第四章
リーズは庭をぐるっと回り、正面玄関に向かった。そこには金髪緑眼でエミリィーによく似た女性が、なんと弟(実は腹違いの兄)と共に立っていた。
まともに会ったことが無かったので顔をよく知らなかったのだが、元婚約者はエミリィーにそっくりだった。
ただしそう思ったのはほんの一瞬だったが……
エミリィーはその美しさの中に教養と慈愛と愛らしさを感じさせるのだが、目の前の女性には下品で性格の悪さが、顔や態度に滲み出ていた。
「何のご用意ですか? 今日お見えになる方の先触れはなかったはずですが」
リーズはいつもとは違う低くて平坦な口調で訪問者に訪ねた。
するとアネッサはムッと唇を前に突き出した。とても貴族令嬢とは思えない仕草だ。
「先触れなんていらないでしょう。私はこの屋敷の主の姪で、実の娘同然なのよ」
アネッサのこの言葉にリーズは鼻で笑った。
「ティンデル侯爵ご夫妻は、貴女様を娘どころか姪だとも思っていらっしゃらないと思いますよ。
むしろ自分の娘や息子達に嫌がらせをする悪女…と認識されていますよ」
「いい加減なことを言わないでよ。そもそも伯父様と義伯母様には息子二人だけで娘なんかいないでしょ」
「いらっしゃいますよ。旦那様と奥様は十三年前にご養女をお迎えになっておられますからね」
「養女ですって? そんな話は聞いたことがないわ。誰よそれ?」
「他家の方に説明する必要はありません。お引取り願います」
「お前、失礼じゃないか? 貴族に対してその口のきき方は」
ティンデル侯爵家とは全く関係ないライアンが口出しをしてきた。
「失礼? 意味がわかりません。
私はこのティンデル侯爵家の侍女ですから、当主の命令に従うだけです。
当主からは先触れのない者は屋敷に入れてはならないと命じられています。お帰り下さい」
「それじゃあ、エミリィーをここに呼んできてよ。王都に連れて帰るから」
「何故エミリィーお嬢様が王都へ行かなくてはいけないのですか?」
「姉が妹を自分達の家へ連れ帰るのに何の問題があるの? それこそ他家には関係ないでしょ!」
妹……?
「申し訳ないですが、何か勘違いされているようですね。
エミリィーお嬢様はティンデル侯爵家の令嬢ですよ。貴女様の妹ではありません」
「? 何を言っているの? あんた頭がおかしくなったの?
エミリィーは私アネッサ=ランサムの妹よ」
「いいえ違います。お嬢様のお名前はエミリィー=ティンデルでございます。学院でもそう名乗っていらっしゃると思いますが」
アネッサは「あっ!」と声をあげた。
「あれはファミリーネームを略しているのだと思っていたわ。私のように」
「確かにこの国ではファーストネームの次に母方の姓をミドルネームにし、最後にファミリーネームというお名前の方が多いですよね。特にお貴族様には。
名乗るだけで姻族関係がわかる仕組みになっているのでしょう。
しかし、もちろんミドルネームはつけなくても問題ないし、持っていても略する者も多いようですね。貴女様のように。
貴女様のフルネームは、アネッサ=ティンデル=ランサム様でいらっしゃいましたよね? しかし普段は面倒なのでアネッサ=ランサムを名乗っていらっしゃのでしょう?
それでご自分の妹もエミリィー=ティンデル=ランサムのランサムを略していると勘違いなさっていたんですね?
しかし普通ファミリネームの方を略したりはしませんよ。どこの家の人間かわからなくなりますからね。
ですから試験の答案用紙にファミリーネームを略して記入したら、零点になりますよ」
リーズはわかりやすく、馬鹿丁寧に説明した。
彼女の話を要約すると、エミリィーは元々はランサム伯爵家の娘で、アネッサの妹だった。しかし幼少期に伯父であるティンデル侯爵家の養女になっていた、ということなのだろう。
何故姉妹なのにそんな大事なことを知らないのだろうか?
「いつ養女になったの?」
「ですから十三年前です。病弱だったエミリィー様が医師から転地療養を勧められた時ですよ。
普段からランサム伯爵夫妻は貴女様ばかり溺愛して、体の弱いエミリィーお嬢様を邪険にしていたそうですね?
だからこれ幸いと、夫人の実家であるティンデル侯爵家に預けようとなさったんですよね?
ここは自然豊かで温泉もあり、有名な保養地ですから、療養に最適だからと。
つまり育児放棄。こちらに丸投げしようとするのが見え見えでした。
そこでエミリィー様をかわいがっていらした侯爵様と奥様は、いっそのこと養女にしようと考えられたそうですよ。
保養所か託児所代わりに便利に利用された挙げ句、後から色々口出しされたり、利用されたりしたらたまったもんじゃないですからね。
そしてその旦那様の提案に簡単に乗って、これ幸いと娘を捨てたのですよ。貴女様のご両親様は。
ですから既にエミリィーお嬢様とランサム伯爵家はとうに縁が切れております。
それ故お嬢様が伯爵家へ行かねばならない理由はごさいません。どうかお引取り願います」
アネッサは一瞬黙ったが、何も関係ないライアンが喚いた。
「養女になろうがエミリィー嬢がアネッサの妹であることには違いない。姉の命令には従うべきだろう?」
するとリーズは彼らをもう見たくもないというように顔を背けながらも、彼を睥睨してこう言った。
「それでは貴方もご自分の兄上の言うことをちゃんと聞いて、いつも従っていたのでしょうね?
真面目に勉強して、生活を律して、家の手伝いをして」
「なんだと!」
ライアンがリーズの手首を掴んで力一杯自分の方へ引っ張ろうとした。その瞬間、リーズの背中というか首の下の上着の襟に隠れるようにぶら下がっていた僕は、ライアンの顔めがけて飛び付き、そこにしがみついた。
小さな両手両足を最大限に広げて。
「ウプッ!」
「キャ~!」
そして僕は両足で踏ん張りながら両手を離すと、ライアンの顔を思い切り引っ掻いた。素早く数回。
それからリーズの肩に再び飛び乗った。
「な、なんだそれは!」
「シマリスですよ、見た通り」
「俺のこの顔に傷を付けたな! 慰謝料を請求してやる! 覚えてろ!」
ライアンはヒリヒリ痛む自分の顔を両手で押さえながら叫んだが、リーズは動じることなくこう言った。
「どうぞご自由に。ただし弁護人があなたについてくれるとは到底思えませんけどね。
このシマリス人懐っこいようですが、うちのペットじゃなくて、そこの森に住んでいるんですよ。つまり野生です。
どうやって賠償を求めるんですか?」
「なんだと!」
「こんなところで喚いているより、早く病院へ行った方がいいですよ。野生動物は病気の菌を持っているものも多いそうですからね。
あっ、そこに見える病院はよしておいた方がいいですよ。侯爵家の息が掛かっていて、恐らく門前払いされると思うので」
アネッサとライアンはサーッと青褪め、停めてあった馬車に乗って、慌てて走り去って行った。
フウーッ!とリーズが大きく息を吐き出し時、正面玄関が開いてエミリィーがとても申し訳なさそうな顔で現れた。
「ごめんなさい、リーズ……
貴女を矢面に立たせてしまって」
「いいんですよ。むしろ隠れていて下さって助かりました。
お嬢様が出てこられていたらもっと面倒になっていたと思うので。きっと拉致監禁されていましたよ」
拉致監禁……怖い。どうしてそこまでしてあいつらはエミリィーを王都へ連れて行きたいのだろう?
「リーズ! その手首!
酷いわ! 痣になってるわ! 女性の手首をこんなに力一杯掴むなんてなんて乱暴な!
こちらこそ訴えて慰謝料を請求してやるわ」
エミリィーは怒りでワナワナと震えながらこう叫んだが、リーズは苦笑いをして冷静にこう言った。
「もしかしたら暴行罪で訴えられるかもしれませんが、起訴は無理ですね。
それに、慰謝料請求の方はまあ、もらえる可能性はゼロですよ。
マーシ様のお祖父様であるエレンフェスト前侯爵様が、多額の慰謝料と借金の督促をエンブリー伯爵家にしています。
ですから、こちらに支払うお金が残るとは思えませんからね」
「あ……」
エミリィーはそれを思い出して黙り込んだのだった。
その後僕はリーズの肩に乗ったまま再び屋敷の中に入り、見覚えある居間にやって来た。
「マーシ君、もう冬眠から目覚めたのね。今年の春はずいぶんと早かったから」
「この子ったら勝手に外へ出て木登りをしていたんですよ。最初は挨拶無しの恩知らずと思ったんですが、とんでもないです。
彼はとっても律儀できちんと恩を返してくれましたよ」
リーズはクスクス思い出したように笑った。
僕も少しは役に立ったことが嬉しくて、
ピロピロ……
ピロピロ……
と鳴いた。
何のことかわからないで頭を傾げているエミリィーに、リーズはさらに言葉を続けた。
「あの二人がお嬢様を王都に連れ帰りたいのは、勉強を教えて欲しいからですよね?」
「ええ。でも正確に言えば勉強を教えて欲しいというより、試験対策をしてもらいたいのよ。
試験に出そうなところをピックアップして集中して復習して、合格スレスレを狙うための対策を望んでいるの」
「しかも婚約者まで連れて来たということは、あの男の分までお嬢様に対策をさせたかったのでしょうね」
「多分そうでしょう。今までマーシ様にお願いしていたそうだから」
「本当に似た者同士だったんですね。何度も言いますが呆れて物が言えません。
自分達は授業をちゃんと受けず、勉強もせずに遊び回っていながら、ただでさえ忙しいご兄弟に自分のフォローまでさせるなんて言語道断です」
リーズが先程アネッサに対峙していた時のように、普段とは違う低くて平坦な口調で言った。
「全くよ。だからお姉様がマーシ様と婚約破棄してあの男と再婚約した時から、もう一切関わるのを止めることにしたのよ。
そうしたら年末の試験で二人揃って落第点を取ったらしいわ。
補習を受けてとりあえずなんとかなったらしいけど、姉は卒業試験で今度こそ及第点をとらないと留年して卒業できなくなるらしいわ。
そしてあの男も落第ね」
「だからあんなに必死だったんですね。でも、年末の時に懲りたのなら、何故その後自分で必死に勉強したり対策をしたりしなかったのでしょうね?」
「ああいう人達には自己反省とか改心とかいうものは存在しないのよ。まあ、周りの者がそれをしなくて済む、そんな環境を与えてきてしまったせいでもあるのでしょうけれど。
でも私はもう、たとえ実の両親や姉に強制されても従うつもりはないわ」
「当然ですよ」
当然だ……
僕はあいつの世話をするのを兄としての義務だと教え込まれて、何の疑問も持たずに利用されてきた。
しかし本当に兄弟としての情があったのなら、むしろ手助けをせずに本人が努力するように仕向けるべきだったのだろう。
けれど、彼らに情が持てるような環境に僕達はなかったんだな、きっと。
読んで下さってありがとうございました!