23 道連れ
探索の術を展開していた左手を前に出す。
攻撃に転じる瞬間に隙が生じる、というのはタリクの護衛から教えてもらったのだった。だから挑発し、攻撃させることを選んだ。
ハサンがナディアを攻撃しようとした瞬間、ナディアは入り組んだ術に小さな綻びを見つけた。その小さな穴を刺すと、探索避けの術がほどける。
複雑な術式であればあるほど綻んだときに脆い。だから古の単純な魔術がいつまでも重宝されるのだ。そんな授業の内容も、もうこの人は忘れてしまっているのだろう。
「……どういうことだ?」
問われたナディアはハサンの胸元を見つめた。
「さっきから見えていますよ。あなたの大切なものが」
ハサンが視線を落した。そして、首や胴に巻いた幾重もの鎖とそれに繋げられた丸い石が見えてしまっていることに気づいたのだろう。ハッと息をのむ。
「お父様……それ、まさか……」
フィオレンシアが震え声で言った。
魔石だ。「石」と呼ぶには少し大きすぎるくらいの、ナディアのこぶし大の赤いものが鎖に繋がっている。
「最初からこれが目的だったのか」
ハサン卿が唸る。
「そうですね。重大なものを隠しているのだろうと思っていました。そしてそれを肌身離さず持っているであろうことも、わかっていました」
出発点は小さな違和感だった。
魔術師ばかりが集う式典の会場でひときわ強い香りを放っていた。魔力の匂いがするのは何らかの術を展開するときだけだ。つまり、ハサン卿は常に強力な術を使っていることになる。
護身にしては強すぎる。どんな術なのか。
地下の書庫で本に埋もれながら、ふと思いついてハサン卿の家系を調べた。そして、かつて鉱山を持っていたことを知った。そこから答えにたどりつくのはそう難しくなかった。
学院の教授陣がこぞって駆り出されたこともナディアの推測を後押しした。
ハサンが魔石を持っており、その魔石の暴走を防ぐために人が集められているのでは、と。
家族であるフィオレンシアに対してあんな態度をとるような人間だ。自分以外の誰も信用しないに違いない。とすれば、大切なものは肌身離さず持ち歩くはず。そう考えたら、ハサンがいつも魔力の匂いを漂わせているのも頷ける。魔石が見つからないよう、常時自分に探索避けの術をかけているに違いない。
その推測が当たっていた。
ただ、
――こんなに大きいとは思わなかった。
魔石の危険性は本で読んで知っている。
ナディアはごくりと唾を飲んだ。
ハサンは口の片側を捲り上げるように笑った。
「それで……どうする気だ? まさか私が観念して自らこれを差し出すだなんて思っているわけじゃなかろうな? 探索避けの術など、破られてもかけ直せば良いだけ。よしんば君がこの屋敷から生きて出られたとしても、魔術団高官の私とたかが学生の君、皆がどちらを信じると思う? 所詮は子どもの浅知恵だったな。まぁ――」
笑みが消える。
「――無事に出られるなどと夢を見てもらっては困るが」
ナディアは強い母の匂いで胸を満たし、ゆっくりと口を開く。
「『魔力濃度の定量化を目的とした測定法の試み――小規模計器群による連続観測の有効性』」
低い声で言った。
「『都市環境下における魔力乱れの長期観測――王都周辺を対象とした実測データに基づく報告』」
ハサンは戸惑った顔で「は?」と言う。
「ルル殿下の論文です。王妃は魔術団時代に、土地と魔力の関係について研究しておられました」
唐突にそう切り出したので、ハサンの目に困惑の色が浮かぶ。
「それがどう――」
「研究のため王都のそこかしこに設置された計器は現役で、常時周辺の魔力量が集計されています。今頃、あなたの魔石から漏れだした魔力で付近の魔力計が振り切れているはず。その膨大な魔力の発生源を特定するのに、それほど時間はかかりません。再度探索避けをかけて魔石を隠したとて、今度は魔力量の異常減少を検知するだけ」
使役の術はナディアひとりではどうしようもない。
ただ、魔術団がハサン包囲網を縮めているであろうことは理解していた。動けないのは決定打がないからだ。
だからナディア自身が決定打となるべくここへ来た。母の娘とわかれば動揺するだろうし、フィオレンシアとの会話に垣間見えた人格からして、劣等感を刺激すれば逆上するだろう。攻撃させ、その隙をついて魔力を漏れ出させる。
「浅知恵の想定通りになったようです」
奥歯を噛み締めたのだろう、ハサンからギリリという音がした。
「小賢しいことを。父親と同じ運命を辿らせてや――」
「そんなことはさせない」
背後から低い声が割り込んだ。
ナディアは肩で大きく息を吸った。
――来てしまった。巻き込んでしまった。
振り向かずとも声の主はわかる。
ハサンがナディアの肩越しにその人物を見つめる。
「客を通してよいと許可を出した覚えはないが」
「私がお通ししました。私のお客様です」
フィオレンシアの声がハサンに反論する。
まもなく、彼の魔力の匂いがナディアを守るように包み込むのを感じる。
コツ、コツ、緑のフードを目深にかぶっていたその人がナディアの隣に立ち、ゆっくりとフードを脱いで顔をさらした。その正体はハサンを驚かせたらしい。ハサンは小さくハッと息を呑んだ。
「……これはこれは。タリク殿下とは。もしかして、さすがに王子には手を出せまいとでも思ってノコノコといらっしゃったのですかな。あいにくだが――」
「いいや。あなたがそんな良識などとうに捨ててしまっていることは知っている」
呼び鈴が鳴った。
ナディアとタリクを警戒しつつ、ハサン卿は窓へにじり寄り、一瞬、窓の外を窺い見た。
「どういうことだ。なぜ魔術団がここに。いくらなんでも早――」
「護衛を撒く癖のある困った王子を回収するために、あなたに協力を求めにやって来ているんですよ。もっとも、遠からず『異常な魔力の乱れの発生源を特定せよ』という勅命を受けた者たちもやって来るでしょうが」
タリクの言葉はハッタリではない。ナディアにはそれがわかった。
数えられないほどの魔力の匂いがナディアやタリクを、そしてハサンを包み込んでいる。
「投降しろ、ハサン。もう、どうあがいても逃げられない」
ハサン卿は何度かチラチラと窓の外を見た。
ナディアはハサン卿の胸元にある、魔石――と呼ぶには巨大すぎる、こぶし大の丸いものを見つめていた。光が当たる角度によって色が変わる、不思議な石だ。あれに母から奪われ続けたものが詰まっている。ただの冷たい石なのに、母の命そのもののような、そんな気がする。
「逃げられない? そうかな」
ハサン卿がそれに触れた。
母に触れるなと、叫び出したくなるのをこらえた。
ハサン卿が低く何かを唱えた。
その瞬間、魔石が禍々しい光を放ち始めた。
部屋の空気が変わる。壁が軋み、窓が震える。
――これは……
ハサンは魔石の力を解放しながら攻撃を仕掛けてきた。タリクが障壁を張る。ナディアも印を結ぶ。だが、魔石を纏ったハサンの魔術は桁外れだった。
ナディアが咄嗟に展開した魔力障壁が悲鳴のような音を上げて砕け散った。
耳をつんざく轟音が頭の芯まで突き抜け、眩い閃光と同時に衝撃波が部屋を薙いだ。
壁際の書棚が揺れ、びっしりと並んでいた本が重い音を立てて床に落ちる。暖炉の上の肖像画は額ごと吹き飛び、マントルのランプが倒れて割れた。油が床に広がる。
それが合図だったかのように、紫衣の魔術師たちが踊り込んできた。複数の術式が同時に展開され、部屋の空気が唸りを上げる。黒衣の人物がその中央に立ち、両手を広げた。
「タリク、ナディア、下がりなさい」
その声で黒衣の人物が誰かを知る。王妃だ。
王妃の後ろに庇われ、ナディア、タリク、そしてフィオレンシアが応接室の隅へと移動する。
魔術団の面々がハサンに迫る。ハサンは一歩も引かない。凄まじい攻防だった。
「それにしても、なんて大きさなの。目的は金じゃなく、純粋に力のために、たった一つの魔石に魔力を注ぎ続けたのね。迂闊に動くと却って危ないわ、そこにいて」
ナディアとタリクは王妃の障壁の内側に守られながら、その戦いを見ていた。
――こんなにも強い人たちが、ここまで苦戦している。
ハサンは確かに強かった。魔石の力を使いこなし、魔術団の精鋭たちを相手に一歩も引かない。
それでも、数の差は覆せない。
少しずつ、少しずつ、ハサンの動きが鈍くなっていく。
やがてハサンが膝をついた。
「投降しろ、ハサン」
魔術団の誰かが呼びかける。
ハサンは顔を上げた。追い詰められ、もう逃げ場がないと悟った獣のような顔をしている。その口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「投降は趣味じゃないな。そして……道連れは多い方がいい」
魔石が激しく脈動した。
まばゆい閃光。そして轟音。
王妃が「屋敷を覆う結界を維持して!」と叫ぶのが聞こえた。誰ひとり動揺していない。ハサンが魔石を暴走させることも魔術団の予測通りだったらしい。
だが、
ぞわ。
ナディアの背筋に悪寒が走った。
何かがおかしい。
何かが違う。
――お母さんの魔力の匂いが……消えた……?
暴走した魔石は破壊的な魔力を放出するはずなのに。何も起こらない。
部屋はしんと静まり返っていた。
そして気づいた。
――逆だ。吸ってる。
魔石は魔力を吸い込んでいる。
最初に悲鳴を上げたのはハサンだった。魔石に一番近いのだ。無理もない。
「う、うあ……!」
膝をつき、魔石を遠ざけようと引っ張る。が、頑丈な鎖で体と繋いでいるせいで外れない。皮膚の下で血管が浮かび上がる。赤かった頬はみるみる土気色に変わり、眼球が白濁していく。
ハサン卿が前のめりに倒れた。鎖がビシと音を立てて切れ、魔石が床に転がる。
次に倒れたのはナディアの後ろにいたフィオレンシアだ。
「こんな例は……聞いたことがないわ」
王妃がそう言いながら魔石を制御しようと懸命に術を繰り出していく。
魔術団員が次々と呻き声を上げ、膝をつき、倒れ込む。先ほどの激しい戦闘で消耗しているのだ。立っている人間が一人、また一人と減って行く。
たった数十秒だ。
黒衣の魔術師はまだナディアとタリクの前に立っている。
――護られている。
嗅ぎ覚えのある柑橘の爽やかな香りがナディアを包む。
胸の奥が避けそうに痛んだ。尊敬とともに、どうしようもない罪悪感がこみ上げる。あれほど憧れた、ナディアにとっても、国にとっても大切な人を危険に晒し、庇わせてしまっている自分が悔しかった。
――私のせいだ。
自分の行動がこの状況を招いたのはわかっていた。
母を思えば間違いではなかったと叫びたいのに、胸を占めるのは後悔ばかり。
――なにか、なにかできることがあるはず。なんとかして止めなくちゃ。
考えはまとまらない。罪悪感と焦燥と願いとがぐちゃぐちゃに渦を巻き、魔石に吸われていく魔力の軋みに混ざって、頭の中をかき乱す。
ただ一つ確かなのは、王妃を、殿下を、母を――誰も失いたくないという思いだけだった。
暴走した魔石の吸引力は止まらない。
――あぁ、お母さんの魔力の匂いがする。
あの甘やかでやさしい、懐かしい匂い。
ベッドに座って上体を起こし、小さな蝶を出してくれた姿が脳裏によみがえった。
その匂いが今はべっとりと絡まって、ナディアから力を奪おうとしている。
喉がひりつき、胸をかきむしられるような痛みに息が詰まった。
「母、上」
タリクが詰まったような声を出す。王妃は振り向かない。
王妃はたぶんタリクとナディアをどこかへ転移させようとしている。転移魔術の断片が聞こえる。が、ハサンと戦うために魔力を消費し、王都を守るために結界を張り、タリクとナディアを今も包む障壁を張り、魔石に魔力を吸いつくされようとしている。そのせいだろう。魔術が発動しない。フードに隠れて顔は見えないが、その華奢な肩が震えている。
「二人とも、まだ立てるわね? 走って逃げなさい」
静かな命令だった。
「母上も一緒に」
タリクが答えた。
王妃が首を横に振る。
「私はこれを止めなくては。この量の魔力が放出に転じたら、王都だけでは済まない。張っていた結界は破れてしまった。とにかく二人でできるだけ遠くに――」
もうほとんど倒れている。立っているのはタリクとナディア、そして王妃だけだ。
――どうすればいいの。
すべてがあまりに短時間のうちに起こって、なすべき事を考える暇もない。
次の瞬間、ナディアの耳に微かな音が届いた。
衣擦れの音だった。黒衣がひらりと揺れた。
――倒れる。
思う間もなかった。ナディアは手を伸ばしたが届かなかった。タリクが先に動いていた。が、タリクも自分の足元を保つだけで精いっぱいで、支えきれずに一緒に床に倒れ込んだ。
黒衣の魔術師は静かに崩れ落ちた。
「ははうえ」と、タリクがつぶやく。助け起こす力は彼にも残っていない。ナディアにも。
覚えのある感覚が体を飲み込もうとしている。魔力枯渇だ。
「くそ……指輪から魔力を取り出すことさえ……」
王妃が彼に託した魔石の魔力を取り出そうとして失敗したらしい。
ナディアはまだかろうじて立っている。王妃に、タリクに、庇われていたおかげだ。
見えない手で肺を鷲掴みにされ、息が詰まる。皮膚の奥に冷たい針を刺されている。指先から温度が消え、足の裏の感覚が薄れていく。
魔石はまだ吸い続けている。床には人が折り重なっている。戦場のような部屋の中心で、魔石だけが着実に、確実に、大きくなり続けていた。
「……ナディア……逃げろ」
タリクが言った。
わずかながら、彼の魔力が体に流れ込んでくるのを感じた。
「殿下こそ逃げてください」
流れ込んできた魔力を押し返す。
もうかすれた声しか出ない。
残されたほんのわずかな魔力を互いに押し付け合っている。
「お母さん。お母さん……助けて」
子どもみたいな言葉が口をついた。
「おねがい。殿下を助けて」
「だめだ、逃げろ。逃げろナディア」
喉の奥からウゥゥゥ、という赤子の泣き声のような音がせりあがって来た。
「誰かたすけて、おねがい。でんかをたすけて。わたしはいいから」
視界がだんだん暗く狭くなってくる。もうほとんど見えない。最後にわずかに残った小さな白い丸が消えようとしたそのときだった。
バッと、まばゆい光に包まれた。




