第七章:季節は移る
目を開けると、ツンと消毒液じみた匂いが鼻をついて、虫食いじみたトラバーチン模様の天井を背景に二つの顔が覗いていた。
「桃花」
この声は間違いなくお母さんだ。
半袖のTシャツの肩までの髪には白いものが目立ち、頬はこけて一気に十歳は老けた顔に見えるけれど。
「やっと目が覚めたのね」
こちらを見詰める両の目に潤んだ光が盛り上がった。
「お母さん」
考えるより先に掠れた声が出た。
「話せますね」
私を見下ろすもう一つの顔も安堵した風に微笑む。
これは女中の呉さんだ。
白衣を着て髪をショートボブに切り揃えてはいるけれど。
「お父さんたちは?」
部屋を見回そうとして自分の体があちこちチューブに繋がれて絡み付かれる感触に気付く。
「お父さんはおうちでお仕事してるから、今、呼ぶよ」
ほのかに石鹸の匂いのする、がさついてはいるが温かな手が私の頬を撫でる。
これは確かに元のお母さんの手だ。
自分で炊事も洗濯もして、買い出しに行って荷物も運ぶ手。
ホッとすると同時に目の前が熱く滲む。
「先生、どうもありがとうございます」
お母さんは白衣の相手に深々と白髪の目立つ頭を下げた。
何だか体も痩せたというか薄くなっちゃったみたい。
横から見たTシャツの肩にそんなことを思う。
「二ヶ月、長かったです」
車に跳ねられた日からどうやら二ヶ月経っているらしい。
まだ二ヶ月なのか、もう二ヶ月なのか。
「お嬢さんが頑張って持ちこたえたんですよ」
*****
「横浜はまだ学校休みで良かったね」
病院から出てきて見上げた空の高さ、陽射しの煌めきはもう春ではなく夏のそれだ。
風がザワザワと街路樹の濃い緑の葉を揺らして、どこか青臭い匂いを運んでくる。
事故に遭った日から二ヶ月余り。
意識を失っている間に雛祭りもゴールデンウィークも過ぎてしまった。
だが、私を含めて街を行き交う人たちはまるで新たな制服のようにマスクを着けている。
新型ウィルスによる伝染病はこの世界ではまだ収束していないのだ。
「すぐに始まるよ」
白髪頭だが幾分表情は若返ったお母さんはショルダーバッグを肩に掛け直しながら朗らかに笑った。
「山形の櫻子ちゃんはもう来週から学校始まるみたいだしな」
パンパンのボストンバッグ(二ヶ月余りも入院していると私本人は意識不明の寝た切りでも見舞いに来る両親のちょっとした物が堆積して結局、大荷物になる)を手にしたお父さんも空いた方の手で額の汗を拭いながら呟いた。
「それは私もLINEで聞いた」
“桃花ちゃん、おめでとう。本当に良かった。私は来週から学校です。また、夏休みにみんなで会いたいな”
二ヶ月の間に赤茶色のバスケットボールから家の庭で撮ったらしいまだ若緑のさくらんぼの実に変わった従妹のアイコンはそう語っていた。
「あなたももう受験生なんだからね」
お母さんの顔と声が厳しさを取り戻した。
確かにもう五月だから意識を失っている間に高二から高三に進級した計算になる。
「分かってるよ」
まだ大学に入れると決まったわけではないが、取り敢えず自分には希望する学校の試験を受けられる環境にいることが嬉しい。
私の思いをよそにお母さんは言い含める調子で続ける。
「文系でも法学部とか経済学部とか実用的な所に行ってよ」
黙ってボストンバッグを運ぶお父さんの横顔も微かに苦くなった。
両親は本当は梅香ちゃんのように理系に進んで医学部か薬学部にでも入って欲しかったようだが、私は化学式がまるでダメで文法や歴史を覚える方がよほど良いので迷わず文系のクラスに進んだ。
「ちゃんと目標決めてやるよ」
“モモ、おめでとう。本当に良かった。ずっと何もできない自分が歯痒かった”
久し振りに目にした梅香ちゃんのLINEのアイコンはディズニーアニメのアラジンとジャスミンのツーショットから変わっていなかった。
しかし、続けて送られてきた写真には艶やかなピンクの蝦夷桜が咲き誇っていた。
“今年はゴールデンウィークに入る前に近所の公園の桜が満開になったので散歩がてら撮りました”
“そこで高校の同級生に偶然再会。彼はお父さんの会社が倒産して二年生の途中で中退してからずっと連絡が取れなかった。働きながら高認を取って今年、近所の別の大学の二部に合格したとのこと”
“生きていれば人はやり直せる”
「じゃ、金田のお婆ちゃんのお葬式にはお父さんお母さんも出てないの?」
不意に前から飛び込んで来た声に我に返る。
「死んですぐ火葬にしたって連絡で私らも初めて知ったから」
「コロナが収まったらお墓参り行こう」
両親らしき人たちと連れ立って歩く、真新しいピンクのTシャツを着た長身の広い肩。
やや伸びているが真っ直ぐに立った黒髪。
背筋に電流が走る。
「張本君?」
思案するより先に声が出た。
少し前を歩いていた三人家族は一斉にこちらを振り向く。
ピンクTシャツの彼はマスクで下半分を覆った浅黒い顔の切れ上がった瞳を見開いた。
「山下さん?」
退院に当たってお母さんが病院近くのショッピングモールで買ってきてくれた空色のワンピースを着た私をまじまじと見詰める。
「私、交通事故で入院してて、今日退院したの」
「俺もコロナで入院して、今日やっと退院したんだ」
相手は寂しく笑って続ける。
「俺は助かったけど、親戚のお婆ちゃんは死んじゃった」
「そうなんだ」
高い青空を流れる雲の影が私たちの間を音もなく通り抜けていく。
「ご愁傷さま」
口に出すと、自分の声が異様にしめやかに響くのを感じた。
「退院おめでとうございます」
「ありがとうございます」
互いの両親が笑顔で頭を下げ合う中、私と中学時代の同級生はまるで初めて出会った人同士のように見詰め合う。
ザワザワと風が街路樹の枝葉を揺らす音がして、流れてきた青葉の匂いに胸の奥がどこか熱を帯びて騒ぐのを感じる。
ピンク色のTシャツを纏った彼の肩越しに、灰色の髪にシックなスーツを着た老紳士が彫り深い顔に温かな微笑を浮かべて遠ざかっていく姿が見えた。(了)