第七章
僕の父親のエンブリー伯爵は弁護人のストークスさんの見込み通り、母との婚約中の不貞行為による契約違反で高額な違約金を請求され、同時に借金の返済を求められて破産した。
元々母が亡くなってから領地経営も商売に失敗していたのに、贅沢な暮らしを止めなかったのだから当然の結果だろう。
王都のエンブリー伯爵邸は売却されて、借金返済に当てられることになった。
そして浮気の挙げ句に生まれた息子の出生をごまかそうと作った養子縁組のための公文書偽造、僕に対する虐待と、未必の故意による殺人未遂……
父親はこれらの罪で有罪になって、その後投獄された。まあ、それほど長期ではないが、出所したら平民として暮らすことになる。
後妻は積極的に犯罪に加わったわけではないが、犯罪を知りながら助けることもしなかったので、犯罪幇助罪で有罪となり、一月収監された後、規律の厳しい修道院へ送られることになっている。
本来なら彼らは前夫に対する不義密通罪も適用されるところだろうが、相手の子爵家が大金をもらって口封じに応じていたために不問とされた。
そしてこの子爵家には不義の子が再び自分達の戸籍に舞い戻ってきてしまった。エンブリー家との養子縁組が偽装だったのだから当然であるが。
故に子爵家の人々はこの不良債権に頭を悩ませ、ただひたすらライアンとアネッサの婚約がこのまま遂行されることを願うのだった。
裁判において父は公文書偽造は認めたが、僕に対する虐待と、未必の故意による殺人未遂は徹底的に否定した。執事一人の証言だけでは証拠にならないと。
ところがこちら側の証人は他にもいた。後妻の息のかかった使用人の中にも、さすがに僕に対する扱いは酷過ぎると感じていた者はいたようで。
それでも頑として自分の非を認めない父だったが、最後の証人として僕がエミリィーに支えられながら証人台に現れると、その場にヘナヘナと座り込んだのだった。
ランサム伯爵夫妻はエミリィーの拉致監禁、暴行罪で一応訴えられたが起訴されず、何の罪にも問われなかった。
ただ完全にティンデル侯爵家を始めとする親類縁者から縁を切られたので、今後貴族として生きて行くのは難しいだろう。
何故そうなったのかと言えば、ランサム伯爵家の後継者があのアネッサとライアンだからである。
エミリィーの助けを受けられなかった二人は、必死にクラスメート達からノートを借りたり、試験対策を教えてもらおうとした。
しかし、元々彼らにはまともに勉強する友達などいなかったし、真面目なグループに擦り寄ろうとしても、当然避けられてしまった。
そこで何と彼ら二人は、試験問題を盗み出すというもっとも愚かしい行動に出た。
しかし当然警備員に見つかって警察に連行され、窃盗未遂、不法侵入罪で起訴された。
その上アネッサには学院の寮での信書隠匿罪も加わった。
とはいえ、いくつかの犯罪を合算しても罰自体はそれほど大きくはなかった。最終的には執行猶予付きの禁固刑が言い渡されたのだ。
しかし、二人とも成人を迎えていたので名前が新聞に出てしまった。
そのせいで彼らの最悪な人間性が、世間一般に知れ渡ることになり、特に貴族社会における信頼性は完全に失われてしまった。
そしてアネッサの卒業は認められずに退学処分になり、ライアンも当然退学になった。
こんな前科者夫婦が将来後継者になるような伯爵家と、一体誰が付き合おうと思うのだ。
そしてアネッサはライアンと婚約破棄をしたいと騒いでいた。
しかしそれはライアンが前科者になったことや、学園を退学になったことが原因ではない。
ダメンズ好きの彼女にとってはそれは大したことではなかった。
ただし、イケメン好きとしてはどうしてもライアンの顔が受け入れられなかった。
野生のシマリスに引っ掻かれた傷からばい菌が入って、そこが化膿したために、ライアンの顔に傷跡が残ったのだ。
とは言え、その傷跡はそれほど酷くはないし、時間が経てばもっと薄くなるに違いない。一般の人なら別に気にもしないだろう。
ところがたとえ薄かろうが、完璧な顔についた傷跡は余計に目立つものだ。
完璧なイケメン好きのアネッサには到底受け入れ難いことだったらしい。
しかし親馬鹿で視野が狭いランサム伯爵夫妻も、さすがに二人がまた婚約破棄をしたら、娘は一生結婚できず、この家が途絶えることになるだろうと悟った。
それ故に二人の婚約破棄は断固認めなかった。
何故真面目で優秀なエミリィーを育児放棄した挙げ句に養子に出し、こんなろくでもないアネッサを溺愛していたのだろう……
ランサム伯爵夫妻はようやく自分達の愚かさに気付いたが、それは後の祭りだった。
マーシェルはエンブリー伯爵家がお取り潰しになって、自分が平民になっても構わないと思っていた。
学園を卒業したら奨学金を貰って大学へ進学し、学者か教師になって生活しようと思っていた。もちろんエミリィーがそれでもいいと言ってくれたので。
ところがティンデル侯爵夫妻に反対された。領地の森がどうなっても構わないのかと。あそこで生きている動植物の生態系が壊されてもいいのかと。
あの森はティンデル侯爵家とエンブリー伯爵家が守ってきたのだ。あそこが人手に渡ったらティンデル侯爵家だけでは守れない。
貴族制度はただ伝統としきたりを守るだけの旧態依然とした悪しき制度との批判もある。
確かに人間社会には変化も進歩も必要だろう。しかし、世界は人間だけのものじゃない。
変えてはいけない、いや、大きく変化させてはいけないものもある。
我々貴族はそんなものを守る義務があるのだよ、と。
あの森は代々両家の当主が守ってきた。しかし、実際のところエンブリー伯爵家では祖父の代から森に関心がなく、代々執事を務めるジョレスト氏が守ってきた。
そして父の代になって母と執事のマックス=ジョレストが森を守ってきた。
僕は母が父に領地の仕事を無理矢理に押し付けられていたのだと思っていた。しかし、そうではなかったということを知った。
むしろ森を守りたくて父からの求婚を受けたのかも知れないとティンデル侯爵夫人が言った。
「私達とマーガレットは同じ大学の同じ生物学ゼミで学ぶ仲間だったの。
長期休みになる度に私とマーガレットは、当時まだ私の婚約者だった夫の領地を訪れて、森で動植物の生態系を調査するフィールドワークをしてたの」
マーガレットとは僕の亡くなった母の名だ。
「私達は力を合わせてこの森を守ろうと誓ったんだ。
マーガレットは優秀な学者でね、結婚には全く興味がなかった。だから当時は、彼女は独身を貫くのかとばかり思っていたんだ。
ところがある日突然、結婚相手だと言ってまるで舞台俳優のような華やかな美青年を彼女から紹介された。
私達はとても驚いたんだ。あまりにも彼女とは真逆のタイプの男だったから。
しかし相手の名前を知って、彼女は周りが言ってるように恋に盲目になっている訳じゃないんだとすぐに気付いたよ。
これは恋愛ではなく貴族的義務、いや自分の大切な研究のための結婚なのだと」
「どういう意味ですか、お義父様。まさかマーガレット様が森を守るために結婚なさったというのですか?」
「まあ、簡単に言えばそうだね。先代同様あの男は領地や森なんかに全く関心がなかった。
森を挟んですぐ近くに屋敷を構えていたのに、一度たりと彼とは顔を合わせたことがなかったからね。
あの男が当主になったら、きっとあの森は切り売りされてしまう。彼女はきっとそう判断したのだろう。
もちろん婚約話はエンブリー伯爵家の方だったから、彼女が意図的に仕組んだ縁談ではなかったと思うけどね」
僕は夫妻の話を聞いて驚いた。初めて聞くことばかりだったからだ。
母は父に騙され、ただ利用されていた可哀想な女性だと思っていた。
しかしそうではなく、むしろ却って母の方が父を利用していたなんて。
「貴方はお母様のことを可哀想な人だと思っていたのでしょう?
でも、お母様はこの結婚を後悔していなかったのよ。
大好きな森を守りながら、自由にしたい研究をし、その上愛する自分の子供を持てたのですもの。
それに、貴方のお父様を嫌いで結婚した訳ではなかったしね。だから、もちろん裏切られていると知った時は彼女も悲しかったと思うわ。
でも、貴方を授けてもらったのだからチャラにしてあげるわ、ってそう笑っていたわね。
マーガレットは貴方を本当に愛していたのよ、マーシェル」
ティンデル侯爵夫人は慈愛の籠もった目で僕を見つめた。そして僕にこんな問いかけをしてきた。
「ねぇ、お母様から頂いた贈り物の中で、一番嬉しかったものって何かしら?」
「えっ?」
思いがけない質問に僕は驚いた。そして考えてみた。
誕生日、女神様の生誕祭、そして建国祭と、母からは色々なものを貰ったけれど、その中で一番と言ったら……
「動物図鑑……」
ポロリと口からこの言葉が漏れた。すると侯爵夫妻はパッと顔を綻ばせた。
「それは貴方の六歳のお誕生日プレゼントでしょ?」
何故それを知っているんだ?
「あれね、マーガレットが作った図鑑なのよ。貴方にも動物を好きになってもらいたくて。
私も手伝ったのよ。挿し絵は私が描いたの。
エミリィーにも後であげたわよね、マーシェル君と同じ図鑑が欲しいって駄々をこねられたから」
「お義母様!」
エミリィーは真っ赤になった。
「でもあの図鑑の著者は男性ですよ」
「この国にはまだまだ男尊女卑が残っているのだが、その中でも特に学問の世界ではそれが顕著でね。
内容がどんなに素晴らしくても、女性が作った専門書は出版することさえ難しいんだ。
だから君の母上は男性名で出版したんだよ」
侯爵の説明に僕は今更ながら、母が色々な差別や偏見と闘いながらも、自分の選んだ道を貫いたのだなと思った。
「さっきマーガレットは後悔していないと言ったけど、一度だけ『自分の夫をもっと少しだけどうにかしておけば良かった。マーシェルのことが心配だわ』って、愚痴というか不安を漏らしたことがあったの。
隠し子の存在に気付いた頃よ。
だから貴方を守るために三人で色々対策をとっていたのだけれど、結局貴方を守り切れなくてごめんなさい」
侯爵夫人はこう言ってから僕に銀行の通帳を差し出した。
「ここにはマーガレットが出版した書籍の印税を積み立ててあるの。貴方名義よ。貴方の父親に使われないように私達が預かっていたの。自分の夢のために使ってちょうだい。
貴方のお母様もそれを望んでいると思うわ」
◇◇
夏休みになって、僕とエミリィーは領地に帰った。二人で最初に向かったのは、エンブリー家側の森の入口だ。そこには母親の墓がある。
僕達はそこに花を供えてから大切な報告をした。
エンブリー家が降格して子爵になったこと。そして僕がその子爵になったこと。
数日前にエミリィーと婚約したこと。
卒業したらすぐに結婚式をあげること。
そして……
二人揃って大学へ進学して生物学を学ぶつもりだということ。
僕は学園を卒業したらすぐに領地経営に励むつもりだった。
しかし、前エレンフェスト侯爵である祖父と、元執事マックス、そしてティンデル侯爵夫妻が、僕が大学を卒業するまで、代わりに経営を手助けしてくれると申し出てくれたのだ。
「マーシェル様はいつもいつも一人で背負って頑張られてきましたが、これからは少しずつ人に甘えることを覚えましょう。
大学を卒業するまで、貴方達の大切な森と領民は我々が守りますよ」
マックスのこの言葉で僕はエミリィーとともに四年間のモラトリアムを堪能することにした。
王都で小さなアパートメントを借りて、二人で生活をしながら。
『母上、大学を卒業したら、エミリィーや侯爵夫妻としっかりとこの森を守りますからね』
僕が心の中でそう誓いを立てた時、エミリィーが急に立ち上がり、近くの木の枝を指で指し示して声を上げた。
「マーシ様、あそこにマーシ君がいるわ。ほら、そこ!」
「えっ? マーシ君?」
「子リス達がいるわ! マーシ君お嫁さんをもらえたのね! 良かったわ」
僕も立ち上がり、彼女が指を指す方に目をやった。確かに親子らしいシマリスがいた。雄って子供と一緒に行動するのかと疑問には思ったが。
「ねぇ、何故あれが君の友達のマーシ君だってわかるの? シマリスなんてみんな似てると思うけど」
「わかるわよ。ほら、首の辺りの毛並の色が白くて、まるでペンダントを着けているみたいに見えるでしょ? 丸い形をしていて。
まるでマーシ様がいつも首に着けているペンダントみたいでしょ。だからマーシ君って名付けたのよ」
そうだったんだ。
僕がエミリィーの観察眼に感心していると、頭の中から声が聞こえた。
『貴方もまだまだね……
これからは知識だけでなく、エミリィーちゃんに観察力を指導してもらいなさいね……』
この時ようやく僕は、一年前に聞いたあの不思議な声の正体に気付いたのだった。
読んで下さってありがとうございました!
これで完結となります!