032 乱暴狼藉ディテクティブ
路地に駆け込み、ゴミ箱の陰に息を潜める二人の少女。
コスプレかと見紛うほど異国情緒溢れる服を着たヘスティアとハデスは、誰かから追われているのだろうか、近づいてくる足音を警戒している。
その音が遠ざかっていくと、ヘスティアが「ふぅ」と大きく息を吐き出した。
「ひとまず撒けたみたいね」
「あいつらしつこいよ」
「義憤に駆られた人間ってそんなものよ。犯人は私たちじゃないって信じてくれてる人もいるみたいだけど」
目の前で人間が爆発した瞬間の動画は撮影した。
だがSNSにそれを投稿しようとすると、すぐに消されてしまう。
しかしハデスはその事実よりも気になることがあるようだ。
「ネットを使いこなすアニマ……前代未聞だねー」
「ハデスだって使えるはずよ?」
「必要性を感じないからなぁ」
「いざ使ってみると便利だけどねえ。新しい知識はどんどん吸収していかないと、すぐに取り残されちゃうわよ」
「私はもう死んでるから。こうしてプリムラのアニマになったのも、ちょっと興味があったからだしー……まあ、そんな矢先にはぐれちゃったんだけど」
気だるそうにため息をつくハデス。
これに関しては、ヘスティアも似たような気持ちだった。
プリムラを含めて、あのときルビーローズ邸にいた人々がどうなってしまったのか、二人にはまったくわからないのだから。
「それにしても、さっきからすごい音がするよねぇ」
「誰かがドールで戦ってるみたいね。コロニーの中は安全だって話だったのに」
「教団はコロニーのことなんてどうでもいいんだろうねー」
「いずれ人間は全て電子化されるから、この世の命なんて関係ない……そう考えてるのかしら。馬鹿げてるわ」
ヘスティアは憤る。
悲鳴こそ聞こえないものの、空気を激しく震わす爆発音が鳴るたびに、何人かの命が失われていくのを容易に想像できる。
人間爆弾にしたってそうだが、命の価値に対する考え方が、教団とそれ以外であまりにかけ離れすぎだ。
「怒ってもしかたないよ、プリムラがいないとなにもできないんだしー」
「私たちだってそれなりに動けるわ。味方になってくれる人と合流して、一刻も早くなにが起きたのかを明らかにしないと」
「やる気に満ちてるねぇ。そんなに操者のことが大事?」
「……ええ、大事よ。放っておけないのよ、あの子」
「ヘスティアは相変わらずだねぇ」
「そうかしら。私、結構プリムラのこと特別扱いしてるつもりよ」
彼女たちが小声で会話を交わしていると、再び足音が近づいてくる。
「誰か来たっ」
「むぐ」
ヘスティアはハデスの体を抱き寄せ、可能な限り体を縮こまらせた。
霊体になってしまえばいくらでも逃げられるのだが、今は近くにプリムラがいない。
こうして肉体を作るほどの未加工のオリハルコンを手に入れるのも一苦労なのだ。
できれば、今の体のままで行動を継続したかった。
しかし、何者かは、まるでヘスティアたちの居場所がわかっているかのように近づいてくる。
こうなったら、見つかってもいいから逃げるしかない――そう思い彼女は立ち上がる。
そしてすぐさま走り出そうとすると、
「あ、やっと見つけましたよヘスティアさん! ハデスさんも一緒にいるんですよね」
遅れてゆっくり立ち上がるハデス。
二人の視線が、現れたセイカに向けられる。
彼女の後ろには、黒服の男が立っていた。
「セイカ! よかった、ようやく知ってる人と合流できたわ」
「誰に見つかるかわかりませんし、場所を移しましょう」
セイカに連れられ、移動するヘスティアとハデス。
向かった先には、先ほどまでセイカたちが乗っていたものとは別のシャトルが停まっていた。
運転席には、気絶していた黒服のうちの一人が座っている。
彼はハンドルに額を乗せて、念仏でも唱えるようにぶつぶつとつぶやいている。
「事故りませんように、事故りませんように……」
以前のシャトルは、完全に教団に狙われている。
あれでの移動は危険だ。
なので一旦乗り捨てて、黒服が個人で所有している自家用シャトルに乗り換えたのである。
まだローンが残っているとかで、そんなシャトルを逃走に使うのに、黒服は気が気でないようだ。
シャトルは五人乗りである。
つまり乗り込めるのはセイカとヘスティア、ハデス、それと黒服二人まで。
フィエナが乗っていたときに運転していた若く口の悪い黒服と、シャトルの所有者が乗車し、残る一人は別行動を取ることにしたようだ。
とはいえ、デルフィニアインダストリーの下っ端にできることはあまり無い。
セイカたちはあまり期待せずに、彼を残してシャトルは浮上する。
「で、どこに向かうんだよ」
トランクスペースに乗せられたガラの悪い黒服がセイカに尋ねた。
「その前に、ヘスティアさんとハデスさんに経緯を聞かないとですね。お二人はなんでプリムラさん無しで動き回ってるんです? ルビーローズ邸が消えた瞬間、その場にいたんですよね?」
「居たけどー、気づいたら家がプリムラたちごと消えてたんだよねぇ」
「ハデスの言うとおりよ。私たちもわけがわからないまま、急にあの屋敷は消えたわ。それで取り残された私たちは、ひとまず近くにオリハルコンが無いか探して、実体を得ることにしたの」
コロニー内に存在する多くのオリハルコンには、フォークロア化を防ぐための加工が施してある。
そうではない、いわゆる“生”のオリハルコンは、実はそれなりに貴重であった。
「でも私たちは魂の状態だと、どんなにがんばっても操者からは二十メートルぐらいしか離れられないからー。オリハルコンを探すのは、本当に大変だったんだよ?」
「待ってください。二十メートルしか離れられないって、プリムラさんは消えてしまったんですよね?」
「確かに消えたわ。でも感じるのよ。私たちとプリムラはまだ繋がったままだし、このコロニーにプリムラがいるって」
「見えなくなっているだけ、だということですか?」
「というよりはー、うっすぅーい紙一枚を隔てた向こうって感じかな。基本的には同じ平面上にあると思うよ」
「……同じ、平面上、ですか」
そう繰り返すセイカだが、よくわかっていないようだ。
とはいえ、実は言ったハデスも完璧につかめているわけではないし、ヘスティアもハデスがなにを言いたいのかは理解できるが、うまく説明はできない。
「ちょっぴり位相がズレた? チャンネルが違う? とにかくそんな感じかなぁ」
「要するに、プリムラがそこで移動すると、魂になった私たちも強制的に動くってことなの」
「それから逃れるために、実体を得たわけですか。で、それで歩き回ったらいきなり誰かに追い回されて……」
「どかーん! だね」
爆発以降は、セイカがSNSで見てきた通りだ。
野次馬に追いかけられ、逃げるうちに先ほど合流した場所にたどり着いた。
「なあ、要するにそいつらなにも知らねえってことじゃねえの?」
黒服の言葉に、沈黙するセイカ。
確かに、そうとも言えるかもしれない。
「別に情報を得るためだけに合流したわけではありませんし。それに、プリムラさんが動いているということは、生きているということです。アリウムさんやルビーローズ夫妻、あとラスファさんやフォルミィさんも存命だと考えていいんじゃないですか」
「あー……そういうことか」
「雇い主が生きてたんですから、もうちょっと運転席の黒服さんみたいに喜んだらいいのでは?」
ハンドルを握る黒服は、涙を流しながら唇を震わせていた。
一方でガラの悪い黒服は、心底どうでもよさそうな様子である。
「まあ、あのお嬢が死ぬとは思えねえからなぁ。世界が滅びても生きてそうだ」
「ある意味で信頼していると受け取っておきます」
「それでだ、結局どこに向かうんだよ。いつまでもコロニーの上空をぶらついてるわけにはいかない状況だぞ、今は」
「わかってますよ。まずはルプスさんと合流して――」
◇◇◇
「……あ」
「どうしたんだ、プリムラ」
アリウムは、急に固まったプリムラの顔を覗き込む。
二人は、忍び込んだ建物から出ようとしていたところだった。
首謀者がザッシュであるという確認はできた。
そして上から見ても、アトカー・ルビーローズたちがどこに潜伏しているのかは見つけられなかった。
いつ化物がここに入ってくるかわからないし、早く拠点であるルビーローズ邸に戻ろう――そんな話をした直後である。
「ヘスティアとハデスがすごい速度で動いてる。シャトルにでも乗ったのかも」
「そんなこともわかるのか。シャトルか……あのアニマに運転できるとは思えない。もしかすると、誰かと合流したのかもしれないな」
「だといいんだけど。あーあ、もどかしいな……場所はわかるのに会話ができないなんて。どうにかしてメッセージとか伝えられたらいいんだけど」
「動きはどれぐらい詳細に把握できているんだ?」
「手足の動作はわからないかな。でも位置は割と細かく……位置は、細かく……」
プリムラは顎に手を当て考え込む。
そしてなにか思いついたのか、ポン、と手を叩いた。
「連絡を取る方法、思いついたかも」
「すごいじゃないか」
「待ってて、試してみるから」
部屋に配置されている元は机だったいびつなオブジェをどかし始めるプリムラ。
アリウムは彼女の意図が読めないまま、それを手伝った。
◇◇◇
ヘスティアが、ふいに首を傾げる。
彼女たちの乗るシャトルは、セイカと連絡を取り合ったルプスに指定された合流場所に向かう道中だった。
「ヘスティアさん、なにか気になることでも?」
ミラーでヘスティアの表情を見ていたセイカが尋ねる。
すると、かわりにハデスが答えた。
「プリムラが変な動きしてるから、なにかあったのかもしれないって思ってるんじゃないかなー」
「変な動き?」
「同じ場所をぐるぐる回ってるのよ」
「階段の上り下りじゃないんですか」
「それなら高度が変わっているはずじゃない。今プリムラがいるのは、ここから見える訓練センター前の建物なんだけど」
「オフィスビルですね。ルプスさんと合流したら向かってみますか?」
「プリムラとは会えないと思うよー。あっちでなにか行動を起こしても、こっちの世界には影響はないみたいだから」
すでにそれはヘスティアとハデスが検証済みだ。
セイカは少し残念そうに「ふむ」と相づちを打った。
「ねえヘスティア、これもしかしてー、私たちになにか伝えようとしてるんじゃない?」
「プリムラが? 動きで、ってこと?」
「うん、なんとなく文字っぽいと思って」
「言われてみれば……えっと……」
ヘスティアはプリムラの動きを手のひらの上に人差し指で描く。
その文字を、ひとつずつ読み上げていくと――
「ざ……つ……し……ゆ……?」
「ザッシュ、ですかね」
「え? ザッシュって、あのザッシュ!?」
ヘスティアの知るザッシュは一人しかいない。
かつて彼女の主であった、ザッシュ・エディアンだ。
「確かに、彼ならプリムラさんやアリウムさんに恨みを抱いていてもおかしくはありませんね」
「でもザッシュはアニマを失って、今は家に引きこもってるって聞いたわ」
「そこでぐつぐつと、二人に対する憎しみを煮詰めてるところに……教団が近づいたのかもねー」
「ルプスさんと合流次第、ザッシュの自宅に向かいましょう! 本人はいなくても、手がかりは見つかるかもしれません」
ついに明確な目的を見つけたセイカたちは、まずは待ち合わせ場所でルプスと合流した。
そこでシャトルの搭乗限界もあるため、黒服たちとは別れる。
彼らはフィエナの様子を見に行くという役目があるのだ。
そしてプリムラと同じように、メッセージは伝わったという意味で『OK』という文字を描くと、ルプスの所有するシャトルに乗り換え、ザッシュの暮らすアパートメントへと向かった。
◇◇◇
あれから何度も同じ文字の動きを繰り返していたプリムラが、足を止める。
ヘスティアから返事があったのである。
「伝わったみたい!」
プリムラがそう頬をほころばせると、アリウムも微笑み一緒になって喜んだ。
いくらこういう状況に“慣れつつある”といっても、不安なものは不安なのだ。
だが向こうの世界の人間と連絡が取り合えるとなれば、かなり安心できる。
「そうか、それはよかった。これで簡単なやり取りならできそうだな」
「うん、あとは向こうでザッシュを押さえてもらえば、ここから脱出できるかもしれない。問題はわたしたちがどうやって生き残るか、だけど――」
元の世界とは時の流れが違うのか、すでに外は暗くなりつつあった。
「夜になるが、お祖父様たちの捜索は……」
「……まずは自分の生存を優先したい、って言ったら怒る?」
アリウムは微かに視線を下げ、間を置いた。
おそらく彼女は、まだ祖父母の捜索を続けたいはずだ。
だが一方で、夜に出歩くことが危険であることも理解している。
陽が落ちたら、今までの常識が通用しない、また別の世界が顔を出す可能性だってあるのだから。
それに――自分のわがままで、プリムラが傷つくようなことがあってはならない。
二度と。なにがあっても。
「いや、プリムラの言うとおりだと思う。今日は屋敷に戻って休もう」
「ありがと」
「礼なんて必要ないさ。まずは私たちが生き残らなければ、お祖父様やお祖母様たちを見つけることはできないのだから」
そして二人は建物から出て、ルビーローズ邸へと戻っていった。
アリウムは、アトカーたちがここに戻ってきていることを期待したが、やはり人の気配はない。
こうなると、戻っていないというより、戻ってこれない状況にあると考えたほうがいいだろう。
やむを得ず遠くまで離れてしまったのか。
あるいは迷ったのか、それとも動けない理由があるのか。
なんにせよ、状況はあまりよろしくない。
狂った町は夜に包まれる。
プリムラとアリウムはシェルターから飲料水と食料を確保し、アリウムの部屋にこもることにした。
◇◇◇
ルプスと合流し、ザッシュの自宅を訪れたセイカたち。
彼女たちを対応したのは、ザッシュの母親であった。
インターフォン越しに対応する母親は、同じ学園の生徒であるセイカの顔を見た瞬間に会話を打ち切ろうとするが、警察官が隣にいる以上そうはいかない。
しぶしぶ玄関を開き、やつれた顔を見せる。
改めてルプスは自分が警察官である証を見せ、半ば強引に家の中に入った。
「なんの用ですか……これ以上、私たちからなにを奪おうと言うのですか……」
ザッシュの母親は、すっかり被害者モードだった。
その様子を見たヘスティアは、ぼそりと愚痴る。
「今まで好き放題やらせてきたくせによく言うわ」
「親ってそういうものじゃないかなぁ」
「親ならもっと前段階で止めておくべきだったのよ。因果応報なんだから」
とはいえ、プリムラへの暴力は黙認されていた。
彼女は悪意を向けることを許され、サンドバッグとなることを認められた、無条件の加害者だったのだ。
罪の有無など関係ない。
断罪の名のもとに無意味に裁かれ続ける公然の悪――ザッシュの母親もまた、彼と同じようにそう思っていたのだろう。
だから、彼女はプリムラによる“反撃”を“理不尽”だと判断した。
そして今もそう思い続けている。
悪いのはプリムラであって、ザッシュに一切責任はない、と。
「外で起きてる異変、あんたも気づいてるだろう。それにお宅の息子が絡んでる可能性がある」
「そんなわけありません。ザッシュは、あれから一度だって部屋から出ていないんですよ!?」
「デルフィニアインダストリーのサーバへハッキングした疑惑もある。それなら部屋の中だろうが外だろうが関係ねえだろ」
もちろん確証などない。
しかし警官に断言されると、人は根拠などなくとも不安になるものである。
「そ、そんなこと……」
「部屋を見せてもらうぞ」
「あ、待ってくださいっ!」
強引に前に進むルプス。
アパートメントの一室と言っても、室内はそれなりに広い。
エディアン家はそれなりに裕福な家庭なようだ。
「ここは父親の書斎……こっちは寝室か。ならザッシュ・エディアンの部屋はあの奥だな」
「待ってくださいと言っているんです、いくら軍警察だからってこんな横暴は許されませんっ!」
止めようとする母親を歯牙にもかけず、容赦なくドアを開いていくルプス。
「えげつないほど強引ですね」
「さすが軍警察って感じね。でも今だけは、あの他人のプライベートに土足で踏み込む無神経さが頼りになるわ」
母親は気の毒だが、しかしプリムラたちの命がかかっているのだ。
綺麗事を言っている余裕は無い。
そしてルプスは、ザッシュの部屋の前に立った。
扉を開こうと押してみるが、びくともしない。
「カギがかかってんのか……この中に本人はいるのか?」
「……退院してからは、ずっと閉じこもったままです」
諦めた母親は、もうルプスに逆らおうとはしなかった。
「つまり姿は見てねえってわけか」
「声は聞いてますから、中にいるはずです。今だって……ザッシュちゃん、そこにいるんでしょう!?」
呼びかけると、中から反応が返ってくる。
『うるせえよ、黙れ!』
荒んだ冷たい声――怯えた母親がびくりと体を震わせる。
彼女曰く、それは間違いなくザッシュのものらしい。
「扉越しに会話することは可能だと思いますが、あの子が取り合ってくれるか……」
「母親であれだと、私たち相手に素直に口を開いてくれるとは思えませんね」
「……そうね」
相槌を打つヘスティアは、しかし納得がいっていない表情だ。
ハデスも同様に、訝しげに扉を見つめていた。
すると、扉の前で考え込んでいたルプスは、おもむろに懐から銃を取り出す。
「ひっ!」
「ちょっと、ルプスさん!?」
怯えて後ずさる母親。
もちろんセイカも焦る。
しかしルプスはお構いなしに、銃口を扉の電子ロックに向けてトリガーを引いた。
パァンッ――威嚇の意味も込められた銃声が、狭い廊下に響き渡る。
『おい、今なにやりやがった? なんの音だよ!』
中から聞こえてくる怒声。
ルプスはそれを無視して、扉を足裏で蹴飛ばし、室内に踏み込んだ。
そしてザッシュが座っていると思われるデスクチェアの背中に銃口を向ける。
『やめろよ。もう俺にはなにもない。そんな無茶な方法で部屋に踏み込んで、銃まで向けてなにをしようってんだよ』
「そうですっ! ザッシュはもう十分に――」
「黙れよ。だいたいてめえ、なんでこっち向いてねえのに俺が銃を持ってるってわかってんだよ」
『くははっ、なにいってんだか。ついさっき銃声が聞こえたからに決まってるだろ』
「そうか、なら大人しく手を上げろ」
リアクションは、無い。
「いいや、その前にまずこっちを向けザッシュ・エディアン。それが礼儀ってもんだろうよ」
『……』
「そうか、それがてめえの答えか」
ルプスは軽く息を吐き出すと、椅子に向けて三発続けざまに発砲した。
「や……やめてえぇぇええっ!」
母親の叫びが響く。
さらに彼女はルプスにしがみついたが、やはり彼はまったく気にしていない。
いや、むしろ安堵しているようでもあった。
そしてデスクチェアの背もたれに手を置き、撃ち抜かれたザッシュがこちらを向くよう、くるりと回す。
そこにぐったりと腰掛けているのは、ザッシュの格好をして、ザッシュのウィッグをかぶった――マネキンだった。
「に、人形……?」
唖然とし、崩れ落ちる母親。
ルプスは胸ぐらを掴むようにマネキンを持ち上げ、自らが放った弾丸が貫いた喉元を観察する。
小さな穴から見えるのは、破損したなんらかの装置。
おそらく、ザッシュの声を発するために組み込まれたものだろう。
「罠や爆弾の類が仕掛けられてないか不安だったが、実の家族を傷つけるほど畜生じゃなかったってことか」
「いつからこの部屋にいなかったんでしょうね」
「人形の状態からして、かなり新しいと思うわよ」
「部屋の雰囲気もぉ、何週間も留守でしたーって感じじゃないよねぇ」
「で、でも、確かにザッシュちゃんは私たちの声に反応してくれたわ! あれは間違いなく、ザッシュちゃんの声だったのよ!」
「ネットワーク経由でAIが反応してたか、あるいは――このマネキンに仕込んだスピーカーとマイクで、本人が受け答えしてたのかもしれねえな」
どちらにせよ、この部屋にザッシュはいなかった。
プリムラの役に立てず、ヘスティアはがっくりと肩を落とす。
「ザッシュちゃん……一体どこに……ああ、もしかして誰かにさらわれたの? だとしたら、大変だわ! そうよ、大変なのよ! 警察に連絡しないとっ!」
混乱しているのか、先ほどまで落ち込んでいた母親は、急に立ち上がったかと思うと部屋から走って出ていってしまう。
「警察、ここにいるんですが……」
「まあ別にいいだろ、好きにさせといて」
「でもいいの? 私たちがザッシュを追ってるって警察に知られたら、また妨害を受けるかもしれないわ」
「現在進行系で狙われてんだ、どうせもうバレてるだろ。通報だってもみ消されるに決まってる。だから、俺はそれを逆に利用してやろうと思っててな」
「利用、ですか。どうやるんです?」
「軍警察への通報は全て記録に残される。その痕跡すら残さない工作ができるのは、上層部の人間だけだ」
あるいは教団の統率が取れていないというのなら、もみ消しはしないかもしれない。
だが軍警察の動きに教団の意思が介入できるのなら、ザッシュの捜索が積極的に行われることはないはずだ。
そこには必ず、上司から部下に対する圧力まがいの“はたらきかけ”が発生する。
「俺はあの母親の通報がどういう形で上の連中に伝わって、誰の手によってもみ消されるのかを突き止める。そいつは間違いなく教団と繋がってんだ、今回の一件の手がかりだって持ってるかもしれねえ」
「だけどそれってぇ、ルプスの組織内での立場が悪くなるんじゃなぁい?」
「安心しろ、とっくに最悪だ」
ハデスの問いに、自慢げに胸を張って答えるルプス。
ジョークなのか本気なのかわからなかったので、ハデスたちは微妙な表情で苦笑するしかなかった。