10 心のままに
タリクは腕を組み、目を細めた。高い身長から見下ろすような姿勢で女子学生を見つめる姿からは、たしかに「不機嫌殿下」の称号にふさわしい威圧感が漂っている。
「誰と友人になるかは私が決める。それとも何かな? そんなことも自分で決められないほど愚かでしょうもない人間だと思われているということかな?」
琥珀色の瞳が冷たく女子学生を睨みつける。彼女はひと言も発しない。
「ナディア。皿は洗い終わったんだろう? もう戻ろう」
「あ、はい」
気まずく感じながらその場を立ち去ろうとしたときだった。
なにかの詠唱が聞こえ、背後から魔力の匂いがした。ナディアが反応するより先にタリクが動いた。焼けた岩肌に夕立が触れたときの匂いがブワと広がる。
同時にビャーという鳴き声とともに上空から下りて来た鷹がタリクの前の地面に着地し、威嚇するように翼を広げてバサバサと羽ばたいた。
何が起きたのかを把握しきれずにいるうちに手を強く引かれ、タリクの背後に庇われるような形になった。
女子学生がなにか魔術を使おうとしたらしいことだけはわかった。
「背後からとは。ふざけるなよ。なんのつもりだ」
タリクが唸るような低い声で鋭く言ったが、女子学生は微笑んでいる。
この状況でなぜ笑っているのかわからず、ナディアは緊張して彼女を見据えた。
――庇われてる場合じゃない。殿下を守らないと。
ナディアがタリクの前に出ようとすると「すっこんでろ」と押し戻された。それならと、防衛術の授業を思い出しながらタリクと女子学生の間に魔力障壁を張る。
時間にして数秒だろう。サマーリの翼の音以外は静かだ。ナディアもタリクも女子学生も、ひとことも発さない。
緊張を破ったのは「君たち何をしているんだっ!」という怒鳴り声だった。
幹事が駆けてきてタリクと女子学生の間に入り込み、両手を広げて「離れろ」と言う。
素直に指示に従い、ナディアとタリクは女子学生に視線を向けたままゆっくりと後ずさった。女子学生は動かない。
「背後から術をかけられた」
タリクは下がりながら幹事に手短に状況を説明する。
「なんの術だ?」
「わからんが、ろくでもない術なのは確かだろうな」
騒ぎに気づいたのだろう。人が集まって来ている。
「怪我は?」
「ない。術者に返した」
「……ということは――」
女子学生に視線が集まる。見たところ怪我をしているようには見えない。先ほどと同じ微笑みを貼り付けている。
「とりあえず幹事の天幕へ」
そう言われ、なおもタリクの背後に庇われながら天幕へ入る。
女子学生のかけた術の正体がわかったのは、天幕内の水がめを覗き込んだ彼女が水面の自分を見て高い声を上げたせいだった。
「なんて美しいの……神に愛されたこの造形……まるで花のよう……」
あまりに場違いな発言にその場の皆が驚いていると、タリクがひとりため息をついた。
「惚れ魔術の類だな。術者に返ったので『自分で自分に惚れている』状態になってしまったんだ」
なるほどそう言われてみれば、うっとりと水がめを覗き込む姿からは、自分に惚れ惚れしているらしいことが伝わってくる。
タリクの言葉を聞いた幹事は「なんだって……」と目を見開いた。
「感情を操る魔術は違法だ。直ちに学院と魔術団に連絡をとる。関係者には詳しい事情を聞きたいから、待機してくれ」
幹事は険しい声でそう続ける。
「つまり……違法な術をかけようとした人間と一緒にいろと?」
タリクが不満をこぼすと、幹事は「たしかに」と呟いた。
「では殿下は救護用の予備天幕へ――」
「ナディアも私と一緒だ」
「だが、男女二人きりというのは好ましく――」
言いかけた幹事がタリクを見て口をつぐんだ。
ナディアがタリクのほうを見たときには普段通りの表情だったが、幹事の怯えた態度から、たぶん怖い顔をしていたのだろうと思った。
「案内する。こっちだ」
タリクとナディアは幹事に連れられて天幕を出た。
最後に振り向いたとき、女子学生は自分の眉毛の角度を褒めたたえているところだった。
先ほどのよりも小さな天幕に案内された。幹事は「また後で来るから」と言って足早に出て行く。
幹事と入れ替わりに天幕に入ってきた鷹が椅子の背もたれに留まり、ピーと鳴く。タリクがその頭を指先でそっと撫でながら、フゥと息をついた。
「……とんだ災難だな」
「すみません、巻き込んでしまいまして」
「この場合は私が君を巻き込んだというべき状況だろう」
「……そうかもしれません」
タリクは椅子に座り、背もたれに体を沈めた。
そして視線だけを動かしてナディアを見る。
彼の魔力の匂いがしたので「なにを?」と問うと「遮音の術をかけておくだけだ」と呟いた。
「それからこれも」
ぽ、と彼の掌に小さな火が灯る。
「やはり砂漠の夜は冷え込むな」
彼の手から離れた火はちょうど二人の間に浮かび、ふわりと天幕内を照らす。それほど大きな炎ではないが、手をかざすとじわりと温かい。
「あの……幹事が怖がってましたが」
「怖がらせたからな」
彼は事も無げにそう言う。
「どんな顔をしたんですか?」
「君には見られたくないし、おそらくこの先見せることもないであろう顔だ」
彼は腕組みをして足を前に投げ出した。「この話は終わり」ということらしい。
「それで君は、あのくだらない言葉を気にしてないだろうな?」
琥珀色の瞳に揺らぐ炎を映し込んで、タリクが問う。
「ふさわしさの話ですか?」
「それだ」
彼は小さなため息をついた。
「魔術団は実力主義だが、魔力の量は遺伝の影響も大きいからな。有力な家系というのが、ある程度固定されてしまう。結果として、ああいう勘違いが起きる。親が魔術団で高い地位にあるからと、自分まで優れている気になるんだ」
「親や家柄が優れている自分のほうが王子の友人としてふさわしい」と、あの女子学生は考えている。でもタリクは違うらしい。
「……友人としてのふさわしさというのはどうやって決まるんでしょうか」
ナディアが問うと、ん、とタリクが喉の奥で声を出した。
「たしかに難しい問いだな」
友人がいたことのないナディアは、今まで一度もそんなことを考えたことがなかった。
「そもそも『友人』の定義も難しいな」
そう言ってタリクは天幕の床を見つめた。色とりどりの糸で織られた絨毯が敷かれている。
「君は『友人』をどう定義する?」
ナディアはじっと考えた。
「普通は複数の友人と過ごす中で最大公約数的に定まるものなのかもしれませんが、私には殿下しかいないので……殿下に対して思うことは――」
ナディアは視線を上げた。布の天井を見つめる。
「――そばにいると安心できるとか……殿下が笑っていると私も楽しい気持ちになるとか……つい自分のことを話したくなってしまうとか……つい目で追ってしまうとか……あとは、どんなことで喜んでどんなことで悲しむのかを知りたいとか……こういうのが友人に対して抱く感情なんだな、と。だからそれが、私にとっての『友人』の定義です」
ナディアが言葉を終える頃には、タリクは口元を手で覆っていた。彼が出した炎が空中で大きく揺れている。笑うのをこらえているような表情だったので「すみません」と言うと、彼は眉を持ち上げた。
「なぜ謝る?」
「変なことを言ってしまったのだと思って」
「いや、これはそうじゃない」
そうは言うが、やはり口角は上がっている。
「これはただ――」
言葉を探すように彼の視線が天井を左右に流れる。
「『友人』……か?」
「へ?」
タリクの言葉の意味がわからず問うたが、タリクは「いや」と言いながら首を横に振った。
「私も同じだ、と思っただけだ」
「殿下の『友人』の定義が私と同じということですか?」
「うーん……」
タリクは少し悩むような様子を見せたあと「まぁ、うん、そうだな」と言った。
「もしもあの惚れ魔術が成功して、私があの女子学生に対して狂った称賛を並べ立てていたら、君はどう思った?」
「仮定の話ですか……? 難しいですね……」
たしか女子学生は「なんて美しいの」とか「神に愛された造形」とか言っていた気がする。惚れ魔術の効果だと知らずにそんな賛辞を聞いたら――
「ちょっと……なんか……嫌かもしれません」
そう答えたはいいが、続く言葉が見つからない。なぜ嫌なのかを説明しようと思うのに、自分でも理由がよくわからないせいだ。
「なんか……うまく言えないのですが、その……なんでだろう……」
焦りながらそう続けたら、タリクがナディアの顔を見て笑い声を上げた。
「どうして笑うんですか」
唇を尖らせて目を細めたが、彼の心底楽しそうな表情を見ていたら、つられて笑ってしまった。さっき自分で言ったとおり、「殿下が笑っていると私も楽しい気持ちになる」のだ。
「思うんだが――」
ひとしきり笑ったあと、タリクが言った。
「――こうして共に笑えることが、何よりの『ふさわしさ』なんじゃないか」
ナディアは頷いた。
「次に誰かから同じようなことを言われたら『お前はタリクの笑顔を見たことがあるか』と言ってやれ。見たことのある人間は少ないから」
「そんなことを言ったら余計に嫌われそうです……」
「たしかにな」
――よく笑うのに。笑顔を見たことがある人、少ないんだな。
彼の笑顔を見ながらそんなことを思う。
そしてふと「あのことを聞いてみようかな」と思った。
気になっていることがあった。尋ねないほうがよいだろうかと迷ったが、意を決して「あの……友人というのは、少々不躾な質問も許される関係でしょうか?」と問うと、タリクは眉を持ち上げて頷いた。
「そうだと思うが。何か私に聞きたいことでも?」
ナディアは大きく息を吸い込んだ。
「どうして殿下は授業で本気を出さないのですか?」
もったいぶっても仕方ないからと真正面からそう問うと、タリクの眉が一瞬持ち上がった。
「……なぜ本気を出していないと思う?」
「少し前から思っていたんです。ハーリドに炎の術を返したときや、防御魔術の講師の髪色の話をしたときに。同じ術をお見舞いできるってことは、あの術が何かを見破ったんですよね? 無詠唱で術印もなかったのに。それが今日、確信に変わりました。不意打ちの背後からの魔術にあの速度で反応できるなんて」
彼は間違いなく、ずば抜けて優秀な魔術の使い手だ。
だが、授業での彼は「無難に課題をこなしている」という印象だった。演習で誰かと組んで撃ち合う場面でも、善戦はするものの、敗れることが多い。
「防御魔術に関しては幼い頃から母上に叩き込まれているからな」
タリクはそう答えたが、ナディアが納得していないのが伝わったのだろう。ややあって観念したように小さなため息をつく。
「魔術団の入団試験には学院の成績による足切りがあるんだ」
どうして急に魔術団になるのか、理解するのに少し時間がかかった。
「……もしかして、他の人が足切りの対象にならないように……?」
あまりの驚きに見開いた目が乾いて、ナディアは瞬きを繰り返した。
タリクは肩をすくめる。
「私は『お気楽な第二王子』だからな。魔術団に入るわけじゃないし、第一王子のような完璧さを求められもしない。ああ、言っておくが、優しさからの行動ではないぞ。そんなことで要らぬ恨みを買って面倒なことになりたくないだけだ」
タリクの腕にとまったサマーリが瞬きをする。彼の名は「自由」なのに、その使い手はこんなにも不自由だ。
「……楽しいですか?」
思わずそう問うていた。全力を出さずに「そこそこ」でいようと過ごす日々がどんなものか、ナディアには想像もつかなかった。
タリクは一瞬眉を寄せた。
「……退屈だった。君に会うまではな。それでいつのまにか『不機嫌殿下』になった」
そう微笑むタリクを前に、ナディアはどんな顔をすればよいのかわからない。
食堂でも、廊下でも、彼の周りにはいつもたくさんの人がいた。それでも――もしかすると彼はひどく孤独だったんじゃないかという気がしたからだ。
タリクが立ち上がり、天幕の外を覗いた。
「この様子だと、まだ時間がかかりそうだな。少し仮眠でもとるか。淑女の前で眠ったのか、と父には怒鳴られそうだが。久しぶりに人の姿で眠れるのにフイにするのは惜しい」
「ウッ……申し訳ありません……私のせいで……」
彼が小さな木箱で眠る元凶となってしまったナディアが罪悪感に打ちひしがれながらそう言うと、タリクは軽やかに笑って天幕の椅子で腰かけたまま腕を組んで目を閉じた。
ほどなく彼の胸がゆっくりと上下する。眠りに落ちたのだろう。鷹も目を閉じている。
ナディアはそんな彼の近くに座り、じっと考え込んだ。
――わたし、これまで自分のことしか見えてなかったんだな。
自分が全力を出すことが誰かの未来を奪うだなんて思いつきもしなかった。
「そうだ、言い忘れたが」
眠ったとばかり思っていたタリクが言葉を発したので、ナディアは驚いて「エッ」と声を上げてしまった。
琥珀色の瞳がナディアを見据える。
「君はそのままでいい」
「……本当に?」
「周囲に惑わされず、自分に為すべきことを積み上げるのはとても難しい。それができるのは君の美点だし……私もそうあればよかった」
口の端だけに笑みを浮かべてタリクが言う。
その自嘲気味の笑みを見つめていたら、胸がチクリと痛んだ。
「本当にそう思ってくださるなら、殿下も――」
彼の瞳に揺れる炎を見つめながら、ナディアは気づけばそう言っていた。
「ん?」
言いかけて、出過ぎた真似だと思った。
でも、すでに口から出てしまった言葉は取り消せない。
彼の視線に先を促され、遠慮がちに続けた。
「その……殿下のお心のままに」
タリクはふーと細く息を吐いた。
「心のままに、か」
「あの、すみません……」
「なぜ謝る?」
「偉そうなことを言ってしまって」
王子である以前に、四つも年上だ。ナディアよりたくさんのことを経験してきている。
タリクは首を横に振った。
「偉そうだなんて思うはずがない。君に言われると背筋が伸びる」
「私は猫背なので、殿下の方が背筋は伸びていると思いますが」
「そういうことじゃない」
タリクがフッと鼻から息を吐きだし、肩を揺すって笑う。
不快にさせたのでないならよかったと、ナディアは胸をなでおろす。
「心のままに、か……」
タリクがもう一度呟くように言った。
ナディアは何も言わずに頷いた。
結局仮眠をとることはできないまま、幹事からの事情聴取、到着した魔術団からの事情聴取と続き、予備天幕を出る頃には空が明るくなりかけていた。
惚れ魔術をかけた女学生は迎えに来た両親によって連れ帰られ、処分が決まるまで謹慎となった。




