5 濡れた砂
幸いハーリドに怪我はなく、頭頂部の髪が少し焦げた程度で済んだらしい。
「お前の髪もかっこよく整ってよかったな」
教室のどこかからあがった低い声に、再び笑いが起きる。
ハーリドは真っ赤になってナディアに「お前がやったのか」と食って掛かったが、教授が「君がこれ以上彼女を攻撃しないよう、君の術の直後に二人の間に魔力障壁を張った。ナディアじゃない」と断言してくれたおかげで、とばっちりを受けずに済んだ。結局ハーリドの髪を燃やした犯人はうやむやのまま、教授に「あれは君が放ったのと同じ術だ。自業自得ということだな」と一蹴されて終わった。
その夜、図書館での自習を終えたナディアは、ポケットの中で眠ってしまったスナネズミを巣箱に戻してから自室の鏡を覗き込んだ。
耳の横あたりの毛がちぢれている。指先でそっと触れると、数本が脆く崩れて落ちた。指先から焦げの匂いがして、胸の奥に小さな痛みが広がる。
――まぁ、髪なんてまた伸びるし。くしゃくしゃして邪魔だったし。
漏れそうになるため息を吸い込んで自分に言い聞かせていたら、横から低い声がした。
「私でよければ髪を整えよう」
窓辺にタリクが立っていた。黒髪が月光に照らされて艶めいている。
「あ……殿下……今日は服を着ていらっしゃるんですね」
彼は目を細めた。
「人聞きの悪い。いつも着ている」
「あ……すみません、言い方を間違えました」
「必要なときにすぐに着られるよう、服を小さくして常に持ち歩くことにしたんだ。さすがに二度も裸を見られたくはないからな」
「ウッその節は――」
タリクが手を上げた。
「その件はもういい。焦げた毛を整えるぞ。上手くはないが、自分でやるよりはマシだろう。直接手は触れないから心配はいらない」
逆らえるはずもなく、促されるまま彼に背を向けると、髪に柔らかな風が絡む。焼けた岩肌に夕立が触れたときのような魔力の匂いがナディアの頭を包んだ。
――やっぱり、授業でのハーリドの髪に魔法をかけたのは殿下だったんだ。
そう確信しているうちに、焼けて縮れてしまった毛がハラハラと顔の横を落ちて行く。
「君は腹が立たないのか? ハーリドだけじゃない。連中の声は聞こえていたはずだ。君の能力ならやり返せただろう」
彼は低く問いかけてきた。
小さな鏡越しに目が合う。
頭のすぐ後ろから人の声が聞こえる状況に慣れないせいか、胸の真ん中がドキドキとやかましい。
乱れる呼吸を整えようと、ナディアは胸を押さえた。そして口を開く。
「……そのままにしておけば、いずれ飽きますので。皆そうです」
「皆?」
タリクの声が鋭さを増す。
「つまり、これまでにもこんなことが? この学院で? 七年生か? 誰だ」
ナディアは鏡の中の琥珀色から目を逸らした。
「学院へ来る前からです。ヒソヒソされるのには慣れていますので平気です」
郷里の村にいた頃からずっとヒソヒソされていた。
父親のいない子どもだからかもしれないし、家が極端に貧しくてボロい服を着ていたからかもしれないし、いつも本ばかり読んでいたからかもしれない。ヒソヒソされる理由はいくらでもあった。
子どもは残酷だ。幼い頃に通学路で石を投げつけられたときに比べれば、学院での小さな悪意など、痛いうちにも入らない。
ナディアの言葉を聞いた瞬間、タリクの表情がこわばった。
「慣れるな」
唸るように言われ、ナディアは目を瞬く。
「そんなことに慣れるな。誰かに傷つけられることを当たり前にするな」
その迫力と彼の言葉に圧倒されて、言葉を返せなかった。
タリクの魔法は驚くほど滑らかで、話しているうちに彼女の髪は焦げ跡ひとつなく切り揃えられていた。相変わらずくしゃくしゃしているので見た目にはさほど変わりない。
「よし、終わった」
続けて彼が何か短くつぶやくと、床に落ちていた髪が消える。
「ありがとうございます」
「このくらい、大したことじゃない」
ちがう、髪を整えてくれたことだけを言っているんじゃない。
ナディアは迷った末、口を開く。
「……授業での件も」
「授業?」
鏡越しに目が合う。
「ハーリドの髪の毛です。彼が火傷するのではとハラハラはしましたが、注目が彼の方に向いてくれて助かりました」
彼が目を細めたので、琥珀色の瞳が半分ほど隠れた。
「……火傷しないように手加減はした」
「そうでしたか」
「無詠唱で術をかけたのに、なぜ私の仕業だとわかった?」
当然、この問いを投げかけられるだろうと予想していた。だから授業のことを持ち出そうか迷った。でも、庇ってくれたことへの礼を伝えたかった。
琥珀色の瞳が鋭くこちらを見つめている。誤魔化しを許さない、揺るぎない強さを秘めた目だ。
ナディアは短い逡巡の後、大きく息を吸ってゆっくりと口を開いた。
「魔力の……匂いでわかりました」
「匂い? なんだそれは」
「人ごとに固有の魔力の匂いがあり、その匂いで誰が術を使ったのかわかるんです」
こわばった声が出たのは、これまでにこの能力について何度も「気味が悪い」と言われてきたせいだった。
琥珀色の瞳に恐怖や侮蔑が浮かびやしないかと怖くなって目を逸らしたのとほぼ同時に、彼が「面白い能力だな」と呟いた。
「私の魔力はどんな匂いなんだ?」
「焼けた岩肌に夕立が触れたときの匂いです」
形のよい眉が中央に寄る。
「……湿っぽい、ということか……?」
「あ、いえ、いい匂いです。濡れた砂の」
慌ててそう答える。
タリクはなおも疑っているように目を細めたが、ややあってその表情をゆるませた。
「君自身の魔力の匂いは?」
「感じません」
「ほぅ。本当に面白い能力だ」
その表情を見れば、ナディアへの気遣いからでた言葉ではなく本当にそう思っているらしいと知れた。
「……三人目です」
ナディアはぽつりと言った。
「何が?」
「この能力に肯定的な反応をくれたのは叔母と郷里の学校の先生と殿下だけ。三人目です」
そもそも信じてもらえないか、気味悪がられるかのどちらかだった。
タリクは眉を上げた。
「私と同じような感想を抱くと断言できる人間が、今すぐに思いつくだけでも五人はいる。父、母――」
言いながら指を折って数える。
「――兄、兄の妻、魔術団長、あぁそれに私の護衛、叔父、叔母、従兄弟たち……まだまだいるだろうな」
タリクは折った指をナディアに見せる。
「君はまだ、出会うべき人たちに出会っていない。それだけだ」
そう言い終えると、タリクは窓の外に目をやった。
「もう遅いな。すまない、長居をしてしまった。女子寮に忍び込む変態の誹りを受けたくはないから、これで」
そう言うと、彼は魔力の匂いに包まれた。
瞬く間に小さなスナネズミの姿になり、窓枠の向こうへするりと出て行った。
「おやすみなさい」
巣箱に入る小さな背に声を掛けると、スナネズミはチチチチと鳴いた。
――たぶん、これは「おやすみ」だと思うな。
ナディアは自分の髪からただよう彼の魔力の残り香に包まれてベッドに入り、目を閉じた。
友人のひとりもいたことのないナディアが「王子」だなんていう特別な立場の人と長い会話をしたせいか、鼓動がドクドクとうるさい。
けれど、じきに睡魔に負け、深い眠りについた。




