035 鏡像姉妹コンプレックス
コロニーに夜が訪れる。
僻地にある、数年前から使われていない廃工場――そこにセイカたちと、合流したフィエナの姿があった。
設備はほとんど撤去されており、ただただ広いその空間で、彼女たちは互いに情報を交換する。
「ダメですね、ルプスさんからの反応はありません」
「そうですか……」
唇を噛むフィエナ。
ヘスティアやハデスも同様に暗い表情であった。
ザッシュの家から出たあと、ルプスはコロニー中央にある軍警察本部に向かい――ほどなくして、そこは爆発炎上した。
コロニーはさらなる混乱の渦に巻き込まれる。
ルドガー大統領は非常事態を宣言し、軍に対処させることを発表したが、なおも騒動は収まっていない。
「プリムラさんとのたちの状況はどうなっていますの?」
「簡単なやり取りだけだけど、『どこにいる?』って聞いたら『コロニーに似た場所』って返ってきたわ。あと、たくさんの化物がいて自由に動けないそうよ」
「ラスファについては……」
妹のことを気にするフィエナだが、ヘスティアから彼女に言えることはなにも無かった。
「一緒にいるのはアリウムだけでぇ、他の人たちはどこいるかわかんないらしいよー」
「そう……でもあの子は強いから、きっと大丈夫ですわね」
自分に言い聞かせるように呟くフィエナ。
セイカはそんな彼女の様子をじっと見つめる。
(なんでこの雰囲気で、ラスファさんと仲が悪いんでしょうねぇ……)
今のフィエナは、どこからどう見ても良き姉だ。
体が弱く、多少無理をしているのか今も若干顔が青ざめているものの――それが二人の仲に悪影響をもたらしているというのか。
はたまた、別の理由が存在するのか。
(なんとなくですが、ここの姉妹も訳ありな感じがします。なんたって、あのデルフィニアインダストリーの令嬢ですからね)
むしろ、なにもないほうがおかしい。
ラスファが帰ってきたら、調べてみるのもいいかもしれない。
だがその前に、彼女たちを救出せねばならないのだ。
コロニーに似た謎の空間で、化物に追われるプリムラたち。
しかもドールすらなく、ほぼ丸腰である。
魔術が使えるプリムラはとにかく、アリウムやラスファ、フォルミィは自らの身体能力のみで戦わねばならない。
その化物がどういった存在なのか、詳細を聞くことはできないが、自由に動けないということは、抗える相手ではないのだろう。
だからセイカはこう考える。
今の彼女たちに必要なのは、強力な“武器”なのだと。
「それで今後の動きなんですが、私にちょっと試してみたいことがあるんです。うまくいけば、ラスファさんたちの力になれるかもしれません」
「セイカ、そんなことできるの?」
「ヘスティアさん、私も操者ってことを忘れてませんか? まあ、そのためにはヘスティアさんとハデスさんの力を借りないといけませんが」
「私もなんだぁ」
あまり興味が無さそうなハデス。
しかし拒む様子もない。
「ずばり、プリムラさんの“座標”を算出してほしいんです」
「座標……? なんでそんなものを?」
「そのあたりの説明はあとでしますから。お二人とも、プリムラさんの位置は感覚でわかるって言ってましたよね。どうにかして、それを数値化できませんかね」
ヘスティアとハデスは魔術師だ。
それは同時に研究者であるということを意味する。
「……無理、ではないかなぁ。ヘスティアと私が力を合わせればー、うーん……明日の昼までにはなんとかー」
「昼、ですか。かなりかかりますね」
「それでも早く見積もったほうだよー」
「プリムラたちがいる場所……おそらく平行世界の類だとは思うけど、私たちにとっても未知の領域だもの。実際、昼だって間に合うかわからないわ」
「それまでなんとか堪えてもらうしかないですね……」
三人の話を、フィエナはじっと黙って聞いていた。
そして彼女は顎に手を当てると、目を細めてなにかを考え込む。
そのまま、神妙な表情で背後に待機する黒服に呼びかけた。
「黒服、オリハルコンをここに」
「うぃーっす」
言われるがまま、三人の黒服は工場の外に停めてあるシャトルへと向かった。
「フィエナさん、なんのためにオリハルコンなんて持ってきたんです?」
「アニマの気配を感じましたの」
「私たちのことじゃないの?」
「いいえ、別の子ですわ。あなたたちがここにいるということは、彼女も取り残されているはずなのですから。そうですわよね、ディアナ?」
少し大きめの音量でその名を呼ぶと、工場に声が響き渡る。
すぐに反応はなかったが、黒服が白いオリハルコン塊を運び込んでくると、すぐに金属はぐにゃりと形を変え、人の姿になっていく。
「ディアナって、ラスファさんのアニマじゃないですか。じゃあ、彼女も――」
「そう、ラスファもいわゆる“呪われた子”ですわ。ですがわたくしはその呼び方、大嫌いですの」
フィエナたちの目の前に現れたのは、ヘスティアと同じような白い衣を纏った金髪の少女。
年齢は十代半ばほどに見える。
髪は長く、腰のあたりまで伸びており、前髪も長めで目が完全に隠れてしまっている。
やせ細った体型と相まって、全体的に暗そうな雰囲気を感じる。
「……偽善者」
ディアナは、前髪の下から微かに見える瞳で、フィエナをにらみつけた。
「綺麗事をどんなに並べたってお前にとってラスファは道具でしかない。いつだってそうだった。お前はよく姉様に似ている」
「相変わらずの嫌われようですわね。父がどう思おうと、わたくしにとってラスファは妹ですわ」
「だったら家を出ればいい」
「このコロニーに居て、デルフィニアインダストリーと関わりを持たずに生きるのは不可能ですわ」
「なら、お前が死ねばいい」
「そうですわね、それも悪くはないかもしれませんわ」
姿を表すなり、フィエナと険悪なムードを漂わせるディアナ。
「あ、あの……」
セイカを始め、ヘスティアとハデスも戸惑いを隠せない。
「申し訳ありませんわね。見ての通り、彼女とわたくしはとても仲が悪いのです」
「フィエナのアニマがアルテミスだから、ってことね」
「……ヘスティア、相変わらず人に好かれてそうなやつ。死ねばいいのに」
「挨拶代わりに死ねとかいうのはやめなさい」
ヘスティアとディアナは、顔見知り程度の知り合いだ。
元よりディアナがあまり外に出ないから、という理由でもあるのだが。
「前から思ってたんですけど、アルテミスとディアナって同一人物だって言われてましたよね。でも実際は別人だった……なんでそんなことになってるんです?」
セイカが何気なくそう問いかけると、ディアナは憎悪を全開にして彼女をにらむ。
殺気すら感じさせるその勢いに、思わず「おおう」とたじろぐセイカ。
「地雷を踏んだねぇ」
「へ?」
「実際は姉のアルテミスと妹のディアナ、二人で魔術の研究を重ねていたそうですわ。ですが後世に名を残したのはアルテミスだけだった……」
「姉様はいつだって私から全てを奪っていく。私の存在を上塗りして、私をみんなの記憶から消してしまう」
アルテミスは、ディアナよりも優秀だった。
長所も短所も同じで、得意分野も全く同じ、なのにアルテミスのほうが全て優れているから――いつだって賞賛を浴びるのは、姉のほうだったのだ。
ディアナはひたすら陽の当たらない場所で、膝を抱え続けた。
「わたくしへの憎悪は甘んじて受け入れますわ。ですがディアナ、あなたとてラスファを救いたいと思っているはずです」
「……そんなの当たり前」
「ラスファさんとの関係は良好なんですね」
「ラスファは、私と一緒だから」
言いながら、再びフィエナをにらむディアナ。
アルテミスとディアナの関係がそうだったように、未だクラスCのラスファは、それでも十分に優秀ではあるのだが、姉と比べられて“落ちこぼれ”と言われることがよくある。
自覚の有無の問題ではない。
姉という存在そのものが、劣等感の源泉――それゆえに、妹想いの姉であればあるほど逆効果であった。
「だからフィエナは気に食わないけど、私がこうして呼ばれた理由はわかってる。座標の算出に協力すればいいんだよね」
「三人なら、午前中で終わるかもねぇ」
「ハデス、さっきからあなた適当に言ってない……?」
「ざっくりそれぐらいかなぁ、って目処は立ってるよ。でもそのためには、落ち着ける場所が必要かなー」
「でしたら、デルフィニア家が所有する物件へ案内しますわ。多少はここより安全でしょうから。黒服、あなたたちはこのあと、シャトルで南の別荘まで彼女たちを案内なさい」
それぞれに相槌を打つ黒服たち。
しかしその前に、ディアナにはやってもらわなければならないことがあった。
「ねえねえ、ディアナがここにいたってことはー、主であるラスファも近くにいるってことだよねぇ?」
「確かにラスファは、近くにいる。ここにはいないけど。でも……当たったからって、調子に乗らないでねフィエナ」
「なんでそこでフィエナさんが調子に乗るなんて話になるんです?」
セイカはそう言ってフィエナとディアナを交互に見る。
「幼い頃、この廃工場でわたくしとラスファは遊んだことがあるのです。元はデルフィニアインダストリー所有の工場でしたから」
寂しそうにフィエナは言った。
まだ姉妹が仲の良かった頃の話か。
あるいは、数少ない姉妹らしい思い出なのか――
そういう記憶があったから、ラスファは化物から逃げ込む先にこの場所を選んだのではないか――フィエナがそう考えるのは決して不自然ではない。
「はあ、それでここを……連続して地雷を踏むようで申し訳ないんですけど、実はラスファさんとフィエナさんって仲いいんじゃないですか?」
「……」
黙り込み、唇を噛むフィエナ。
どうやら、かなり込み入った事情がありそうだ。
(ラスファさんも呪われた子、ですか。プリムラさんもカズキ先輩も家族関係がワケありでしたね。やはり“呪い”というのは出生にまつわる言葉のようですね)
セイカは考えながらも、それ以上の質問は重ねなかった。
記者としての好奇心はあるが、今は他に優先すべきことがある。
「まあ、そのあたりの話は後にしましょうよ。私たちはプリムラにラスファたちの位置を伝えるわ。ディアナはラスファに、その場所に留まるよう伝えてもらってもいいかしら?」
「どうやって伝えるの?」
ヘスティアとハデスは、ディアナにその方法を教えた。
幸い、廃工場内の空間は広い。
他の場所でちょこまかと動き回るより、わかりやすく“文字”を伝えることができそうだ。
三人のアニマたちが主とコンタクトを図る中、フィエナはセイカに尋ねる。
「セイカさん、あなたはこのあとどこへ向かうつもりなのですか?」
「私はザッシュの捜索を続けようと思います」
「夜は危険ですわよ」
「逃げ足は早いですから。そのあと、座標の算出が終わり次第、学園に向かってドールを取りに行くつもりです。フィエナさんはどうするんですか?」
「わたくしは――」
フィエナは工場の入口を見つめ、目を細めた。
「ザッシュ・エディアンを探す、と言いたいところですが、クラスSのわたくしが出歩けばどうしても目立ってしまいます。デコイにでもなったほうがよさそうですわね」
「まだ敵は来ますか」
「来るでしょうね。軍警察が襲撃を受けたということは、『まだまだコロニーを混乱させるぞ』と宣言したようなものでしょうから」
「あのドールも、出てきますかね。そもそも、使い捨てるほど操者がいるとも思えませんが」
「あれを操っているのは操者ではありませんわ」
「え……? じゃあどうやってドールを動かしてるんです?」
「わたくしも噂を聞いた程度ですが、おそらくあれは“人工アニマ”を一般人に宿らせたものだと思われます」
「人工……アニマって魂ですよ? そんなものを作ったって言うんですか!?」
声を荒らげるセイカ。
それはあまりに冒涜的な発明であった。
「この世界において、過去に偉業を成し遂げた者は、死後“魂の保管領域”に魂が残されます。いわば、アニマとは――いえ、“魂”とは言ってしまえばデータのようなものなのですわ」
「だから、作れると? でも、操者になれるのは適性指数の高い人間だけです。その辺の一般人に適当にアニマを付けたところで、戦う力なんて得られませんよ」
「なぜ指数の低い人間は操者になれないのか。それは“魂の器”が自分の魂を満たすだけで精一杯だからです。指数が120ならば、20%の他者の魂しか受け入れられない。ですが、逆に言えば――どんな人間でも、100の器は持っているはずではないでしょうか」
フィエナの説明を聞いて、セイカの頭に一つの可能性が浮かぶ。
だがしかし、それが事実とするならば、人工アニマなど目ではないほど冒涜的だ。
確かに教団は人の命をゴミのように扱っているが、よもやそこまで徹底しているとは――
「本人の魂を除去して、器を人工アニマで満たす……」
「ご明察ですわ」
「頭が痛くなってきました……なんなんですかそれ。そこまでして、人間を殺したいんですか!?」
「わたくしも、教団の目的はわかりません。ですが、あれを許してはならないことだけはわかります」
静かな怒り。
フィエナが宿すその感情を、セイカも共有する。
人には夢がある。
大なり小なり、ある人は世界征服を望むかもしれないし、ある人は明日の休みを夢見るかもしれない。
しかし教団は、それらあらゆる夢に対しての敵だ。
それを知れば、誰しもがその危険性を理解し、打倒するために動き出すだろう。
「抗いましょう、未来のために」
「ええ、死なない程度にがんばりますよ。教団と戦うにしても、それは生きるためなんですから」
フィエナはともかくとして、セイカはまだまだ命を賭けるつもりなどない。
そのあたりの引き際はわきまえている――つもり、だった。
二人の会話が一段落すると、後ろで控えていた黒服のうちの一人がフィエナに近づいた。
そしてセイカに聞こえないよう小さな声で、彼女に尋ねる。
「お嬢様、お体のほうは……」
先程の会話を聞いて不安になったのだろう。
フィエナがこれまで表舞台に姿を表さなかったのは、心臓の病のせいだ。
それは今だって治っていないし、実を言えば彼女自身、自分の体にガタが来ているのを感じていた。
だが自らの身を案じる黒服の言葉に、フィエナは優しく微笑む。
「問題ありませんわ。どうせいずれは尽きる命。ラスファに危機が迫っている今こそが、それを燃やすべき時ですから」
遠回しに無理をしていると言っているようなものだ。
黒服は不安げだったが、相手は上司である。
それ以上はなにも言えず、引き下がるしかなかった。
◇◇◇
異空間の夜はさらに更けていく。
時計がないため正確な時間は確かめようがないが、感覚からして今は“深夜”だとラスファは推察していた。
かつて姉と遊んだ覚えのある、廃工場のようななにか。
ラスファは気づけば、フォルミィやアトカーたちと一緒にここに逃げ込んでいた。
コロニーのほうでも、廃工場には人がいなかった。
つまりここには、あの化物の出入りも無い。
夜になる前に、ここに逃げ込めたのは幸いだった。
もっとも、本当は外が暗くなる前にルビーローズ邸に戻るつもりだったのだが。
「ラスファ、寝ないでいいのかー?」
フォルミィがいきなり背後から抱きついて言った。
「離れなさいっ」
振りほどくラスファ。
フォルミィはあっさり離れてくれたが、「んへへ」と笑いまったく反省した様子はない。
「思ったより元気みたいだな、安心したぞ」
性懲りもなく、今度はぴたりとくっついて隣に座るフォルミィ。
ラスファは「はぁ」とため息をついて、抵抗するのをやめた。
「あの二人を守らなくてはなりませんもの。落ち込んでる暇なんてありませんわ」
「そうは言うけど、あんな化物を見たら誰だって辛いと思うぞ。逃げてるときはあたしもしんどかったからな」
「……そうですわね」
あまり他者に弱みを見せないラスファだが、今ばかりは素直に認めるしかなかった。
「わけがわかりませんわ。この状況も、この場所も。化物だけでなく、“赤”に触ってはダメだとか、理不尽な罠が多すぎますわ」
「あの化物を殴り飛ばしたおかげで気づけたもんなあ」
「おかげと言うより、不幸中の幸いでしょう。まさか素手で殴りかかるなんて馬鹿げたことをするとは思いませんでしたわよ」
「体が勝手に動いたんだ、仕方ないだろー」
ラスファはまだ叱ってやりたい気分だったが、口をつぐむ。
フォルミィが化物に殴りかかったのは、ラスファを守るためだった。
命の危険を犯してでも自分を救おうとしてくれた――少なくともその事実は、嬉しかったのだ。
「……アトカー議員と奥さんは、ちゃんと眠ってますの?」
「ぐっすり……かどうかはわからないが、眠ってはいるみたいだぞ。今日は疲れただろうからな」
「ならよかったですわ。明日も死ぬほど疲れるでしょうから、今のうちに体力を回復してもらわないと」
「それはラスファも同じじゃないのか。見張りはあたしが変わるから、少しでも眠るべきだ」
「このままで構いませんわ、どうせ眠れませんもの」
異様に目が冴えている。
恐怖により、極度の緊張状態にあるからか。
なまじ身体能力が高いばかりに、ルビーローズ夫妻のように疲労が緊張を上回っていないのだ。
「そうか、なら仕方ないな」
「あなたは寝なさい」
「ラスファが起きてるのに眠れるわけないだろ」
「理屈がわかりませんわ」
「あたしはラスファが好きだからな」
「余計に理解不能ですわ」
「共有したいんだよ、色んなものを」
「そういうの、余計なお世話って言いますのよ」
「あたしも自分が厚かましいってのはわかってるぞ。でも、ラスファにはそういうのが必要だと思うんだ」
フォルミィは、デリカシーが無い。
ラスファのプライベートにもズカズカと踏み込んできて、好き放題に荒らしていく。
おかげで、絶対に誰にも譲らないと思っていた心の一部が、彼女に占拠されてしまっていた。
「なあラスファ、一人は寂しいぞ?」
「一人は気楽ですわ。他人が呪いに巻き込まれるのを見なくていいのですから」
「やっぱり、ラスファもプリムラと同じか」
「……気づいていましたの?」
「なんとなくはな」
「わたくし、フォルミィのことを馬鹿だと思っていましたが、違うようですわね」
「こう見えてもそこそこ頭はいいぞ」
「ええ、ですから阿呆に改めますわ」
「なぜだかわからないが、馬鹿のほうがまだマシな気がするな!」
「では馬鹿のままで」
「まんまと乗せられた気がするぞ……」
「ふふ、フォルミィは馬鹿ですから、しかたありませんわ」
ラスファの表情がほころぶと、フォルミィも嬉しくなった。
いや、馬鹿と言われたことは決して嬉しくないのだが。
「あたしはな、別に呪いなんて存在しないと思ってる」
「ありますわ。わたくしと姉の関係なんて、呪いそのものではないですか。プリムラの家族の死も、呪いがもたらしたもの」
「それは違う。呪いの正体は、人の心のあり方だ。例えばあたしは、ラスファはラスファだから好きだ。フィエナさんは立派な人だと思うが、ラスファのほうがナンバーワンだ」
「あなたが馬鹿だからですわ」
「なら人間はもっと馬鹿になるべきだ。深く考えず、周囲の声なんて聞かずに、まっすぐに自分の信じる道をいけばいい」
「誰もが……そんな風に愚直に生きられたらよかったですわね」
「無理か?」
「無理ですわ。特にわたくしみたいなひねくれた人間は」
「損なだけだと思うけどなぁ。もっと素直になればいいんだ、みんな。どうせ終わる直前に、後悔することになるんだから」
親に伝えたいことがあった。
テストでいい点数を取った。
あの子とした話が面白かった。
お父さんのあれをやめてほしい。
実は苦手な料理がある。
でも毎日作ってくれてありがとう。
あたしを生んでくれてありがとう。
ありがとう、ありがとう。
大好き。
何気ない日常の中で伝えられるはずだった。
だから、『明日でもいい』と思った。
けれどその“明日”は、ある日突然、消えてなくなったのだ。
人間大の、二つ並んだてるてる坊主。
青くうっ血した顔。
垂れ流される排泄物。
あの日から、心に振り続ける雨は止まない――
だからせめて、自分の心ぐらいはいつも輝けるように、と。
二人の弟たちにとっての太陽になれるように、と。
そして――ラスファの呪いを晴らせる光であれ、と。
「人の心っていうのは、なかなか難しいな」
「あなたが真面目なことを言っていると不安になってきますわ」
「それはさすがにバカにしすぎじゃないか?」
「いいえこれぐらいでちょうどいいですわ、あなたはとびきりの馬鹿ですもの」
「馬鹿も極めれば一芸に……」
「なりませんわ」
「容赦ないな! ロイヤルバカって言えばなんかすごそうに聞こえないか?」
「聞こえませんわね」
「取り付く島もないな……」
「別に、あなたはそのままでいいと思いますわよ。わたくし、なんだかんだ言ってあなたの馬鹿に何度か救われていますもの」
「そっか、ならこのままで……ん?」
なにか珍しい言葉を聞いたような気がして、フォルミィはラスファをじっと観察した。
彼女の耳は、いちごのように赤い。
隠しているつもりなのか、そっぽを向いているので表情はわからないが――その耳が全てを語っている。
フォルミィは無性に嬉しくなって、はにかみながら言った。
「そっか。ならあたしは、頑張ってバカでいなきゃな」
こういう状況でも馬鹿で居続けるのは、存外に難しい。
だからこそ、それはフォルミィにしかできない役割なのだ。
両親が死に、弟たちが沈む中、必死に明るく振る舞って元気づけようとしたあのときのように――彼女には、いかなる状況でも馬鹿でいられる強さがある。
フォルミィはあまりの嬉しさに、ラスファに寄りかかる。
いつもなら鬱陶しそうに離れるラスファだが、今日ばかりは心なしか、彼女のほうからも寄りかかっていた。
人の体温の、なんと心地よいことか。
長いこと感じていなかった。
デルフィニア家において、母は早くに死んでしまったし、姉とは家族として触れ合ってはならなかったし、父にいたってはラスファを家族だと認識すらしていなかったから。
瞳を閉じる。
肌から伝わる感触がより鮮明になって、荒んだ心をほぐしていく。
そんな時間をしばし過ごしたあと、フォルミィがふいに口を開いた。
「明日はどうするんだ? ルビーローズ邸に戻るのか、それとも別の場所を目指すのか」
「……しばらくここで待ちますわ」
「なにかあてでもあるのか?」
「向こうに残っているディアナが教えてくれましたの。じきにプリムラとアリウムがここに迎えに来ると」
ラスファが他人に、意思を持ったディアナという存在を教えるのははじめてだった。
呪われた子という事実はわかっていたが――それでも彼女の口から聞けたことが大きい。
フォルミィは嬉しくなって、思わずラスファに抱きついた。
「そうか、なら明日まで待つしかないなー!」
「なんで抱きつきますの!?」
「無性にそういう気分になったんだ」
「離しなさいってば!」
「今は無理だな、あっはっはー!」
はしゃぐフォルミィと、面倒そうな顔をしながらもまんざらでもないラスファ。
化物に気づかれないよう、会話も笑いも全て小声だ。
それが余計に滑稽で、二人はさらにどツボにはまっていくのだった。