008 少女は銃を手に
着陸したロクス・アモエヌスから、二機のドールが飛び出してくる。
外部訓練に参加したのは、クラスC以上の学生と、クラスBのベテラン操者二名。
ザッシュ救出のために出撃したのは、おそらく後者だろう。
慌てた様子でガシャンガシャンと駆けていくドールをよそ目に、ガラテアはゆうゆうと戦艦に乗り込む。
格納庫でそれを見ていたクルーは複雑な表情を浮かべながらも、誘導するしかなかった。
所定の位置にガラテアを待機させると、開いたハッチからプリムラは飛び降りた。
そして着地すると、「ふぅ」と息を吐きながら髪をかきあげる。
ヘスティアはその背後でふよふよと浮遊していた。
「んー……さすがにこのかっこじゃ恥ずかしいかも」
「急に女の子らしいこと言うのね」
「わたしだって女の子だから」
三日以上も外でサバイバル生活を行っていたのだ。
プリムラの纏う学園の制服は汚れ、ほつれ、破れ――とてもではないが人前に出られるような状態ではない。
とはいえ、人目を避けて着替えることなどできるはずがない。
格納庫には、艦に搭乗していた操者を含め何十人ものギャラリーが集まっていた。
「しまったなぁ……ごめんなさい、できればあんまり見ないでくださーい」
「無理でしょう、さすがに」
「わかってる……っていうか目立つ原因はわたしだけじゃないと思うんだけど」
二人は話しながら、ひとまず格納庫を出る。
当然、人混みは彼女たちの前に立ちふさがるが、近づくと自然と道は開いた。
すでになんとなくだが、何が起きたかは彼らにも伝わっている。
フォークロアだらけの外の世界で、三日間も生き残った――その時点で異常なのだ、誰もプリムラに近づきたがらないのは当然のことだった。
まずは部屋に戻って服の調達、と行きたい所だが、あいにくこの艦にプリムラの部屋は用意されていない。
なにはともあれトップに話を付けなければなるまい。
「ところでヘスティア、その体ってどうなってるの? 見たところ、実体があるみたいだけど」
廊下を歩きながら、何気なくプリムラはヘスティアに尋ねた。
あんな戦いのあとなのに平然としているプリムラを訝しみつつも、彼女は答える。
「オリハルコンよ。ドールから一部を拝借して、体にしてるの」
「金属なんだ……そのわりには柔らかいし、暖かいんだね」
言いながら、プリムラはヘスティアのお腹を服ごしにつつく。
指先に、体温と人体の柔らかさを感じた。
「ひゃんっ!? ちょ、ちょっと、そんなとこさわらないでよっ!」
「あ、ごめんなさい」
「もう……そのあたりは私も不思議よ。でも、オリハルコンってそういう金属なんでしょう?」
「うん、最初は人間の感情に反応して人体を金属に変えてたっていうし、逆もできるってことなのかな……」
「な、なによその話、気持ち悪いわね。そんなもので自分ができてると思うと、体がむずむずしてきたわ」
そもそも死んだ自分が蘇ったことに関しては気持ち悪いと思わないのだろうか――プリムラは自分の体を抱くヘスティアを見てそんなことを考える。
「あとひとつ気になったんだけど、ヘスティアって何歳なの?」
「自分が何歳で死んだかはよく覚えてないわ、でもあなたよりはずっと年上だったわよ。魔術師ってそういうものだもの。それがどうかした?」
「どこからどう見ても年下にしか見えなかったから」
プリムラが見る限り、ヘスティアは十二、三歳程度の見た目をしている。
そんな彼女にポセイドンやアポロンなどの神は求婚したという伝説が残っているが――
「昔の人ってロリコンだったのかな……」
「中身よ、中身! まあ、よく家庭的な部分がいいとは言われてたわね」
ヘスティアは腕を組んでそう言った。
すると組んだ腕の上に、豊満な胸がふにゅりと乗っかる。
「なによ、どこ見てんのよ」
「いやぁ……なんでもないけど」
「なんでもないってこと無いでしょ、その視線は!」
不満げなヘスティア。
彼女は唇を尖らせながら、今度は逆にプリムラに対して問いかける。
「それにしてもあなた、あんなことがあったのに動揺してないのね」
「あんなことって?」
「ザッシュもそうだし、あのアリウムって子……知り合いなんじゃないの?」
「ああ、うん、そうだよ。従姉妹で、前はすっごい仲良かった」
「それなら!」
「でもわたし、特別なことをしたわけでもないから。前からずっと思ってたことを、ようやく言葉にできただけ」
「……」
「なんでヘスティアが落ち込んでるの?」
「……そういうの苦手なのよ」
「よくわからないけど、変なの」
プリムラはその話を軽く流すと、近づいてきた扉を見て少し目を細めた。
陽気な雑談もここで終わりだ。
艦橋の入り口に彼女が立つと、扉は勝手に開いた。
艦長が指示したのだろう。
遠慮なく中に踏み込んだ彼女は、堂々と艦長席に腰掛ける彼の近くに歩み寄る。
「どうも、お世話になってます艦長さん」
にっこりと笑うプリムラ。
艦長は鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「あれぇ、ボタン先生いないんですね。さっきまで艦橋にいたんですよね?」
「感情的になる人間がいると話が進まないと思ってな」
「なるほど、自分たちと違う考えの人間は“感情的”ですか。ナイスジョークですね、艦長」
「……無駄話はいい、なにが望みだ」
忌々しげに艦長は言った。
もはや彼は嫌悪感を隠しもしない。
むき出しの感情を向けられて、プリムラは実に愉快な気分である。
「別に望みなんてありませんよ」
不自然に明るい声でプリムラは答えた。
「ただわたしは、普通にしてくださいってお願いしてるだけです」
「それを具体的に話せと言っている」
「あはは、艦長はまだボケるような年齢じゃないですよね? 普通がなにかもわからないんです?」
「いいから話せ」
苛立つ艦長、嗤うプリムラ。
「いいですか、普通っていうのは、法律を無視して人を殺そうとしない、学則を捻じ曲げて退学させようとしない、検査結果を改ざんして不当に低い指数を出したり、まともじゃないアニマを与えたりもしない、そういうことを言うんです。まあ、指数とアニマに関しては結果オーライなのでこの際は目をつぶるとして――わたしはザッシュに決闘で勝利しました。これでランクはクラスEの上位ぐらいにはなったはずです。学園にもこのまま戻してくれるんですよね? 普通に」
彼女の言葉は、まったくもって正論である。
互いの同意の上での安楽死ならまだしも、犯罪者でもない人間を外に放置する行いは、たとえ誰に対してであっても罰されるべき重罪だ。
おそらくこの艦長は、指示されてやっただけなのだろう。
だが仮にこのままプリムラがコロニーに戻り、今回起きたことを全て明らかにしたとして――責任は、全て彼に押し付けられるはずだ。
その場合、執行される刑罰は、間違いなく死刑だろう。
「それとも、わたしが生きて戻ったら困ることでもあるんですか?」
プリムラは、それを全て理解した上で、艦長の前に立っている。
そこにいるのは、自らの死を恐れ、許しを求めた少女ではないのだ。
立場はすでに、逆転している。
「……く」
とはいえ、このままコロニーに戻れば、この巨大戦艦の艦長にまで上り詰めた彼の出世の道は絶たれてしまうに違いない。
苦悩する。
命と地位を天秤にかける。
そして――文字通り死に物狂いで働いてここまで来たのだ、こんな世の中を舐め腐ったガキのせいで全てを失うことなどあってはならない――そんな結論を出したのだろう。
懐に手を入れ、忍ばせてあったハンドガンを握り、銃口をプリムラに向ける。
ヘスティアやクルーたちに緊張が走った。
「ああ、そうだ。お前が生きて帰ると私が困る。他にも困る人間が何人もいる」
「そんなものがわたしの命より重いって言うんですか?」
「当然だ。社会の底辺で地面を舐めているお前に、一体どれだけの価値があると言うのか!」
「ザッシュも似たようなこと言ってました」
「まだ子供であるお前に、普通ではない人間が普通を望むことがどれだけ身の程知らずか理解しろ、というのは酷かもしれない。だがな、理解はできずとも納得しなければならないことだってある。それが軍や操者の――大人の世界なのだ、プリムラ・シフォーディ!」
誰もが、勝手にプリムラの命を価値を決めるのだ。
口では命は平等だとか偉そうなことを言っておいて、そういう人間ほど都合が悪くなると勝手に価値を変動させる。
だが彼女は、それも仕方のないことだと受け入れていた。
そんな理不尽がまかり通るのが世の中だと、身をもって知っているからだ。
だからこそ――プリムラはガラテアを求めたのだが。
「ふふふ……わたし、思うんですよね、人って言うほど子供の頃から成長なんてしてないって。ただ目上の人間が減って誰も怒らなくなったし、怒ってくる相手も力で押しつぶせるから、自分が成長したって錯覚してるだけなんだって」
「なにが言いた……ぐぁっ!?」
プリムラは艦長の金色の髪を鷲掴みにして、椅子の背もたれに押し付けた。
そして至近距離まで顔を近づけると、睨みつけながら言い放つ。
「大人って言っときゃなんでも正当化できると思ってんじゃねえよ」
遮蔽するものなどなにもなく、直に叩きつけられる殺気。
艦長の喉がごくりと上下する。
「人のことあーだーこーだ言うくせに、証拠はでっちあげるわ人殺しはするわ、てめえらのほうが満場一致で真っ黒の大犯罪者じゃねえか! 挙句の果てには都合が悪くなったら銃なんて持ち出しやがってよぉ。十五歳の小娘に、いい年した大人がやることか? 駄々こねる子供のほうがまだ可愛げがあるってもんだよなぁ、あぁ!?」
言動はチンピラそのものだが、それをプリムラのような大人しそうな少女が発すると、異様な圧迫感が生まれる。
艦長は自ら突きつけた銃口が、彼女の胸に当たっていることさえも気づいていなかった。
「撃ちたいなら撃てよ。大人様の力でわたしを殺してみればいい、できるもんならな」
挑発されている。
すっかり空気に呑まれていた艦長は、それを確信したときようやく正気を取り戻した。
そしてふつふつと、怒りが湧き上がってくる。
なぜ自分は、明らかに格下の、コロニー内での地位だって低い少女に小馬鹿にされなければならないのか。
艦長として、大人としてのプライドが、それを許さなかった。
「軍人を舐めるな……」
そもそも最初に銃口を向けたのは自分だということもすっかり忘れて、彼は憤る。
「どうやら私が撃たないと思っているようだな。しかしコロニーの秩序のためならば、子供の一人や二人程度、平然と殺してみせよう! それが大人としての責務というものだ!」
艦長に葛藤などはなかった。
少なくとも彼にとって、目の前の少女は人一人分の命も価値もない。
身内だらけのこの艦なら、ボタンさえどうにか口封じをすれば殺害はもみ消せるはずなのだから。
引き金に乗せた指に力を込める。
タァンッ、と乾いた銃声が艦橋に響き渡った。
その後、時が止まったように空間が静まり返り、誰も身動きが取れない。
プリムラは――こてん、と首を傾げた。
誰もがそれを見たとき、『あぁ、このまま倒れるんだろうな』と想像した。
ちょっとドールを動かせるようになったからと言って、ただの少女が軍人相手に駆け引きするなど、無謀だったのだ――と。
しかしそのまま、プリムラは動かない。
首を傾げたまま、不思議そうな顔をして艦長を見ている。
「……?」
艦長もまた、疑問を抱く。
服の内側に収まる程度の大きさしか無い銃だが、いくら操者の肉体が丈夫でも、この距離で無傷ということはありえない。
さらに銃弾は体内に入り込むと花開き、留まりながら傷を広げる。
そんな代物なのだ。
生身に命中すれば、まず衝撃で体が浮き上がるはず。
プリムラが、まるで“なにも起きなかった”かのようにそこに立っているのは、明らかにおかしい。
「ふ……ふふっ……くふふふ……あははははははっ!」
かと思えば、彼女は笑いだした。
片手で顔を覆い、もう一方の手で腹を抱えながら、ゲラゲラと。
「はははっ……はぁ、もう、撃たれるんだろうなぁとは思ってたけど……いやぁ……ふふっ、結構、面白いリアクションするんですね」
「無傷なのか……化物め!」
「化物はそっちでしょう。艦長さん、いま自分がなにをしたのかわかってます? 証拠隠滅のためだかなんだか知りませんけど、わたしを殺そうとしたんですよ?」
「それで生き残るお前だからこそ殺そうとしたのだ!」
艦長は銃を構え、さらに数発の銃弾を続けざまに撃ち込む。
だがそれは全て、プリムラの作り出した障壁によって止められ、力を失い地面に落ちた。
「なぜだ、なぜ届かん!」
魔術によるものだが――それを説明する義務はプリムラにはない。
焦った様子でさらに発砲しようとする艦長を、彼女は余裕をもって眺めている。
「そうまでして殺したいんですか、わたしのこと」
「当たり前だッ! この、このぉっ!」
その答えに、プリムラはさすがに笑えなくなったのか、「はあぁ」と大きくため息をつく。
一応彼女も、対話をするつもりはあったのだ。
艦長に責任はない、ザッシュも自然と怪我をしただけ。
そうやって納めれば、少なくとも艦長に関しては、軍内部での立場が悪くなる程度で済むだろうと思って。
確かに彼はプリムラから見てもクソッタレだが、命令を下したのは別の誰かだ。
魔術が失われた現代において、コロニーに戻ったあと、誰にも気づかれないよう殺すのは簡単だが、それをしたって対してプリムラの気は晴れない。
だから穏便に――そう、できるだけ穏やかに済ませようと思ったのだが――
「来るな……来るなっ……!」
(この手の男の人って、なんで追い詰められると似たような反応するんだろう。だいたい、本来なら怯えるのは銃を向けられてるわたしのほうだと思うんだけどな)
そんなことを考えながら、プリムラは艦長に近づき、彼の首に手を当てた。
そして指先から魔力を放出し、発生させた熱によって紋様のようなものを刻む。
「づっ……!?」
大した痛みではない。
だがそれがプリムラから与えられたものという事実が、彼の恐怖を際限なく膨張させる。
艦長は、まるで死毒にでも侵されたようにぎょろりと目を見開き、自分の首に触れた。
かすかな凹凸。
刻まれた印は、どこか魔法陣に似ている。
「艦長さん、それは呪いです」
しゃがんで、艦長と視線を合わせるプリムラ。
先ほどよりも優しいその声が、今は余計に恐ろしい。
「わたしはどこにいても、なにをしていても、あなたのことを見ています。そしてどこにいても、なにをしていても、あなたを殺すことができます。意味、わかりますか?」
理解はしていた。
しかし受け入れがたい事実を前に、彼は脂汗を額にじっとりと浮かべながら首を激しく左右に振る。
「わかりました、それでは簡潔に言います」
プリムラは耳に顔を近づけ、囁いた。
「死にたくなけりゃ余計なことはするな」
「う……」
カタカタと震える体。
答えは無いが、あえて聞かなくてもいい。
その顔だけで、十分伝わってきた。
少女は立ち上がり、その様子を目撃したクルーたちに宣言する。
「あなたがたも同じです。彼と同じ呪いはかけていませんが、ここで起きたことは誰にも話さないでくださいね。できれば、痛くしたくはありませんから」
あえて、どうするのかは言わなかった。
だが、その意図は嫌というほど理解できたはずだ。
怯え、こわばる彼らの顔をぐるりと見渡したプリムラは満足げに頷くと、近くにいた女性のオペレーターに声をかける。
「すいません、部屋と着替えを用意してもらえませんか? この格好はさすがに恥ずかしいので」
「は……はひっ……」
この場の支配権は、すでにプリムラの手の中にある。
オペレーターは一切逆らわず、従順に彼女を部屋へと案内した。
◇◇◇
「おおぉ……」
ベッドに腰掛けたプリムラは、体を上下させその弾力を確かめると、思わず声をあげた。
「おおぉぉ……! 戦艦の中なのにこんなゴージャスなベッドがあるなんて。貴賓室ってやつなのかな? いやあ、言ってみるもんだよね」
案内されたのは、ベッドだけでなく内装もホテルのスイートルームじみた、やけに豪華な部屋だった。
おそらく軍や政治家が乗艦した際、泊まるために作られた場所なのだろう。
そこではしゃぐプリムラを、ヘスティアは若干距離を取りながら見ている。
「ねえ、プリムラ」
「うん? どうしたの、ヘスティア」
「さっきの呪いっていうの、本当なの? 障壁はともかく、私の知る限り、そこまで都合のいい魔術は無かったと思うのだけれど。ガラテアはそんなものまで生み出していたの?」
「いいや、嘘だよ」
「へっ? う、嘘なの!? そんなデタラメを、あんな場面で堂々と!?」
目をまん丸くして驚くヘスティアに、プリムラは思わず肩を震わせて笑う。
その笑顔は先ほどまでとは違い、年相応の、少女らしい表情だった。
「あの雰囲気だったら行けるかな、と思ったの。そしたら思ってた以上にうまくいって。いやあ、笑うの我慢するの大変だったよぉ」
「あ……あなた、とんでもない度胸ね……」
「そこら辺はガラテアのおかげかな。すっごく空気が読めない人だったんだよね?」
「確かにそうね、良くも悪くも――いや、ほぼ悪い部分しかなかったけれど、確かに空気は読まなかったわ」
ガラテアは他人を無価値だと考えていた。
だからこそ、自分の好奇心を満たすためだけに実験台に使うことができたのだ。
そんな人間が、空気を読むなどという殊勝な真似をするわけがない。
「プリムラ、あなたはガラテアの人格を拒んで、魔力だけを受け入れることもできたの?」
「えっと……とりあえず座らない? 浮かんでると落ち着かないから」
「わかったわ。隣、失礼するわね」
「どうぞ」
肩が触れる距離に、ぽふっと座るヘスティア。
「……ん」
「自分で呼んだくせになんで気まずそうにしてるのよ」
「なんか、こんな近い距離で誰かと話すの、すっごく久しぶりだなと思って」
おそらくここ数年はなかったはずだ。
上に乗られたことはあったが。
「……ねえ、プリムラ。あなたって、いい子よね」
「今日のあれこれ見てそんな言葉が出てくるなんて」
「元々は、よ。普通に優しくて、普通にみんなに好かれて、そういう子なんだなって印象なの」
プリムラにはわからない。
人格はゼロから生まれてくるわけではないのだから。
他人からひたすら罵倒され、蔑まれてきた人間なら、それなりにネガティブな性格になるだろう。
そうなるとさらに“卑屈”だの“根暗”だのと馬鹿にされ、さらに負の連鎖が繋がっていく。
そうやって、ガラテアを受け入れる前のプリムラは完成したのである。
「例の事件さえ無ければ、きっと幸せに暮らしてたんでしょうね」
「なにが言いたいの?」
「さっきも言った通りよ。そんなあなたが、どうしてガラテアの人格を受け入れて、自分自身を歪めるようなことをしたのか。それが不思議でならなかったの」
「そんなに不思議かな。人間だったら、誰だってそうすると思う」
「誰だって……では無いんじゃないかしら。きっと、そこまで追い詰められたら、諦めて自らの命を絶つ人のほうがずっと多いわ。でもあなたは……きっと、ずっと悔しいと思っていたんでしょうね、ご両親のことはもちろん、今日に至るまでの色んな出来事も、全部。だから生き残ることを選んだ。そこまではわかるのよ」
しかしガラテアを受け入れた理由がわからない、と――ヘスティアはそれを聞きたいようだ。
「人は簡単には変われないから」
問いに対し、プリムラはそう答えた。
「変わるって簡単なことじゃない。ましてや、ひとりぼっちならなおさら。人格って、周囲の影響を受けて形成されるものだから、『変わりたい』って思っても変われないんだよ。時間をかけず、すぐに変わりたいと思うんなら、なんらかの“劇薬”が必要になる」
「それがガラテアだったってこと?」
「うん、わたしにとってはそうだった。そして人が簡単に変わらないことを知っているから、わたしはザッシュに対してあそこまでやった。でないと、あいつはずっとわたしを見下し続けるはずだから」
復讐など考えないほど徹底的に、二度と自分のことを見下せないほど執拗に、力でねじ伏せる。
それは残酷な行いではなく、プリムラが『必要だ』と思った上で実行したことである。
「変えたいなら、やりすぎるぐらいでちょうどいいの」
時間の猶予があれば、劇薬など必要ないのかもしれない。
できればプリムラだって、本物の殺人鬼の魂を受け入れたりはしたくなかった。
だけどそれぐらいしなければ、彼女を取り巻く世界は変わろうとしなかったから。
たとえ傷つく人がいたとしても、仕方なく。
誰が不利益を被るとしても、前もって止めなかったお前が悪い。
それで死ぬ人間がいたのなら、ただの因果応報だ。
プリムラはうつむき、両手を重ね、強く握りしめる。
ザッシュに潰された左腕には、まだ痛みが残っている。
その感覚が、彼女の残酷な想像力を沸き立たせた。
脳内を巡る、赤い未来予想図。
いかにして壊し、切り裂き、かっさばいて全てを暴くのか。
コロニーに暮らす人間たちは、ほぼ全員が加害者と言ってもいい。
ゆえに、できるだけ多くの人間が傷つく方法を。
自分の人生が他人の都合で捻じ曲げられたように、今度は自分の都合で他人の人生を捻じ曲げるのだ。
計画する、妄想する、イメージする。
気づけばプリムラの目は血走り、噛んだ唇から一筋の血が流れ出していた。
そんな彼女の体を――柔らかく、温かな感触が包み込む。
「あんまり、無茶はしちゃダメよ」
ヘスティアはまるで母のように語りかけた。
「変わるってね、とっても疲れることだと思うのよ。いつもの自分じゃなくなるんだから、ただそれだけですっごいエネルギーを消耗していくと思う。せっかく頑張って変えても、あなたが壊れてしまったのでは意味がないわ」
優しく慈しみ、心の氷を溶かすように。
プリムラの胸で燃え上がろうとしていた黒い炎はすっかり小さくなり、毒気を抜かれた彼女は思わず「はぁ……あはは」とため息をして苦笑する。
「なんで苦笑いしてるの……?」
「ヘスティアがモテてた理由、少しわかった気がしたから」
そこまで言われてもヘスティア自身には自覚がないらしく、「なんで今のでわかるの?」と頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。