2 ルル
興奮で息苦しさを覚えながら、ナディアはゆっくりと振り向いた。
入口から差し込む月明かりを背にした華奢な人物が長いローブを翻し、なめらかな足取りでこちらへ近づいてくる。
その姿を見て、ナディアの呼吸が止まる。
「タリク、無事に見つかったと聞いて安心したわ。見つからないという報告を聞いて、そろそろ出張ろうかと思っていたところだったの」
その人物の呼びかけにタリクが軽く頭を下げた。
「母上、ご心配をおかけして申し訳ありません」
二人のやりとりを見つめていると、王が「ナディアよ」と言った。
「紹介しよう。我が妃ルルだ」
そう言って、隣に立つ王妃の肩にそっと手を添える。
「ルル、こちらはナディア」
王の紹介に頭をさげることも忘れ、ナディアはぽーっと王妃を見つめた。
魂を抜かれたようになってしまったのは、黒衣を纏った王妃の美しさのせいだけではない。ナディアにとって王妃は憧れの存在だった。王妃となる前は王立魔術団で働いており、その優秀さから史上最年少で筆頭魔術師の称号を得た伝説の人物だ。ナディアの通う王立魔術団付属魔術学院の卒業生でもあり、ナディアが学院で学びたいと思った理由のひとつでもある。
「王都にいる間に一度くらい遠くから御姿を見られるかもしれない」という秘めた願いがこんな形で叶ってしまって、信じられなかった。
惚けたナディアの視線の先で、王妃は戸惑ったような顔をする。
「それでええと……この……口の閉じ方を忘れた様子のお嬢さんが、タリクに使役の術をかけた人ってことでいいのかしら?」
王妃の言葉に、ようやくナディアは開きっぱなしだった口を閉じた。しかしすぐに開く。
「る、ルルルルル殿下……!」
「ちょっと『ル』が多いわね」
王妃がクスと笑う。
その笑顔ひとつで、ナディアの胸が弾けそうになる。息を呑むついでに大きく吸い込んで、一気に吐き出した。
「おおおおおお王立魔術団第三局の筆頭魔術師でいらっしゃったときに殿下がお書きになった『大陸縦断の魔力調査』の論文群は全て読みました! 『砂漠環境における魔力流動の不均衡とその要因』を始めて読んだ時にはあまりに衝撃過ぎて、街を出て砂漠に飛び込んだほどです! それから『魔力濃度の定量化を目的とした測定法の試み――小規模計器群による連続観測の有効性』や『都市環境下における魔力乱れの長期観測――王都周辺を対象とした実測データに基づく報告』ももちろん読んでいましてッ! 王都へ来て街角で実際の計器を見かけたときには殿下の叡智が息づいていることを確認できて大ッ変に感動いたしました! 『土地特性と魔力循環――乾燥地帯における乱流現象の記録と解析』もとても興味深かったです! 砂粒だけでなく天候も魔力の制御に影響するという、近代魔術における現在の通説の礎となった論文ですし――」
タリクから短く「一度息を吸え」と言われ、胸いっぱいにスゥと吸い込む。そしてできるだけ息を節約しながらまた喋り出す。
「それから『高密度魔力結晶の安定化処理』ですが、論文はもちろんのこと、研究メンバーのお一人だった方が書かれた手記も拝読しまして、百十七回の失敗の末に成功されたという裏話を知って尊敬が止まりませんでした! 諦めず信念を貫くことの尊さを私はあの手記から学んだように思います。あの手記の発表以降第三局への入局希望者が倍増したというのも納得です。心より尊敬しております!」
途中で舌が絡まるのも構わず、早口でそうまくしたてた。
幼い頃から憧れ続けてきた人を前に、冷静でいられるはずがなかった。
ナディアが息も切れ切れに言い終えると、王妃は「それはそれは。光栄だわ」と言ってナディアを見つめ、微笑んだ。憧れの人から直接声をかけてもらい、ナディアは再び恍惚タイムに入る。
そんなナディアをよそに、王妃はタリクに声をかけた。
「タリク、ちょっとこちらへ」
タリクが「はい」と王妃に歩み寄る。
そちらを見やったナディアの胸がドキンとはねた。さきほどまでは「生きるか死ぬか」の瀬戸際にいてそれどころじゃなかったが、処罰されないとわかると、寮の部屋で目にした肌色の光景が脳裏に戻ってきた。
――こここここ、この人の、はははははは裸、見ちゃったんだよね……
ナディアの荒れ狂う内心など知る由もない王妃は「使い魔の刻印がどこかにあるはずなのだけど……」と言いながらタリクの顔や首筋などをしげしげと観察している。
――ダメダメダメ、思い出しちゃダメ。忘れないと。忘れないと……
「あ、それならここに」
タリクがそう言いながらローブの袖を捲り、手首の内側を見せた。親指の爪ほどの大きさの丸い紋様が浮かんでいる。
「あぁ、ほんとね」
王妃はそう言いながらタリクの手首にそっと指を置いた。そして何かつぶやく。と、印が赤く光った。同時に、ナディアの全身を何か冷たいものが駆け抜けていく。ナディアはぞくりと背を震わせ、タリクは「ウッ」と低いうめき声のようなものを上げた。彼の手から王妃の手が離れると、ナディアの体の冷気も去った。
王妃はそんなタリクとナディアを観察し、「なるほど」と呟く。
「予想どおり、時間がかかりそうね」
「……母上ほどの魔術師でも?」
「人間への使役魔術が禁忌とされた理由は知っているでしょう? 解術がとても難しいの。特に、使役の関係を結んだばかりのときは結びつきが不安定だから余計に。無理をすると、どちらかまたは双方に危害が及ぶ恐れもあるの」
「つまり――」
タリクが続きを急かすように言うと、王妃は頷いて見せた。
「すぐには無理ってこと」
「どのくらいかかりますか?」
「懇意の魔術師たちの協力を仰ぐとして、一年……短くて半年くらいかしら」
「半年っ!?」
タリクは素っ頓狂な声を上げる。ここまでずっと低い声だった彼のそんな声に、ナディアもビクリとしてしまう。
「魔力の消費量を考えると、相当高名な魔術師を集めなければならないと思うわ。しかも事情を明かせないから、何も聞かずに力を貸してくれる人ね。適任の人を探すだけでも時間がかかる」
「不幸な事故なのだし、事情を明かしても――」
「『禁忌の術が使われたが解除できた』と? 向こう見ずな若者が『それなら自分も試してみよう』と考えかねない。そんな危険は冒せないわ。残念ながら世の中には、信じがたいくらい愚かな人間というのが存在するのよ、タリク。諦めて待つしかないわ」
王妃の言葉に、タリクは深いため息をつく。
「つまり……解術までの長い期間、私は使い魔として過ごさなければならないと?」
「そういうことになるわね」
タリクは大きなため息をついた。
ナディアも驚いていた。
解術が難しいと聞いてはいたが、伝説の魔術師の手にかかれば数時間――最悪でも数日でできると思っていたのだ。
「だってタリク、死にたくはないでしょ?」
「当たり前でしょう母上……」
「それなら、諦めてしばらく使い魔として過ごすことね」
テキパキとそう言いながら王妃が手を一振りすると、テーブルがひとつと椅子が四脚現れた。
呼び寄せの魔術だろうか、それとも短時間で物質を構成する魔術だろうか、と考えていると、「ナディア、床に座りっぱなしじゃ疲れるでしょう。ここにお掛けになって」と声をかけられた。
理解に時間がかかったせいで、一拍遅れてブンブンと首を横に振る。
「いえ! 私は床で十分でございますので……!」
この人たちと――特に憧れの王妃と――同じテーブルを囲むなんて、心臓がいくつあっても足りない。
「あら、そんなことじゃ困るのよ。あなたたちはこれから使い手と使い魔として共に過ごすのよ? 慣れないと。ほら」
眉の動きで「座りなさい」と言われ、ナディアは恐縮しながら椅子に腰を下ろした。王妃がナディアの隣に、王とタリクが正面に座る。
王妃からえもいわれぬいい匂いが漂ってきて、思わずスンと鼻を鳴らしてしまった。
「さて」
王妃が言った。
「当面、あなたたちが行動を共にする言い訳を考えなければならないわね」
「……行動を共に……?」
ナディアの心に浮かんだ疑問を、王子が口にした。
「ええ、そうよ。四六時中ね」
王妃の言葉に、ナディアは目を見開いた。




