1 星の街のナディア
ナディアは毛足の長い絨毯の上に頭をこすりつけた。いっそのこと床にめり込んでしまいたい、くらいの気持ちだった。もしゃもしゃの黒い髪が絨毯の毛と絡まりそうだが、そんなことを気にしている場合ではない。
場所は王宮、玉座の前だ。
人間に使役の術を使うのは禁忌。地元の魔法学校でも学んだし、学院の授業でもしっかり釘を刺されたばかりだ。
その禁忌を犯してしまった。
よりにもよって、最高権力者の息子に。
――なんてことを。
自責の念に押しつぶされそうになって、両目をギュッとつむっていたら、コツコツと固い足音が近づいてきた。
「面をあげよ」
朗々と響いた声にしたがい、ゆっくりと顔を上げた。
先の尖った靴、白いローブに濃紺のマント、胸元の大きな石、立派な顎ひげ、大きな鷲鼻、琥珀色の瞳、そして――下から上へと移った視線がそれを捉えた。王冠だ。ナディアの目の前にいるのは、ナフリア国を統べる王その人だ。
そしてその隣には、すごく――ものすごく不機嫌そうな顔をしたタリクが立っている。
ナディアの喉がごくりと音を立てた。
「そのほう、ナディアと言ったな」
「は、はい。ナディア・アル=ヌジュームでございます」
王の問いに、両手を床についたままそう答えた。
生きた心地がしない。背中は汗でびしょびしょだ。頭を下げている間に頭のほうに向かって流れていた汗が、顔を上げたことで方向を変え、つーと腰へ降りていく。
「星の街の……ナディア……はて、どこかでその名を聞いたことがあったように思うが」
記憶を辿ろうとしているのだろう。視線を上へやった王の横で、王子タリクが静かに口を開いた。
「彼女は王立奨学金の特別奨学生です」
タリクの言葉に、王は「おお」と膝を打つ。
「そうであったな。奨学生の承認書類で名を見たのだった。たしか飛び級での編入であったな。して、特別奨学生ナディア・アル=ヌジュームよ」
「はい」
「タリクより事情は聞いた」
「はイぃっ」
声が裏返った。
王の緑色の瞳がこちらをまっすぐに見つめている。感情の見えにくいその瞳から目を逸らすことができない。
「そなたから何か話しておきたいことはあるか?」
穏やかな声だ。
さすが「公明正大」と評される王だ。王子を使い魔にするという不届き千万なことをしでかしたにもかかわらず、申し開きの機会をくれるらしい。ナディアはその穏やかさに縋ることにした。
「私のしてしまったことをお赦しいただけるなどとは思っておりませんし、このようなことをお願いできる立場でないことは重々承知しておりますが……その上で、伏してお願いがございます」
「申してみよ」
低い声が頭上で響く。
「どうか、どうか郷里の母と叔母には御寛大な処置をお願いしたく存じます」
そう言ってふたたび床に頭をこすりつけた。
「母と叔母?」
王の声がナディアに問いかける。
ナディアは頭を下げたままの姿勢で「はい」と答えた。
「母は長く病に臥せっており、叔母はその母の看護をして過ごしております。わたしという罪人を家族に持ったせいで母と叔母に累が及ぶようなことがあれば――」
声が震えた。
――泣いちゃダメ。私は裁かれる身なんだから。
そう自分を叱咤しても、気持ちが溢れてどうしようもなかった。
叔母にこれ以上負担をかけるのはと王都行きを迷ったナディアに、叔母は『学びを諦めてはダメ』と旅費を工面して送り出してくれた。
その恩に報いるどころか、こんな過ちをおかしてしまうなんて、と、たまらない気持ちになった。奨学金の没収、退学、そして投獄は必至だろう。
「どうか、どうか、家族だけは――」
頭頂部で絨毯をごりごりと擦っていたら、「顔を上げよ」と声をかけられた。
ナディアはゆっくりと顔を上げた。頬をこらえきれなかった涙が伝った。
「すまないことをしたな」
王は静かにそう言った。
あまりに予想外な言葉に、思わず「……は?」と聞き返してしまった。
「授業外での変身は校則で禁じられている。わが愚息はそれを破った。息子の規則違反のせいでそなたを巻き込んでしまったこと、親として心苦しく思う。すまなかった」
「と、とんでもございませんっっ」
禁忌を犯した自分に比べれば、学院の規則違反などかわいいものだ。
それでも王という立場から公平性を重んじ、まずは軽い違反について謝罪して解決を図った上で、禁忌を犯したナディアへの裁きを告げるつもりなのだろう。
ナディアはそう考えて納得し、あとに続く言葉を待った。冷や汗が幾筋も背中を伝い、ぶるりと体が震えた。
「タリクよ、お前からも告げるべきことがあろう」
王の隣に、服を着たタリクが立っていた。
「……すまなかったな」
口ではそう言うが、眉の真ん中に深い縦じわの刻まれたその表情からは「面倒なことに巻き込まれて迷惑している」という感情が透けて見える。おまけに彼の腕に留まっている鷹は、ナディアの顔を見るなり今にもとびかからんばかりに羽ばたいて「ビィーッ」という声を上げている。
「こちらこそ、本当に申し訳ございません。禁忌の魔法をかけたばかりか、殿下の足の間を確認してしまい、あまつさえ裸まで見てしまうなどという大変な不敬を――」
「なにっ」
王が鋭く叫んだ。
その声に、ナディアはビクッと体を震わせる。
「タリクお前、うら若き女性を前に裸を晒すなどという蛮行まで――」
ナディアは慌てて「いぇっ」と王の言葉を遮った。
「それは私が急に殿下の変身の術を解いてしまったがゆえの事故でして、殿下に落ち度はございませんっ」
ナディアの頭のあたりだけ絨毯が禿げるのではないかというほどゴリゴリとこすりつけていたら、王が「左様であったか」と幾分落ち着いた声で言った。
「しかしタリク、なぜもっと早くに正体を明かさなかったのだ。騒ぎになる前であれば、学院への通告もせずに済んだものを」
「淑女の部屋で裸になるわけにはいかないと、変身をとかずに事態を打開する方法を探していたのです」
「それもこれも私が疲労で眠ってしまって事態に気づくのが遅れたせいで――」
「なにっっ眠っていた!? つまりタリク、お前はうら若き女性が眠っているそばで長い時を過ごしたと!?」
タリクが大きなため息をついた。
「不可抗力です、父上。それとナディア。頼むから少し黙っていてくれないか。君が頭を下げるたびに私の立場が悪くなる」
「あ、もうしわけございませ――」
「いや、私は王として、お前の父として、何が起きたのかを子細かつ正確に知る必要がある。事態を報告したときに、なぜ裸を見せたことや眠っている淑女の傍に長時間いたことを黙っていたのだ?」
王の詰問に、タリクはフゥと息を吐いた。
「体をひっくり返されて足の間を確認されたことや裸を見られたことに関しては私のほうがむしろ被害者のようにも思いますし……報告すれば父上がこういった反応をされるだろうとわかっておりましたので」
タリクは悪びれずに肩をすくめた。
「そもそもお前の規則違反が発端なのだから、お前に彼女を責める権利などないぞ」
王は怒り心頭、タリクは冷静だ。
「承知しております。規則違反については申し開きのしようもありません」
タリクだってまさか、空き時間に中庭でぼんやりしていたら使役の術をかけられるだなんて思ってもみなかっただろう。王の叱責に反省の弁を述べてはいるものの、その心の内は手に取るようにわかる。
「ともあれ、ナディアよ」
急に柔らかな口調になった王がナディアを見下ろす。
「はい」
「此度のことでそなたが罪に問われることはない。安心せよ」
「え、ほ、本当でございますか」
ナディアは目を見開いた。
「左様。我が国の法は、防ぎようのなかった事態について誰かに責めを負わせることはない」
「おかしいですね。先ほどから私は不可抗力の事態について責められているような気がしますが――」
「お前のは法の裁きの話ではなく、愚息に対する父からの説教だ。別物と心得よ」
タリクの横槍は一蹴された。
「ともかく今回のことは不幸な事故ということで、咎め立てはしない。が、これからのことを検討せねばなるまい。使役の術の解除は儂の手には負えぬので、詳しいものを呼んである。そろそろ来ると思うが――」
王がそう言って首を伸ばしナディアの後ろに視線を投げたそのときだった。
背後から女性の声が聞こえた。
「陛下、お呼びですか」
「おお。来たな、ルル」
王が口にしたその名に、ナディアの胸がドクンと鳴った。
――ルル? まさか。まさか――




