12 椰子の実の香り
とある休日、図書館の一角でナディアは伸びをした。窓の外はすでに暗く、朝からずっと勉強していたので、肩がこわばっている。
少し息抜きをしようと、今朝届いた叔母からの手紙を開いた。
〈ナディア、変わりなく過ごしている? こちらは相変わらずの毎日よ。お友達のこと、色々と聞けて嬉しい。いつか会わせてね〉
整った字をなぞり、微笑んだ。王都と他地域を行き来する隊商が手紙を運んでくれるおかげで、こうして頻繁にやりとりができる。
――会わせてね、か。
ナディアの手紙にちょこちょこと登場する「友達」が王子だと知ったら、叔母はどんな反応をするのだろうか。そんなことを考えながら手紙から視線を上げると、琥珀色の瞳がこちらを見つめていた。ナディアが笑っていたせいだろう。不思議そうな顔をしている。
「叔母が『お友達にいつか会わせてね』と」
無理な相談なのに、という意図で笑いながらそう言うと、タリクは「ぜひ」と口角を上げた。
「次の帰省の予定は? 私も一緒に行こう」
予想外の答えに驚いたせいで、手紙がクシャと音をたてる。
「……帰省予定は……ありません」
「なぜ?」
ナディアが答えるまでもなく、タリクは理由にたどりついたらしい。「愚かな質問をした、すまない」と謝ってくる。
そう、旅費だ。
ナディアには実家に帰るだけの旅費がない。だから前期と後期の間にあった長期の休みも寮で過ごしていた。卒業して魔術団のお給料をもらえるようになるまでは、帰省はできないだろう。
「でも大丈夫ですしばらく母と叔母に会えないことは覚悟のうえでここへ来ましたので」
「不安はなかった?」
「不安でいっぱいでした。でも、楽しみでもありました。地元の学校では学べない科目もたくさんあるし、魔術団の団員から直接教えていただく機会なんてこの学院でなければ得られないし」
「そうか。来てよかった?」
「もちろんです。来なければ殿下にもお会いできませんでしたから」
そう答えた瞬間、ゆらりとお腹の底のあたりが揺れたような感覚があった。
痛みでも不快感でもない。熱い飲み物を一口飲んだあとみたいに、自分の内側からではなく外から流れ込んできたような——
——あ。
使い魔との絆が深まると感覚だけでなく感情も共有できるようになる。授業で教授が「初めて感情を共有したとき、お腹を壊したのだと思った」と話していたから、たぶんこれがそうだ。
いい傾向だ。こうして少しずつ使い魔との絆が強固になっていけば、離れていても不安なく過ごせるようになる。
——そうしたら、こんなふうにずっとそばにいなくてもよくなるんだよね。ちょっと寂しくなるな。
そう考えたところで、タリクが顔を上げ「大丈夫か?」と問うてきた。
「え?」
「君の感情の揺らぎを感じた」
「あ……」
今度は逆にナディアの感情が彼に伝わったらしい。
「何を考えてた?」
「ええと……」
「一緒にいなくてもよくなるのが寂しい」と口に出すのは憚られた。むしろタリクにとっては喜ばしいことだからだ。巣箱で寝なくてもよくなるのだから。
――何か言わないと。
焦っていると、タリクが眉を寄せる。
「動揺してる……のか?」
「あ、いえ、大丈夫です。あの、母のことを考えていました」
とっさについた嘘だったが、タリクは納得したらしい。心配そうな表情で小さく頷く。
嘘をついたせいで琥珀色の瞳を見ていられなくて、ナディアは手紙に視線を落とした。
――お母さん、変な言い訳に使っちゃってごめんね。
心の中で母に謝る。
叔母曰く〈こちらは相変わらず〉ということだから、母の病状は回復も悪化もしていないのだろう。家を出た朝の姿を思い出す。
母は床についていた。薄い夜着のまま横たわる輪郭は、昔よりずっと小さく細かった。
壊れてしまいそうな母の頬に恐る恐る触れるとほのかな温かさを感じはするが、顔は青白く、目は落ちくぼみ、唇はカサついていた。
――この間お店で見かけた唇用の軟膏を買ってあげたいな。叔母さんには綺麗な色のついたのを。
幸い――と言ってはいけないのだが――スナグモを買おうと貯めていたお金が手元にそっくりそのまま残っている。
――んーでも、いざというときのためにお金は残しておいたほうが……でもあの軟膏くらいならいいかな……
「そういえば、最近フィオレンシアとよく話しているな」
タリクの声に引き戻された。
「あ、はい。そうですね。授業のことで」
八年生の授業の前後に、彼女からよく質問を受けるようになった。
「君が負担に思わないならいいが」
「大丈夫です。フィオ――あ、最近そう呼ぶようになったんですけど――も気にしてくれていて、この間『一方的に質問するばかりだから、何かこちらもあなたの役に立てるようなことがあればいいんだけど』と言ってくれました」
「そうか」
「それで……聞いてみたんです」
「何を?」
「『ムッツリ』の意味を」
タリクが咽た。ゲホッゴホッと何度か咳き込み、次いでンンッと喉を整える。
「でも、教えてもらえなくて」
「……その言葉を知りたくなった経緯も話したのか?」
「話しました。すごく笑いながら『ムッツリ殿下、あながち間違ってないんじゃない?』って」
タリクが唸り声を上げる。
「それと『それなら殿下に教えてもらったほうがいいわ』とも。断られたって言ってるのに、笑うばかりで答えてくれなくて」
「……そうか」
「そんなに特別な言葉なんですか?」
タリクは軽やかに笑いながら「うーん」と言う。
「君にはまだ早いと思ったんじゃないか」
「年齢のせいですか? 三つか四つしか違わないのに」
「大きな違いだろう」
急に子ども扱いをされたような気がして、ナディアは眉を寄せる。
そんなナディアを笑ったタリクは「いずれちゃんと私が教えるから、他の人に訊くのはやめておくんだな」と言った。
「いずれって?」
「時が来たら」
「……約束ですよ?」
「ああ、約束する」
まだ笑っているので、ナディアは余計に気になってしまう。
――俗語をまとめた本があればいいのに。
「まぁなんだ、その単語の意味はともかく、君と話している様子を見る限りフィオレンシアが悪い人間ではなさそうで安心したよ。少々おしゃべりが過ぎるが」
笑いがおさまった頃にタリクがそうこぼした。ナディアは自分の頬がこわばるのを感じた。
フィオレンシアはたしかにいい人だ。それはよく知っている。それなのになぜか、素直に頷けなかった。
――たしかにいい人だけど、だけど。
言葉にできないモヤモヤした感情がお腹の底からせりあがってくる。
――なんだろう、これ。友達をとられるような気がしたから?
変なの、と思いながらナディアは手紙を畳んだ。
*****
明くる日、夕食を終えて図書館へ向かおうと校舎を歩いているときだった。
ナディアの鼻先を知っている匂いがかすめた。
思わず足を止めたナディアに、タリクが「どうした?」と声をかけてくる。
――どうして、ここでこの匂いが。
匂いの元を探してキョロキョロと視線を動かしたときだった。
「恥をかかせおって! 私の娘がこんな出来損ないなど、受け入れがたい!」
不穏な声が響いてナディアは身を固くした。
「あの……でも、今日の小考査には合格――」
か細い声が答える。
「そんなもの、合格して当然だ! 魔術団の試験に受からなければ何の意味もない! せめてその母譲りの容姿でタリク殿下の歓心を得るくらいのことはできるかと期待したが、八年経っても友人の座にもつけていないようだな。もしも魔術団の入団試験に落ちるようなことがあれば、二度と屋敷には入れないものと思えよ!」
誰かがひどく罵られている。しかも声が近づいてくる。ナディアは回れ右をすべきかと迷ったが、振り向いても長い廊下があるだけだ。結局、そのまま立っていた。
声の主たちが角を曲がってきたので、その「誰か」がわかった。フィオレンシアだ。
「申し訳ありません、お父様」
普段の彼女の姿からは想像できないほど消沈した様子で、隣を歩く男性に向かってそう言った。
――「お父様」……? 親が子に、あんなにひどいことを言うの……?
ガツンガツンと大きな足音をたてて歩く男性は、白髪を後ろに撫でつけ顎髭を生やしている。その眉間や額には深いシワ。表情というよりも、もう顔自体に刻まれてしまっているようだ。
フォレンシアがナディアに気づいたらしく一瞬顔を上げたが、すぐにまた視線を落とした。
先日「一緒に勉強させてほしい」と頼んできた彼女がどうしてあんなに必死だったのかがわかったような気がして、胸が痛む。
父親のいないナディアに彼女の気持ちが理解できるとは思わないが、それでも、あんな言葉をかけられて平気でないことはわかる。
ナディアは強く漂う匂いの中で立ち尽くすことしかできなかった。嗅ぎ慣れた匂いと似ていた。
乾いた風に乗る、甘く温かな椰子の実の匂いだ。母からいつもほんのかすかに漂うその匂いが、ナディアは大好きだった。
「……ハサン卿がどうかしたのか?」
彼らを見送ってすぐに、タリクが低く呟く。
ナディアはまだ、彼らの消えた廊下の角を見つめている。
「フィオレンシアの父親のことだ。動揺しているだろう? 好ましい人間じゃないのは前提として……
動揺の理由はそれだけか?」
――そっか。感覚共有のせいで。
隠しても無駄だろうと、ゆっくりと口を開いた。
「……知っている人に匂いが似ていました」
「匂い……魔力の? 似ることもあるのか」
「ありますが……あれほど似ているのは初めてです。たぶん魔力量のせいか、匂いの強さは全く違いましたが」
「誰と似ていたんだ?」
言い淀んだ。
琥珀の瞳が見つめてくる。
――誤魔化せない。
「……母です」
「君の?」
かなり驚かせたらしい。タリクは身を引いてこちらをじっと見つめている。
「それはまた意外な」
ナディアは頷いた。
どうにも好きになれなそうな人物が大好きな人と同じ匂いを纏っているという事実を、まだ消化しきれずにいる。
「たとえば……血縁だと似ることもある?」
「そう、ですね。叔母と母の匂いは似ています。二人とも微量ですが」
「それなら、もしかするとハサン卿と母君が血縁者の可能性があるということかな? 母君は君と同じヌジューム出身? それとも別の?」
「母の出自のことは何も知らないんです。叔母のほかに家族がいるのかどうかも。交流はありません」
「そうか。ハサン卿の方は魔術団の高官だから、すぐに調べられる。調べてみよう」
「ありがとうございます」
――知りたいような、知りたくないような。
ナディアは複雑な気持ちだった。
――血縁? あの人と? ということは、フィオとも? ああ、でも、フィオの魔力は全く違う匂いだったな。
タリクは言葉通り、すぐに調べてくれたらしい。
夕刻に「少し王宮に顔を出してくる」と出かけて行き、まもなく戻ってきた。図書館でするような話でもないからと、近くの空き教室に入る。椅子に座るよう勧められたが断って「それで……?」と訊ねた。
「ハサン卿には姉も妹もいない。ひとりっ子だ。年頃の合う親族で君の母君に該当しそうな人物もいない。フィオレンシアの母君は彼女が生まれたときに亡くなった。以来、父と娘で生活しているようだ」
「……とすると、魔力の匂いが似ていたのは偶然でしょうか」
「そういうこともあるのか?」
「他に例がないのでわかりませんが……あるのかもしれません」
もやもやを抱えたまま眠りについた。
夜中にくすぐったさに目を覚ますと、枕元にスナネズミがいた。寝ぼけ眼でもぞもぞとナディアのそばにすり寄り、顔の横で丸まって眠り始めた。
タリクがそんな行動に出るだなんて驚いて、一瞬「もしかしてその辺のスナネズミなのでは」と思ったが、たしかに瞳は琥珀色だったし、窓枠に留まったサマーリがこちらを見ているので、タリクで間違いなさそうだ。
――巣箱が寒かったのかな。
小さくて丸っこい背中がゆったりと上下している。
どうしようか迷ったものの、つまみ出すこともできず、眠気に負け、ナディアもそのまま眠りについた。
*****
翌朝ナディアが目を覚ますと、すでにスナネズミの姿はなかった。
夢でも見たのだろうかと思ったが、朝食の席でタリクから「すまなかった」と謝罪を受けたので、現実だったとわかった。
「王宮に戻っている間、長時間離れていたので――平気だと思ったんだが――どうやら潜在的に不安が募っていたらしい。寝ぼけて君のそばに寄ってしまったようだ」
「そうだったんですね」
「すまない」
「あ、いえ、全然、その、大丈夫です」
ナディアも寝ぼけていたので深く考えずにスナネズミと一緒に眠ったが「タリクと一緒に眠った」と置き換えると、とんでもないことだ。
――いびきとか寝言とか鼻息とか、そういうのも全部聞こえちゃうくらいの距離だったな。
そう気づいた途端に、猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「あの、ええと、その、私、大丈夫でしたか」
「……何が?」
「鼻息をかけてしまったりとか。私の顔のすぐそばにいらっしゃいましたし」
「いや――」
タリクはそう言いながら顔をそむけた。
口元を手の甲でこするような仕草をする。
「大丈夫だ」
「それならよかったです」
でもなんとなく、彼の表情から、本当は大丈夫じゃなかったんじゃないか、という気がした。
――どうしよう、すんごい鼻息を吹きかけていたりしたら。
そのせいか胸がドキドキして、その朝はほとんど朝食が喉を通らなかった。
粘ったところで食べられそうにないので、諦めて終えようかと思い始めたときだった。
手元に影が落ちたことに気づいて顔を上げると、フィオレンシアが立っていた。昨日の今日だ。彼女が叱責されているところを見てしまったばかりなので、気まずい。
「あの……お礼を言いたくて。昨日の小考査、無事に合格したの。ありがとう。それと……ごめんなさい、気まずいところを見せてしまって。でも大丈夫だから、心配しないでね」
フィオレンシアがそう言って微笑んだ。
「私ね、子どもの頃にお祖父様に聞いて知っているの。お父様も学院での成績は振るわなかったんですって。でも努力を積み重ねて、魔術団に入ってから徐々に認められるようになったって。そして今の地位まで上り詰めた。私も努力すればきっといつか実る。父にも認めてもらえる日がくる」
「私も……私もそう思います」
ナディアにはそれしか言えなかった。余計なことを言って彼女を傷つけるのが嫌だった。
フィオレンシアは笑顔で手を振り、去った。
「浮かない顔だな」
食器を片付けて歩きながらタリクがそう声をかけてくる。
「自分も学生時代に苦労したのなら、フィオレンシアの気持ちを理解できそうなのに。どうしてあんなことを」
ナディアはそう呟いた。
どうしても、あの父親の気持ちがわからない。
たぶん「そうだな」というような同意を期待していたのだと思う。だが、タリクの返答は違っていた。
「苦労や努力はときに人を歪ませるからな。もうどうしようもないほど歪んでしまったんだろう。フィオレンシアがそうならないといいが」
突き放すような言葉に驚いてタリクを見た。
彼は廊下の先を見つめていた。いや、たぶんそこにある何かを見ていたわけではなかった。
――誰か、歪んでしまった人を知っているんですか?
頭に浮かんだその問いを、ナディアは投げかけなかった。




