第3.4話:指輪
洞窟はどこまでも続いていた。
空気は静かな緊張に満ち、石の下からはかすかなエネルギーの唸りが響いている。
壁に刻まれた光る紋様が、セウルの足音に合わせるように淡く脈動していた――まるで遺跡そのものが彼と一緒に呼吸しているかのように。
ゼディは数歩後ろを歩き、懐中電灯の光をゆらゆらと壁に走らせながらぼやいた。
「なあ、この紋様、歩けば歩くほど不気味になってないか?」と、いつものようにニヤリと笑う。
セウルの視線は前方に釘付けだった。
慎重に一歩踏み出す――その瞬間、彼の体がピタリと止まった。
空気がわずかに揺らめいた。
目には見えないが、確かに“何か”がそこにあった。
セウルは手を伸ばし、その空間に触れようとした――が、指先が空中で止まった。
空気が固体のように感じられ、指先の下でかすかに震えていた。
「なんだ、これ……?」
セウルは眉をひそめ、もう一度押してみた。
だが見えない壁はびくともしない。
腕にビリビリとした感覚が走り、肌がざわつく。
「おい!」ゼディが後ろから声をかけた。「どうした? 見えない友達にぶつかったのか?」
セウルは少し振り返り、困惑した表情で答えた。
「ここに……何かある。壁みたいな……通れない。」
もう一度足を出そうとしたが、まるで空間そのものが彼を拒んでいるように動けなかった。
「通り抜けられない。」
ゼディは目を瞬かせ、そして吹き出した。
「見えない壁? マジかよ。ゲームのバグか何かか?」
彼はその場に近づき、同じ場所に手を伸ばした――が、何も感じない。
そのままスッと前に進み、振り返ってにやりと笑った。
「ほら、俺は通れたぞ。どうやらこの壁、俺のことが好きみたいだな。」
セウルは眉をひそめた。
「冗談になってない。」
「まあまあ、怖がるなって。俺がついてるだろ?」
ゼディは笑いながら手を差し出した。
「ほら、掴め。」
セウルがその手を取った瞬間、目に見えない抵抗がふっと消えた。
水面をなぞるように柔らかな光が広がり、二人は同時に前へよろめく。
ゼディは目を瞬かせ、低く口笛を吹いた。
「……今の、なんか変だったな。」
「うん。」セウルは静かに答え、後ろを振り返った。
トンネルの向こう側がぼんやりと霞み、まるで光の幕をくぐり抜けたように見えた。
「……何かを越えたみたいだ。」
空間が変わっていた。
空気は冷たく、鋭く。
壁には緻密なルーン文字が光を放ち、円形の広間全体にエネルギーが満ちていた。
中央には古びた石の台座――ひび割れてはいるが、時を超えてなお崩れていない。
そしてその上には――
ひとつの指輪が、ゆっくりと回転しながら宙に浮かんでいた。
淡い金の光を帯び、表面には小さなルーンが刻まれている。
その光は、まるで壁の脈動と同じリズムで鼓動していた。
ゼディの口が開いたまま止まる。
「……おい、撤回だ。ここまで来た甲斐はあったな。」
ゆっくりと一歩踏み出し、驚きと好奇心に満ちた目で台座を見上げた。
「なあ、あれ……宝物か? それとも、呪われた“死の指輪”とか?」
セウルは口元をゆるめた。
「どっちかっていうと、アニメの主人公が偶然魔法の指輪を拾って――ヒーローになる、みたいな展開だな。」
ゼディは吹き出した。
「いやいや、呪われて一話目で退場だろ。」
「どっちでもいいけど、さっさと出口を探したい。」
セウルはため息をつき、浮かぶ指輪を見上げた。
ゼディは部屋を見回し、肩をすくめた。
「出口? そんなのねえよ。ここ、完全に密室だ。」
壁を叩きながら笑う。
「ドアも亀裂もなし。あるのはこの光る落書きだけ。」
セウルは考え込むように壁を見つめた。
光るルーンが再び淡く瞬き、まるで彼の思考に反応しているようだった。
ゼディはあごを指で叩きながら真剣な顔――を装って言った。
「隠しスイッチとかあるかもな。」
そう言って壁を押したり、床を踏み鳴らしたりする。
セウルは呆れ顔で言った。
「……何やってんの?」
「探索中だ!」ゼディは胸を張った。「たまに魔法って、叩いたら動くんだよ。」
セウルは頭を押さえ、ため息をつく。
「それ、絶対嘘だろ……」
視線を再び台座へ向ける。
浮かぶ指輪は、静かに光を放ちながら――まるで「触れろ」と誘うように揺れていた。
「もしかして……」セウルは小さくつぶやいた。「この指輪が出口なのかも。」
ゼディが目を丸くした。
「は? 本気で言ってるのか? 触る気?」
セウルは何も答えず、指輪をじっと見つめた。
深く息を吸い込み、呟いた。
「五分五分の確率だな。焦げるか、ヒーローになるか。」
小さく笑って、「後者の方がマシだ」と付け加える。
ゼディは腕を組んでため息をついた。
「マジで行く気か? ならせめて俺が――」
「大丈夫。」
セウルは微笑み、冗談めかして言った。
「もしやばいことになっても……ゼディとみんなは助かるようにしてくれよ、運命さん。」
そう言うと、一歩前へ。
手を伸ばし――震える指先で指輪に触れた。
「よし……主人公ムーブいくぞ。」
掴んだ瞬間、何も起きなかった。
沈黙。
ふたりの呼吸音だけが響く。
「……あれ?」セウルは片目を開けた。「なんも起きねえ。」
ゼディが安堵の息をつき、近づいてくる。
「ただの指輪じゃん。ほら――」
彼が指輪を持ち上げた瞬間、
「――な? これで出口もなけりゃ、ここで一生――」
低い唸りが床を走った。
指輪が金色に光る。
ゼディの目が見開かれた。
「おい、訂正。なんか起きてる!!」
壁のルーンが次々と光を放ち、床全体が脈打ち始めた。
地面が震え、天井から砂が降る。
「また地震かよ!?」ゼディが叫ぶ。
「ゼディ! 指輪が――!」
セウルの声と同時に、足元のタイルがひび割れ、眩い光が噴き出した。
二人の視界を白が包む。
「なんだこれ――!」
ゼディが叫ぶ中、足元が崩れ落ちた。
二人は光の渦に飲み込まれながら落下する。
セウルは反射的に手を伸ばし――宙を舞う指輪を掴んだ。
その瞬間、視界に閃光が走る。
――満月の下、白いマントを翻す男の影。
その手には金色の印。
それは今、セウルが握る指輪の光と同じだった。
そして闇。
光が二人を包み込み、彼らの姿は遺跡の深淵へと消えた。




