囚われ人
事故死した祖父の葬儀を終えてから、どれくらい経っただろう。
居酒屋のバイトを終えた春馬は、温かいそうめんをすすりながらマンションのカレンダーを見たが、記憶は定かではない。
店長は、唯一の身内を亡くしたことを心配して休むよう言ってくれたが、春馬は「働いた方が気が紛れるんです」とシフトを入れてもらった。
祖父の遺産は莫大で、大学の学費も支払い済みとはいえ、贅沢をする気分にはなれなかった。部屋に出現した後飾り祭壇には違和感しかなく、今でも死んだとは信じられないでいる。
遅めの夕食終えて食器を片付ける。なんとはなしにスマホを手に取ると、祖父の財産管理をしていた弁護士、楢崎からのメールが来ていた。
『春馬さんが相続できる財産が増えるかもしれません。栄達氏が是非にと欲しがっていた絵を譲って頂けることになりました。……もちろん、相続するかしないかはあなたがお決めになることですし、断ることも可能ですので、よろしくご検討下さい』
「絵ねぇ……。ま、一度見てから決めるか」
春馬は手早くメールの返信を済ませると、ベッドに潜り込んだ。
◆
「この画廊は私の兄がやってましてね。事情を話して、一時的に置かせてもらっています」
楢崎に案内されたのは、オフィスビルにある画廊の倉庫だ。
「作者は不詳ですが、こちらの絵ですよ」
「これは……アンドロメダ、ですか?」
「明記はされてないですが、そう見えますね。タイトルも『囚われ人』ですし」
照明に浮かび上がったのは、テーブルに置かれた額装ずみの一枚だ。
荒波砕ける海岸の岩場に、はりつけのように鎖で繋がれた女性。彼女の足下には真っ黒いトカゲのような怪物が、今にも食いつかんばかりに迫っている。
アンドロメダを描いた絵では、彼女を救わんとするペルセウスも共にいるものが大半なのだが、この『囚われ人』には影も形もない。
「祖父はなぜこの絵を欲しがっていたんでしょう? 住んでいた屋敷には絵なんて一枚もないのに」
「うーん……一目惚れしたから、でしょうか」
楢崎は顎に手を当てて、祖父が『囚われ人』と出会った時のことを話してくれた。
「生前、栄達氏がお友達の家に招待された事がありましてね。その時、私もご一緒させて頂きまして。この絵を見た途端、眉をひそめて『ペルセウスがいないなんて、可哀想だな』とおっしゃいました。お友達には熱心に譲って欲しいとお願いされていましたが、断られまして。しょんぼりしていましたよ」
「最初は断ったのに、お友達はなぜ祖父に譲ろうと思ったんでしょうね」
「いえ、そのお友達は亡くなったそうですよ。ご遺族が栄達氏を覚えていらして、大事にしてくれる方に譲りたいと」
春馬は絵に顔を近づけてじっと見た。描写は実に繊細で、女性の薄衣やほっそりとした体の線、海風になびく金髪などがていねいに描かれている。
それに反して、怪物の方はおどろおどろしいタッチだ。魚ともトカゲともつかぬ正体不明の体躯をもち、ぬるりとした皮膚の質感や、開いた口にずらりと並ぶ牙は実に厭わしい。
中でも、女性を凝視する両目は底知れぬ暗さだ。絵を見ているだけの春馬でさえ、冷たい手で心臓を掴まれたようなおぞましさを感じる。
女性は恐怖に顔をゆがめ、怪物から逃れようしているが、体に食い込む鎖はそれを許さない。足下には数多の人骨が散らばり、ここが怪物の狩り場で、人間が獲物であることは明らかだ。
海辺に降り注ぐ日差しは実に柔らかく暖かそうなのだが、女性――アンドロメダの助けになるはずもない。彼女は一人ぼっちなのだ。
(痛々しい絵だな……)
春馬がそう思った時、ふと。
アンドロメダと――そして、怪物と目が合ったような気がした。
「……そういえば。絵を見た日、帰り道で栄達氏は一人の女性と知り合いましてね。親しくお付き合いしていたようなのです」
「えっ! じいちゃんに彼女がいたって事ですか?」
「えぇ。それが、絵に描かれたアンドロメダと雰囲気の似た女性なのですよ。不思議な事もあるものですね」
「似た、って……金髪の人ですか?」
「いいえ、黒髪の若い女性なのですが……どうも、こう、儚げで幸薄そうな感じが、この絵と重なるのですよ。早くに亡くした奥様の面影があるとかで、結婚や遺言書の書き換えの話が出たこともありました。実行には移さないうちに、お亡くなりになりましたが」
「……書き換え? じいちゃんの死はもしかして遺産がらみですか? 」
楢崎は首を横に振った。
「私もそう思いまして、警察に事情をお伝えして栄達氏の死亡状況を伺ったのですが……若い女性には到底無理でしょうとの事でした」
「到底無理って、どういう意味ですか?」
「いや……あまりにも荒唐無稽ですし、お聞きにならない方が」
楢崎はうっかり、という表情で口をつぐんだ。しかし、春馬はどうしても続きが気になり、話すよう頼んだ。
「栄達氏は、湖に沈んだ車の中からお一人で発見されました。全身に鎖で縛られたような跡だけがあり、太ももから下は……車ごと、獣に食いちぎられたように無かったとか」
聞き出せた死に様は、にわかには信じがたいものだった。
言われてみれば、祖父のお骨はやけに少なかったような気もする。
「半分になった車には、鋭い牙が噛みついた跡や、外から叩かれてゆがんだ痕跡が生々しく残っていました。しかし、栄達氏は怯えた風もなく、安らかな死に顔だったそうですよ」
◆
マンションに帰って線香をあげ、春馬は祖父との暮らしを思い返す。
どうも、清水春馬の両親は、駆け落ちをしていたらしい。
そう知ったのは両親を亡くして、祖父が暮らす屋敷に引き取られた十歳の頃。
両親に聞いたわけでも、祖父に伝えられた訳でもない。
春馬の母は、栄達が亡き妻との間に授かった一人娘で、目に入れても痛くない程可愛がっていたのを、どこぞの馬の骨にかっ攫われた――というのが屋敷の使用人達の噂話。
祖父が春馬の父の話をまったくせず、母の子供時代の写真をよく見返していたのはそういう事か、と子供ながらに感づいたのだ。
祖父は春馬を何不自由なく暮らせるようにしてくれたが、同時に孫の扱いに困っているようにも見えた。
(一生懸命話しかけようとしてくれるんだけど、なんか会話がかみ合わなかったり、誕生日やクリスマスのプレゼントをくれる時も、おっかなびっくりだったり……)
春馬の方でも、突然現れた『おじいちゃん』に対して何をどうすればよいのか分からないまま、月日が過ぎてしまったような気がする。
祖父は常に身ぎれいにしている仕事人間で、三つ揃いのスーツと杖を相棒にどこにでも出かけ、忙しい毎日を過ごしていた。
でも、運動会や授業参観へは必ず来てくれて、大騒ぎの使用人達の中で言葉少なく立っていたのを覚えている。
あまり怒るということをしない人だった祖父が、珍しく怒ったのは、春馬が拾ってきた子犬、ロビンの散歩をサボった時だ。
友達に新作ゲームをしようと誘われて、悪いと分かっていながら応じてしまったのだ。
『お前には帰る場所もあるし、学校に行けば友達もいるだろう。だが、ロビンにはお前しかおらんのだ。お前を一番信じているのだ! そんな相手に放っておかれたらどんな気持ちになるのか、考えた事がないのか! 不実にも程がある!』
玄関先でリードをくわえ、じっと春馬を待っていたロビンが、尻尾を振って飛びついてきた時の後ろめたさといったらなかった。
祖父も何か娘との約束を破ったことがあったのだろうか。もしかしたら、あの言葉は和解もできず永遠に娘を失った、後悔の言葉だったのかもしれない。
両親が何故駆け落ちという手段を選んだのかについて、春馬が知ることは無いだろう。
そのロビンも今では天国に行ってしまって、もういない。
春馬が十二年間、ぶっきらぼうな祖父と、お節介な使用人達と共に過ごした屋敷も、家財も売り払った。
使用人達にも暇を出した。
維持できないからだ。
春馬はいまいち生活感のない、マンションの一室を見渡した。絵の一枚くらいは難なく飾れるだろう。
(まぁ、生きてる時はろくな孝行もできなかったしな)
春馬は『囚われ人』を相続すると決め、スマホに手を伸ばした。
◆
楢崎法律事務所で相続の手続きを終え、春馬は今日の夕飯を何にしようかと考えながら、駅への道を歩いていた。
「あれ」
歩道の脇、植え込みの根元に財布が落ちている。
春馬はそれを拾って交番に届け、スーパーで少し高い肉を買って、焼き肉にして、それきり忘れていた。
だから、お礼の電話がかかってきた時は、かなり驚いたのだ。
「清水春馬さん、この度はありがとうございました」
「い、いえ……大したことはしてないですよ」
喫茶店の中、頭を下げる女性の黒髪がさらりと揺れた。
彼女は早瀬若菜といい、春馬と同じ二十二歳の大学生で、警察からの連絡で慌てて取りに行ったのだという。
「このお財布は父が入学祝いに買ってくれたものですし、中には母がくれたお守りが入っているんです。だから本当に大事なもので……ありがとうございました!」
「それは何よりです」
お礼に何でも食べてくれと言うので、春馬は苦めのコーヒーとプリンを注文した。生クリームとサクランボが乗っているやつだ。
「清水さんは甘いものがお好きなんですか? 私の父も家族で外食に行くと、コーラフロートにパンケーキとか食べるタイプでした」
「いや、僕のは……祖父がいつも食べろ食べろって言ってくれまして。子供にはプリンとお子様ランチを食わせとこう、って考えの人だったんです」
高校生になってもお子様対応されるのにはまいった、と言うと、若菜はふふっ、と笑ってアイスティーを注文した。
「ありました、私の父もそういうとこ。私が食後にコーヒーを飲んだりすると『ソフトクリームは食べないのか?』って聞くんですよ。その日の気分で選んだだけなのに。冗談で『もうそんな子供じゃないのよ』って言うと、すごく驚くんですよ。もう、おかしくて」
話を続けると、彼女が春馬と同じように家族を亡くしていることが分かった。財布は両親の形見だということも。
「そんな大事なものを届けられて……本当によかった」
春馬はコーヒーを一口飲んでから、プリンをすくって食べた。
誰かの思い出を守れたことが、たまらなく嬉しかった。
◆
「畑中店長、嬉しそうですね。何かいいことでもあったんですか?」
開店前の居酒屋で、お通しの数を確認していた畑中は、出勤してきた店員に声をかけられた。
「え、やだなぁ井上さん。そんなに顔に出ちゃってる? 実はね、清水君から第一志望の企業から内々定もらったって報告があってさ。良かったなぁって」
「ほんとですか? おじい様を亡くしたって聞いた時は心配してましたけど、これでひとまずは安心ですね」
「そうなんだよ。一緒に働けなくなるのは寂しいけど、清水君は高校生の時からいてくれてるからね。旅立ちは本当に嬉しいよ」
畑中と井上は、テーブルを拭いている春馬をちらりと見た。さっさと作業を進める彼と、後輩の少年が会話したかと思うと、春馬を引っ張って二人のもとへ来た。
「店長、井上さん、聞きました? 春馬先輩彼女ができたって!」
「れ、蓮君ちょっと……」
後輩にどうしてもとせがまれた春馬がしぶしぶ言うには、就職して生活が安定したら、同棲を考えているらしい。
「内々定もらって、同棲考えてる彼女までいるなんて……! リア充でずるいです! どうしたら彼女って出来るんですか?」
「そんな事言われても……君はまだ十七歳なんだし、内定なんていらないだろ。彼女だってそのうち出来るよ……」
鼻息の荒い蓮に問い詰められて、春馬は困り顔だ。
「蓮君もお年頃だねぇ」
「うちの息子はまだゲームに夢中ですよ」
そんな学生二人を温かく見守りながら、呟く大人二人。
「んー、じゃあ、きっかけ! どうやって知り合ったのかは教えてくれますよね!」
「それは……偶然……落ちてる財布を拾って届けただけだよ……」
「なるほど、日頃の行いが大切ってやつですね。あの、可愛い子の財布落ちてそうな場所教えて下さい!」
「あ、私にも教えて! イケメンの財布が落ちてそうな場所!」
「なんでそうなる……って、井上さん既婚者ですよね? お子さん二人いるって言ってましたよね!」
驚きを隠せない春馬に、井上はしれっと前髪をかきあげて言った。
「主婦がイケメンの財布拾っちゃいけないの?」
「大体、可愛い子とイケメンの財布落ちてそうな場所なんて知ら……いやいや、財布が落ちてたら誰のでも拾って届けなよ!」
「まぁまぁ。もうすぐ開店だから。清水君お祝いパーティの話はまた後で」
悲鳴を上げて、台ふきをテーブルに叩き付ける春馬を畑中はなだめた。
「パーティって、何の話ですか? っていうか、もうすぐ開店なのになんでおしぼり冷たいままなんです? 今日は蓮君当番でしょ!」
「あっ、忘れてた。ごめん」
そこには、眼鏡の下の目を釣り上げた少女がいた。
「あっ小林さん、おしぼり温めてくれたんだね、ありがとう。いつも助かるよ」
「いつもじゃ困ります、店長。蓮君にビシッと言っといて下さい!」
「うぅ、委員長の当たりがキツい……」
「三回も忘れるからでしょ!」
畑中は高校生二人、大学生一人、主婦一人の店員達と業務の最終チェックをしてから、店を開けた。
◆
――たすけて
春馬の耳に、誰かの呼ぶ声が聞こえた。
――たすけて、おねがい
ごぼっ、と呼気がこぼれる。
いつの間にか水の中にいた。
――こわい、たすけて、あいつがくる!
真っ暗な水底に何か光るものがある。
鎖で縛られた女性のようだ。
(若菜?)
春馬は大切な人の姿に、息を堪えて水底へ潜る。
恐怖にもがく彼女に手を伸ばしても――届かない。
「……ん」
春馬は自室のベッドで目を覚ました。
振動するスマホを手に取ると、若菜からメッセージが来ていた。
『春くん、もう起きてる? 今日の映画、楽しみだね』
「うわ、まっず」
最近見るようになった妙な夢のせいで、熟睡感はあまりない。
慌てて『ごめん。今起きた。時間には間に合うようにするから』と返信して、身支度を調えて飛び出した。
何とか待ち合わせには遅れずにすんだものの、映画館のポップコーンとコーラで腹を満たしたことは叱られてしまった。
「春くん、朝ご飯食べてないんでしょ? お昼はお野菜たっぷりにしようよ。スープかお鍋だと、体が冷えなくていいよね」
若菜は春馬の手を引っぱり、様々な店に目移りしている。
映画の後、ショッピングモールのレストラン街を歩くのは、両親が生きていた時以来だ。
「春くんはどのお店がいい? 和食にしてお味噌汁か……それとも、ミネストローネとか、韓国料理もあるよ」
「うーん……和食がいいな。具だくさんの熱々豚汁が食べたい」
雑穀ご飯と味噌汁が売りの定食屋に入り、焼き魚定食を注文する。
「いんげんにほうれん草、小鉢二つもつけるの? 豚汁にも野菜入ってるのに」
「だめ! 緑が足りないのよ、春くんには」
「えーっ」
ごま和えとおひたしを横目に、熱々の豚汁をすする。豚肉の甘い脂と、味噌汁の中に浮かぶのはにんじん、大根、こんにゃくにごぼう。冬になると母がよく作ってくれたものだ。
向かい合わせに座る若菜は、牡蠣と野菜炒め定食を幸せそうに口に運んでいる。
「ねぇ、春くん。映画見てる時寝てたけど……もしかして疲れてた?」
「え? あ、いや……ごめん」
こちらをうかがいながらの若菜の言葉に、春馬は反射的に謝った。
「うぅん、春くんが謝ることじゃないの。ただ、疲れてたなら誘って悪かったな、って。ごめんね」
「いや、いいんだ。若菜と出かけるのは楽しいし。でも、まぁ……疲れては、いるかも。最近変な夢ばかり見て、あまり眠れないから」
夢の内容を問う若菜に、春馬は話した。
水底に、彼女自身が囚われていること。自分は必死で助けに行くのに、いつも手が届かずに目が覚めること。
「そ、そうなんだ……」
自分が出ていることに驚いたのか、若菜はぽかーんと口を開けている。
「春くんは夢に見るほど私を想ってくれてるんだね」
「気にするのそっち?」
拍子抜けする春馬に、若菜は初めて会った日のようにくすっと笑った。
「それに、私を助けようとしてくれてるんだよね。ありがとう」
「……夢の中の話だよ」
大切な人なんだから当然だよ、という言葉がさらりと出るほど、春馬の口は滑りが良くなかったが、若菜が気を遣って茶化してくれたのを分からないほど朴念仁でもなかった。
「あ、そうだ! この前バイト先の居酒屋で送別会やってもらったって言ってたよね。その時の話聞かせてよ」
「その時の話って言われても……大所帯でしっちゃかめっちゃかだったからなぁ。店長が泣いちゃったことくらいしか」
何せ、春馬以外の従業員は皆家族で参加していたのだから人数も多くなるというものだ。
「店長さん、お酒でも入ってたの?」
「うん、そう。店長はお酒に弱いくせにガンガン飲む。そして号泣」
「うわー」
若菜は引きつった笑みだ。
「『ご家族を亡くされた時はどうなるかと思ったが、彼女もできて内定も貰って、本当に良かったぁ! 末永くお幸せにぃ!』って言いながら、僕をハグしてくる。涙と鼻水をなすりつけてきて、セクハラだ」
「またまたぁ。ため息なんかついちゃってー、いい店長さんじゃない」
「まぁ、お人好しではあるね。自腹で商品用意して、ビンゴ大会とか開催しちゃって、あの人はおかしい」
「春くん、店長さんになんか冷たくない?」
「いいや? そんなことないさ」
最後の塩鮭をご飯と一緒に飲み込み、食事を終える。
会計を終え、店を出た帰り道。
若菜は満面の笑みで言った。
「でも良かったぁ。温かい職場のおかげで、春くんは一人じゃなかったんだね」
「そうだな……僕は今までいろんな人に助けられてきた。でもそれは君もだよ、若菜」
首を傾げる彼女に、春馬は言葉を続けた。
「君がいてくれるから、僕は一人じゃないって思えるんだ。ありがとう。僕と一緒にいてくれて」
言い終えた途端。
若菜が飛びついてきて、ぎゅっと抱きしめられた。
「ほめても何も出ないよ」
「いいよ、何も出さなくて。特にほめてないから」
「春くんひどーい」
頬をふくらませる若菜に、思わず笑ってしまう。声を出して笑ったのはいつぶりだろう。
「僕も君と一緒にいるよ。ずっと」
「ほんと? お父さんとお母さんみたいに、私を置いていかないでくれる?」
「まぁ、人間だから死は避けられないけど、君より遅くなるように努力するよ」
「……嬉しい。ありがとう」
彼女の目から零れた涙を、指先でそっと拭った。
◆
ふと気がつくと、真っ暗な水の中にいる。
水底に囚われた、大切な人を救出する夢。
(絶対、助けないと)
卒業までまだ間があるこの時期、周りの友人達はバイト明け暮れたり、職場の体験実習があったりと忙しい。
春馬はといえば、夢を見る頻度が上がり、夢中の襲撃者もはっきり見えるようになった。
魚でもトカゲでもない、真っ暗な目の怪物。
水中は怪物の独壇場だったが、若菜を食わんとする敵に立ち向かわなくてはならない。
一人ぼっちで泣いている彼女を、助けたいと思った。
一人ぼっちの自分を救ってくれた彼女を、守りたいと思った。
早く鎖を切らないと――
「春くん、春くん!」
「若菜?」
目覚めて。
隣にある温かさに安堵して、ベッドに身を起こす。
「また、怖い夢を見てたの?」
「……見てたけど。最近は、怪物に勝てる時もあるし」
「うんうん、いつもありがとうね」
不機嫌が顔に出ていたのか、若菜が笑顔で頭を撫でてくる。
「子供扱いすんなよ」
「して欲しくないなら、病院にいこうよ。悪夢って……何科に行けばいいのかなぁ」
「別に、そんな大したことないよ」
大きく欠伸をして、若菜を抱きしめる。
「君が無事でいてくれたら、僕はそれだけでいいんだ」
何も悪いことばかりではない。
悪夢にうなされる春馬を心配して、若菜は週末だけ泊まってくれるようになったのだ。
「……もぅ。春くんて、しっかりしてそうに見えて危なっかしいんだよなー。ちゃんと朝ご飯食べよ? 作ってあげるから。あ、出来るまでシャワーを浴びてきたら? すっきりするんじゃないかな」
よく見れば、若菜はパジャマから着替えた後だった。先に起きて着替えた後に、ベッドに潜り込んだらしい。
「病院のこと、考えておいてね。私より長生きしてくれるんでしょ?」
するりと腕から抜け出した若菜に笑われて、春馬は約束を思い出した。
「そうだった」
風呂場に入ると、鏡に映った体に真っ赤な跡がついている。
「……ん?」
鎖みたい、と思いながら瞬きすると、何もない。
(気のせいか、見間違いか……どっちにせよ、また若菜にどやされるな)
黙っておこうと決めて、熱いシャワーを浴びる。
排水溝に勢いよく水が流れ込み、ごぼごぼと音をたてる。
悪夢の中で息が続かず、はき出した呼気のように。
怪物が水中で体をくねらせるように。
「春くーん、朝ご飯できたよ!」
若菜の声に我に返り、脱衣所に出て体を拭く。そこで着替えを忘れたのに気づき、仕方なくバスタオルを巻いて外に出る。
「ちょ、春くん! 裸で出てこないでよ!」
「服を忘れたんだよ……」
真っ赤な顔で怒る若菜から逃げるように、クローゼットから服と下着を出して着る。
食卓につくと、そこには素晴らしい光景が広がっていた。
きつね色に焼かれた食パン、傍らにはバターとマーマレード。
キャベツとたまねぎにトマト、そしてソーセージを煮込んだスープは湯気をあげている。
隣の目玉焼きは、色からして半熟に仕上げてあるようだ。
「うわぁ、おいしそう! 冷蔵庫に材料こんなにあった?」
「ふふーん、昨日買ってきておきました」
「ありがとう、お金払うから」
得意満面の若菜にお礼を言うと、笑顔で調味料を出してくれる。
「どういたしまして! 目玉焼きに何かける? お醤油とソース、塩こしょうがあるよ」
醤油を頼むと、真新しい容器を渡される。これも買ってきてくれたのだろうか。
二人でいただきますを言って、パンにバターとマーマレードを塗る。
「若菜は塩こしょう派なんだね」
「うん。お母さんがそうだったの。お父さんはソース派だったから、喧嘩することもあったなー。春くんのうちは?」
「二人仲良くマヨネーズかけてたよ。僕には合わなかったけど」
「へ、へぇ……ダブル卵か」
彼女はパンにマーガリンだけを塗って、目玉焼きを乗せて食べている。
スープに口をつけると、空腹が温かいコンソメで満たされてゆく。煮込まれたトマトはとろりと柔らかく、ソーセージをかむと肉汁があふれた。
「はぁー、うまい」
目玉焼きに箸を入れ、零れた黄身に白身を絡めて口に運ぶ。
「若菜、口に黄身がついてるよ。子供みたい」
「な、なによぅ……春くんだって、パンくずを服にたくさんこぼしてるじゃないの」
すました顔で口を拭う若菜を、つい笑ってしまって怒られた。
食卓に大切な人がいて、たわいもない話をしながら食事をする。
春馬の人生からは、二度も失われたものだ。
(でも、これからは若菜がいてくれる)
目の前で笑ってくれる人を守るためなら、何でもしよう。病院に行くことくらい、どうということはないか。
――そう思ったとき。
どこからか、鎖を引きずるような音が、聞こえた気がした。