてるから平気だ」なんて言っておいて、こんな手紙を書いていると知られるなんて
「あの、違うんです、これは……叔母に……心配をかけたくなくて」
伏せたままモゴモゴと言い訳をする。
友人がいないことよりも、叔母に友人がいないと思われることのほうが辛いだなんておかしいだろうか。
「これくらいの嘘は許されるかなって……」
叔母は王都へ向かうナディアに「きっと王都でなら素敵な友達ができるわよ」と言ってくれた。その笑顔に、期待に、応えたかった。
ワクワクしながら学院の門をくぐったのは半年前。だが七年生ともなれば、みな既に決まった友人がいる。しかも飛び級のせいで級友たちとは年齢も違う。王都の話題についていくこともできない。結局、前期が終わるまでに一人も友人はできなかった。
「魔術のことは本を読めばわかるけど、友達の作り方なんてどこにも書いてなくて……」
スナネズミは何も言わない。
しばらく顔を覆って恥ずかしさが去るのを待ってからゆっくりと顔を上げた。
スナネズミは静かに窓の外を見ていた。
東向きの窓から低い陽が部屋に差し込んでいる。
「授業……行かなきゃ」
そう呟くと、スナネズミがピョンとポケットに飛び込んだ。
*****
昨日と同じように背中合わせで朝食を食べ終え、ナディアが履修している七年生の授業に向かう。空き教室でスナネズミに変身したタリクをポケットへ入れ、西校舎へ。
最初の授業は『使役魔術』、タリクを使い魔にしてしまった原因ともいえる授業だ。使い魔を連れての初めての授業ということで、まだ絆の出来上がっていない動物たちが飛び回る混沌とした空間になった。
「今日から感覚共有の訓練をします。互いの体に触れていた方が感覚をつかみやすいので、まずは使い魔に触れてください」
教授の指示を受け、ナディアは硬直する。
――体に……触れる……?
抱き上げるためとか、ポケットからの出し入れのためとか、そういう理由で触れることはあるが、改めて「体に触れてください」なんて言われると、どうすればよいのかわからない。
身動きできずにスナネズミを見つめていたら、「ヂヂ」と鳴かれた。宙に浮いていたナディアの手をスナネズミの小さな手が掴む。手をつなぐような形になって、おまけにその小さな手の温度を感じてしまって、とても気まずい。
――今さらだけど、これって不敬に当たるんじゃ……
王子の体に触れるなんて本来許されないことだ。
――本当に、殿下にとってはとんだ迷惑だろうな……
「ヂヂヂヂヂヂッ」
険のある鳴き声に思考を引き戻された。
集中しろ、と言われている気がする。
「理論はすでに学んだ通りです。その状態で各席に用意してある氷に触れて、冷たい感覚を使い魔に伝える訓練を始めてください」
結局、一時間半の間ずっとスナネズミと手を繋いで過ごすことになった。
使役の術により術者と使い魔の間には魔力回路のつながりができる。この複雑な回路を読み解くことで、回路を使って感覚や魔力の共有を行えるようになる――と、本に書かれている内容を知ってはいても、実践となると別だ。巨大な迷路を手探りで進むような作業になる。
――集中、集中。
一生懸命迷路を進んでいる最中に繋いだ手のことを考えてしまって何度も「あぁ、やりなおし」となり、結局感覚の共有まで辿り着けないまま終わってしまった。
授業終了を知らせる鐘が鳴るなり手を離し、心の中で何度も謝りながらポケットに導く。
――次の授業は殿下に迷惑をかけない授業内容でありますように。
祈るような気持で階段を下り、次の教室へ向かう。
続くは『防衛魔術』の授業だ。
中にいるタリクが揺れないよう、ポケットに手を添えて歩幅を小さく歩いていた。
角を曲がったときだった。
大柄の学生にドンとぶつかってしまった。ナディアはよろめき、尻もちをつく。その拍子に、持っていた本がポケットにぶつかった感触があった。
ごめんなさい、とその学生に謝るのもそこそこに、近くの空き教室に飛び込んだ。すぐに彼の変身を解く。現れたのは不機嫌な顔の王子だ。
「いきなり戻すのはよせ。また服が間に合わなかったらどうする」
「殿下。すすすすすすすみません、だだだだだい大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
タリクはめんどくさそうに言う。
「なんともなグゥ」
なんともなくはなさそうな声を上げ、しゃがんで足首を掴む。
「痛むのですね?」
「すぐに治る。気にするな」
「少しお待ちください。たぶんこれで――」
ナディアは彼のすぐ横にしゃがみ込み、掴んでいる箇所に向けて術印を結んだ。
柔らかな光が足首を包む。
「……今のは母がよく使う術だ。学生が使える魔術の域を超えていないか?」
「治癒魔術は得意なんです。母の病に効くものがないかと、手当たり次第に試したので。郷里の学校の先生の話では、私の魔力がもともと治癒魔術との相性がいいのでは、と」
タリクは足首の感触を確かめるようにブラブラと振って見せ、「痛みが消えた」と呟く。
「それにしても、治癒魔術は魔力の消費量が大きいはずだ。なんともないのか」
「はい」
「……魔力の量をはかったことは?」
「村の学校に通い始めたときに簡易的なもので測ったことはありますが……測定不能、と出ました」
「なるほど、多すぎるということか」
思えばあのときからだ。周囲の子どもたちから遠巻きにされ始めたのは。
ナディアの心がしくりと痛む。
タリクは「おしゃべりをしている暇はないな」と言い残すと、またネズミの姿に戻った。
今度こそ慎重に、しかし急いで、ナディアは次の教室に向かった。
――殿下は魔力の話を聞いても変な顔をしなかったな。
ホッとしながら教室に入り、教科書を開いて講師の到着を待った。
*****
「防御魔術は地味だが、魔術師が命を守るために最も重要な術のひとつだ。攻撃魔術の方が派手なせいでそちらに傾倒する学生も多いが、防御を侮ってはいけない」
ナディアは最前列に座り、なにひとつ聞き逃すまいと必死にペンを走らせる。
スナネズミはまもなく、机の上で丸まってスヤスヤし始めた。
防御魔術はナディアが楽しみにしていた科目のひとつだった。王立魔術団から派遣された団員が教鞭をとっているため、地元の学校よりもずっと高度で実践的な内容を学ぶことができる。
後期に入って初回の授業ということもあり、前期の復習が講義の中心だ。
ところどころ教科書をめくりながら講義を聴いていたら、一時間半があっという間に過ぎる。「次回からいよいよ実技に入るぞ」という予告とともに、最前列に座っていたナディアが指名されて前に出た。
「今から術をかける。防いでみろ」
唐突な指示に驚きつつ、講師と対峙する。
簡単な術なら片手で使えるが、講師との対決となると話は別だ。両手で術印を結び、防御を展開する。複雑な術を組んでいるうちに、講師の魔力の匂いが迫る。講師は黙ってこちらを見据えているだけだというのに。印も結ばず詠唱もせずにこの速さで術を展開できるなんて、とナディアは焦る。
――速すぎる、ダメだ、間に合わない。
迫りくる魔力の気配に目をつむる。
すぐに魔力の匂いに包まれ、防御に失敗したことを理解した。
が、予想していた痛みなどはない。
ゆっくりと目を開ける。と、講師が「理論は理解していても、反応が追いつかない。これが防御魔術の難しいところだ。わかっただろう?」と微笑んだ。
「はい」
「だが、術の選択はよかったし、構文も完璧だった。瞬時にその術式を想起できる七年生はほとんどいない。誇っていいぞ」
「……ありがとうございます」
講師に促されて、教室からパラパラと拍手があがる。が、拍手よりもクスクス笑いのほうが多い気がする。
――?
ナディアの疑問をよそに、講師が話し始める。
「先ほどナディアが展開したのは魔力障壁だ。相手の術が読めないときに身を守るには最善の選択だろう。だが扱いが難しい。パンの材料が小麦と水だということを知っているからといって、誰もがパンを焼けるわけじゃない。正しい方法を学び、鍛錬することが必要だ。次回以降、その鍛錬を行う」
講師は教室全体に向かってそう言った。
なぜかクラスメイトたちの視線が自分の頭上に集まっている気がする。
理由はまもなくわかった。顔の横にあるモシャモシャした髪の毛が黄緑色だと気づいたのだ。自分の髪をつかんで、思わず「ヒッ」と声を上げた。同時に教室がドッと沸く。さきほど講師にかけられた術は、髪色を変えるものだったらしい。
笑い声で目を覚ましたスナネズミが机の上からナディアを見て「チチ」と警告音のようなものを発した。
「心配ない。髪色は一週間で戻る。では来週また会おう」
講師はそう言って授業を締めくくった。
――え……一週間……? この姿で……?
級友たちの視線を感じながら、ナディアは絶望的な気持ちになった。
*****
授業後にたっぷり一時間は奮闘したが、講師の魔術の術式がわからず、元に戻せない。染色の魔術でもないようだし、物体の色を変える魔術でもなさそうだ。
黄緑頭のまま食堂の隅で小さくなってスープを流し込んでいたら、近くのテーブルで声が上がった。
「あの派手な頭、どうしたの?」
「防衛魔術の授業でミスったらしい」
「奨学生なのに? 大したことないんだな」
「座学だけはできるけど……ってとこじゃない?」
「にしても、あの色。食堂の隅に木でも生えたのかと思った」
忍び笑いが聞こえてくる。
髪色がおかしいことよりも、そのせいで周囲の視線を集めてしまうのがつらい。
ふいに「慣れるな」という先日のタリクの言葉がよみがえった。
『慣れるな。誰かに傷つけられることを当たり前にするな』
――でも殿下。慣れないと、毎回あの頃と同じように傷つくことになってしまいます。
ナディアは慣れることで傷つかなくなったのだ。
毎日学校から帰るたびに部屋に隠れて泣く日々に戻りたくはない。
早く食事を終えてこの場を立ち去ろうと平パンを口に詰め込んでいたときだった。
「私はなかなかいい色だと思うが」
すぐ近くでよく通る声がそう言ったので、ナディアは思わず顔を上げた。




