第2.3話:門までの五分間
ジェンは腰のポーチから地図を引き抜き、石の上に広げた。
彼女の作り出した光球が、地図の上で淡く脈打ち、刻まれた線と符号を照らす。
「リース、整列はあとどのくらい?」
リースは手首の装置を確認し、流れる数字を見て顔をしかめた。
「……残り五分。」
「なら急ぐわ。門は近いはず。」
ジェンは地図を勢いよく折りたたみ、立ち上がった。その瞳には、燃えるような決意が宿っていた。
「き、聞こえないの!?」
シュウの甲高い声が、沈んだ空気を裂く。
遺跡の奥から、地響きのようなうなりが響いた。低い咆哮、石を引きずる音――先ほどの守護獣の咆哮が、他の者たちを呼び覚ましたのだ。
リースが舌打ちする。
「やれやれ……お客さんが増えたな。」
三人は狭い通路を駆け抜ける。空気は冷え、闇はさらに濃くなる。壁に刻まれた紋様が光の揺らめきで動いて見え、影の奥には何かが蠢いていた。
突如、影が動いた。
通路の先に、もう一体の守護獣が姿を現す。空洞の目が三人を探るように光る。さらにその後ろ――二つ、三つ、別の巨影が蠢いた。
「……くそ、全員は相手できない。」ジェンが息を呑む。「シュウ!」
「ぼ、僕!?」
「そうよ! 呪文でも幻でも何でもいい! 今やって!」
シュウは手元の護符を取り落としそうになりながら、青い光を掌に集めた。
「わ、わかった! で、でも怒らないでよ……失敗しても……!」
光が揺れ、頼りなく揺らめく。
「頼むぜ、マジで外すなよ。」リースが低く呟いた。
シュウの唇が震える。詠唱がもつれ、息が乱れる。
青い光がパッと燃え上がり、ジェンとリースが思わず目を細めた。
「ちょ、爆発すんなよ!?」ジェンが怒鳴る。
「が、頑張ってるよぉ!」
守護獣の一体が吠え、突進してきた。
シュウは反射的に護符を投げる。
床に落ちた護符が――一度、二度、弾む。
そして――爆発した。
……無数の蝶に。
青く光る幻想の蝶が、通路いっぱいに舞い広がる。透明な羽が月光のように煌めき、空気そのものが幻想に包まれた。
守護獣たちは動きを止めた。空洞の目が群れを追い、戸惑うように腕を振り回す。
「……蝶?」ジェンが呟く。
「こ、これ“幻惑符”! ね、猫相手によく使ってたやつで!」
シュウの声が裏返る。だが――効果は抜群だった。
「今だ!」リースが叫び、シュウの襟を掴んで走る。
「おい、虫使い! あいつらが正気に戻る前に行くぞ!」
「ちょ、虫じゃなくて蝶だってばーっ!」
ジェンが彼を引っ張り、三人は駆け抜ける。
背後では、青い光が淡く消えていき、守護獣のうなりが遠のいていった。
「残り三分!」リースが装置を見て叫ぶ。
「よし、走れ!」ジェンの声が鋭く響く。
三人は石畳を蹴り、奥へと進む。
***
やがて彼らは急停止した。
目の前――巨大な門を守るように、五体の守護獣が立ちはだかっていた。
その体には符文が走り、目は溶けた鉄のように赤く燃えている。
「……最悪。」ジェンが低く呟く。
「ど、どうするの!? 五体だよ!? 終わった! もう無理!」
リースの装置が鳴り、彼が顔を上げた。
「時間切れだ。整列まで、あと二分。」
その時――後方から鎧の足音が近づく。
「警備隊!?」リースが舌打ちする。
前にも後ろにも敵。完全に挟み撃ちだった。
ジェンの拳が光を帯びる。
「なら、突破するしかないわね。」
「ぶ、無理無理無理無理! 一体でも手こずったのに!」
リースがニヤリと笑う。
「誰が戦うって言った? 使えるものは全部使うんだ。」
バッグから小さな円盤を三つ取り出す。
「煙幕装置。完璧じゃないが、幻術と組み合わせりゃ――」
ジェンが理解してうなずく。
「幻と煙で混乱させる。いいじゃない。」
シュウの顔が真っ青になる。
「ぼ、僕またやるの!?」
「やるの!」ジェンが襟を掴んで引きずる。
リースが地面に円盤を叩きつけた。
瞬時に黒い煙が広がり、視界が奪われる。守護獣たちが吠え、手探りで暴れ出す。
「今よ、シュウ!」
シュウが両手を上げ、必死に呪文を叫ぶ。
煙が歪み、十数人分の幻影が走り出す――三人の姿をした幻たちが、四方八方へ散った。
守護獣たちは錯乱し、幻影を追って通路を砕く。
ジェンが叫ぶ。「今のうちに!」
三人は本物の地図を手に、門へと走った。
爪が掠める。風が鳴る。だが間一髪でかわし、石段を駆け上がる。
煙の向こう、兵士たちが咳き込みながら突入してくるが、もう彼らの姿はなかった。
***
門の前。
その表面が星明かりのように輝き始める。刻印が動き、整列の魔力が流れ込む。
「……着いた。」ジェンが息を呑む。
リースが声を張る。「あと数秒だ! 鍵を差せ!」
怪物の影が迫る。
「俺が止める!」リースが叫ぶ。
「でもジェンが――」
「行けっ!」ジェンの声が、力強く響いた。
リースがシュウを引きずり、鍵を差し込む。符文が眩しく光る。
背後ではジェンが光弾を連射し、暗黒の光線を防ぐ。骨の軋む音が響く。
「……今よ!」ジェンが叫び、床に手を叩きつける。
爆発的な閃光。轟音。
リースが鍵を回す。
「……十五秒!」
ジェンが煙の中から走り出る。紫の光が後を引く。
怪物の爪が掠めた瞬間――
「5、4、3、2、1!」
門が開く。
星のような光が溢れ、轟音が遺跡全体を震わせた。
ジェンたちは光に包まれ、その中へと消える。
門が閉じる音が、世界を二つに分けた。
静寂。
やがて、三人は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
荒い息。汗。だが、生きていた。
リースが震える笑いを漏らす。
「やっと……終わった……」
シュウは壁にもたれ、ぐったりと座り込む。
「もう歩けない……足、取れそう……」
ジェンは二人を見て、疲れたように微笑んだ。
「いい冒険だったわね……でも、まだ終わってない。」
シュウが顔を上げ、辺りを見回す。
「ここ……さっきの遺跡と同じ場所?」
リースが首を振る。
「違う。壁の文様も、魔力の流れも。……もっと古い。」
ジェンは壁に手を当て、呟いた。
「――違うのよ。ここはもう、“魔法領域”じゃない。」
彼女の瞳が揺れる。
「……私たちは、“普通の世界”に来たの。」
静寂が落ちた。
遠くの闇が、かすかに息をした。




