戦隊ピンクの戦後 5
喉が痛い。
目を覚ますと、七時半だった。無職の私には早すぎる朝だ。
洗面台でうがいをする。酒のせいか。煙草のせいか。鏡には血色の悪い、片目が少し充血した二十九歳の女の顔が映っている。
姫木みさと。私だ。充血した左目は黒いままだが、右目は戦いの中で未知の物質に晒されたせいで、黒猫の目のようなハシバミ色になっている。片方だけ前髪を伸ばしているのはこの目を見られたくないからだ。戦いの影響は目だけじゃない。一人の人間には多すぎるカロリーの摂取と消費を繰り返したせいで体質が変わり、今では小食になってしまったし、身体は現役だった頃と比べて細くなっている。酒をやろうが煙草をやろうが、残りの寿命に大差はないだろう。長くはない。それははっきりとした予感がある。
戦いなんて、もう無理なのだ。今さらどうやって悪と戦えというのだろう。戦隊が相手をする敵は人間のチンピラとはまるで違う。
テーブルの上を見る。昨晩の来客が置いてあったジュラルミンケースがまだそこにあった。もしかしたら悪い夢だったのではないかという淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。ジュラルミンケースは目の前にあり、その中には人智を超えた力を与えるアイテムが入っている。それはつまり、人智を超えた敵もまた、現実に襲来した事を示している。
『自分にしかできないとわかった時、一歩目を踏み出すのは怖くなくなった。それが――』
古い知り合いに会ったせいだろう。青臭い記憶が脳内でリフレインする。十年前。あいつに出会った頃。顔を擦り、水を飲んだ。胃が少しむかむかする。
ジュラルミンケースの中を見る。バーニンチェンジャーという名前のブレスレットと、おそらくはチェンジャーを起動させるためのキーとなるメダルが、美しい光沢を放っている。薄暗いこの家の中で、手元にあるこの二つの道具だけが、小さく輝いているかのようだ。
「アラタ市……」
隣の市だ。少し時間はかかるが、行けない距離じゃない。バーニンジャーの基地とやらがそこにある。それに、アラタ市には競馬場もある。
「たまには馬もいいか」
ジュラルミンケースの蓋を閉じる。これを返しに行くだけだ。そのあとはまた、いつもの生活に戻ればいい。
すでに私は終わった人間なのだ。今さら何かを始める必要はない。
電車で一時間ほどかけて、アラタ市まで行く。日中に出歩くのは久しぶりな気がした。いつもならまだ寝ている時間だ。陽気は暖かく、そういえば今が春だった事を思い出す。缶コーヒーを呷ってまだ残る眠気を吹き飛ばし、私は喫煙所を探した。
見たところ、アラタ市の街並みは綺麗だ。敵の襲撃を受けた形跡がない。この十年間、運良く被害を免れてきたのか。公園には親子連れの姿が何組かあって実に平和な様子だった。考えてみれば今日は日曜日だ。朝九時三十五分。これから街に出る人も多くなるだろう。
「みどりー。走っちゃだめー」
「えー。なんでー!」
行き交う人々の声が耳に入る。空いたベンチにジュラルミンケースを置き、咄嗟に煙草を取り出しかけて、ポケットに仕舞い直す。
もし、優一郎の言う新たな敵とやらが、今ここに出現したなら。そいつはたちまちこの公園にいる人々を標的にするだろう。そうなったら、対抗手段は一つしかない。このジュラルミンケースの中身を使って、私がやるしか――
風が、吹いた。
パラ、パラと軽い音が聞こえた。続いて、何か掠るような音。
隣のベンチだ。全く気付かなかったが、人が一人座っている。男の子だ。高校生くらいの。赤いチェックシャツに大人しい色のチノパンというその出で立ちは、どことなく内向的な雰囲気を感じさせる。指を素早く、器用に動かして、何か、熱心にスケッチブックに描き込んでいる。聞こえてきたのは彼が鉛筆を走らせる音だった。
――懐かしい気がした。
あいつも昔はよく、道行く人のスケッチなんて事を……。
「――あ」
男の子が、小さく声をあげた。
――第六感とでもいうべき感覚が、否が応でも反応した。波長。強いて言うなら、それは強烈なエネルギーの熾りだ。何かがある。今、この瞬間に――
声を上げると同時に、スケッチブックと鉛筆が勢いよくベンチに放り出される。男の子は駆け出していた。線の細い身体のわりに、目を見張る素早さだ。危うげに地面を蹴る。その先には、派手に転んで宙に浮かんだ小さな女の子の姿があった。彼の腕が伸びる。女の子の身体をキャッチし、そのまま不格好なスライディング。衣服が地面を擦る音がした。
ほんの数秒。一瞬の判断であそこまでの動き。それに、今感じた奇妙な波長。
予感がする。確信にも似た予感。
「はーっ、はーっ」
男の子が大げさなくらいに呼吸を繰り返していた。一瞬の、今の見事な芸当をやってのけたとは思えないほど憔悴し、表情は少し怖いくらいだ。
「……おにいちゃん。大丈夫?」
助けたはずの女の子に、逆に心配されると、がばっ、と勢いよく彼は女の子のほうを向いた。
「だ、だ、大丈夫。急に、動いたから、びっくり、しちゃって……」
びっくりしたのは女の子のほうだろう。彼女の両親が走ってくるのが見えた。
強い風が吹いた。ベンチの上のスケッチブックと鉛筆が滑り落ちそうになるのを、咄嗟に私は掴んだ。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
何度もお礼を言う母親に、男の子はもごもごと何かを言っていた。親子が去り、彼はベンチのほうへと振り返る。
「はい」
私は、彼にスケッチブックと鉛筆を手渡した。
「……あ、ありがとうございます」
彼は、小さな声で言った。
本当に、まだ少年だ。瞳は大きく、顔は整っているが、どことなく陰がある。
「すごい判断だったね。あそこのベンチから一瞬で間に合うなんて」
つい、私は話しかけていた。考えての事じゃない。さっき感じた予感の正体を確かめたいという衝動に突き動かされただけだ。
「何かやってるの? スポーツとか」
「い、いえ……別に」
男の子はこちらには目を合わせずに言った。
「そうだよね。今のは――」
私は彼の顔を観察しながら言った。
「戦っている奴の動きだ」
おどおどしていた男の子の目に、一瞬何か光るものが宿った。
「……僕は別に。自分にできる事をしているだけです」
小さく、彼は言った。細い指で、めくれていたスケッチブックのページを裏手に回す。
「あんまり、得意な事とかないんです。戦うとかは別に……」
「絵は得意じゃないの?」
「やってみてるだけです。ネットでやり方を見て、やってみようかなって……それで」
「前向きだね」
貯金を切り崩しながらパチンコに興じているよりはずっといい。
「そう……ですかね。今のところ、あんまり上手くなりそうもないです。やらなきゃいけない事だってあるし。絵なんか描いている場合じゃないのかも……」
まるでスケッチブックと話しているかのように、男の子はこっちを見ようともせず、暗い調子でそんな事を言った。めんどくさい奴だ。思わず胸ポケットの煙草を取り出しそうになる。昨日絡んできた不良連中もこのくらいの年齢だったが、自分より若い奴の事は、もはやよくわからない。
――昔を思い出す。今よりも、もっと世の中が輝いて見えていた頃を――
柄じゃない。が……
「いいんじゃない。あんた、一歩目を踏み出してるんだし。やってりゃそのうちに得意になるでしょ。何か抱えたままでも続けてみれば? 冒険ってやつだよ。途方もない冒険」
自分が言えた義理じゃない事はわかっているが、何か言ってやるべきなのだろうという義務感で、私は言った。受け売りだ。昔、人から言われた事を、ちょっとアレンジして言っただけの事。
ずっとスケッチブックに顔を向けていた男の子が、ふと顔を上げた。何故だか、驚いたような顔で私を見ている。
その口が、震える声で言った。
「銀河戦隊……メグルンジャー」
その名前を人の口から聞くのは、いつ振りだっただろうか。
胸の裡に去来する思いを、どう表現したらいいのかわからない。
「……ねえ、君。ところで――」
――――バァァアアン!!
大きな銅鑼でも叩いたかのような馬鹿でかい金属音が、突然公園中に鳴り響いた。
「今のは――」
男の子がはっとした顔で音が聞こえた方角を見た。さっきまでの落ち込んでいたような表情は消えている。怯えも不安も入り混じっているが、これは――戦士の顔だ。
「《ギャンギャンスタンプ》……行かなきゃ!」




