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002 ハローワールド

 



 大気中に散布されたナノマシンによる、完全無線、端末不要のシナプスネットワークが生まれたのは、西暦2150年頃の話だ。

 国境も貧富の差も問わず、誰もが等しく自由にネットワークにアクセスできる環境というのは、権力者たちにとっては都合の悪いものである。

 要するにナノマシンの散布は、とある反社会的な研究団体によって行われた、一種のテロ行為であった。

 しかし、端末不要で、なんの規制もされない――否、できないネットワークというのは、無法地帯ではあるが途方もなく便利である。

 人々はその利便性に勝てず、シナプスネットワークは生活に馴染んでいく。

 翻訳技術の進歩により、この世界に『根本的に相性が悪い』以外の理由で話の通じない相手は存在しない今、ビジネスや娯楽の分野では、あっという間に国境という概念は有名無実化した。

 地球国家時代――一部メディアは、時代にそんな名前を付けて舞い上がった。


 しかし、それもほんの数年しか続かなかった。

 繋がっていく人々。

 肥大化する情報網。

 蓄積されている情報。

 当時、SNSでは、都市伝説や怪異の類について話し合うのが流行していたという。

 背筋が凍れば凍るほど、残酷であればあるほど、閲覧者は喜び、出来のいい作り話は拡散されていく。


 さて、その結果として“フォークロア”は生まれるわけだが――当然、ただ爆発的に情報が拡散しただけで、都市伝説が具現化するはずなどはない。

 それはあくまで、原因のひとつでしかない。

 だがここで重要なのは、フォークロアとは、“人々が作り出した話が元になって生まれた化物”だという部分である。


「わたしは、まだ、死にたくない……」


 ズザザザザッ――巨大なテケテケが、臓物を引きずり、砂埃を巻き上げながら近づいてくる。

 あれが、このブランクドールを狙っているのは明らかだった。


「色んなものを諦めて生きてきたけど……やっぱり、おかしいよ。わたしは、なにもしてないんだから。こんなひどい目に合うような罪なんて、あるわけがない。死ぬのは、間違ってる……」


 だから、考える。

 ドールとは、フォークロアに対抗するために作り出された兵器だ。

 逆に言えば、ドールがなければ、人類はフォークロアの前に為す術もなく死ぬしかないということでもある。

 無情で無力だ。

 しかし――動かせないからと言って、プリムラがなにもしてこなかったわけじゃない。

 天才だらけの学園の中で、普通の脳みそをした女の子にしては、それなりに上位に食い込んでいたほうと言えるだろう。

 ゆえに、多少なりともフォークロアに関する知識はある。


「テケテケは……二十世紀後半に日本で生まれたフォークロア。その設定や……名前……っ、外見は地方によって差異があるものの、“下半身が無い”という部分は共通している」


 左腕の痛みはまだ引いていない。

 呼吸混じりに、ぶつぶつと、テケテケに関しての知識を頭から引き出していく。


「呪いや、超能力を再現した遠距離攻撃を放つフォークロアじゃない。基本的な攻撃は突進か、腕を使った殴打か……ふぅ、あるいは噛みつき――近接戦闘しか行わないものの、どれも威力は高く、また場合によっては爪や歯に腐食作用のある毒を持っていることがあるため、ブランクドールだって破壊される可能性はある。つまり籠城するべきじゃない」


 音は減速する。

 少しだけ時間に猶予ができる。

 まだ内部に人がいることは気づいていないのだろう。

 フォークロアは人間を始めとした有機生命体を襲うことはあっても、無機物を無意味に破壊することはない。

 だが、自分のテリトリー内に突如異物が現れたとなれば、必ず確認しにくるはずだ。

 ドールとの交戦経験があれば、操縦席内に人がいる可能性も考慮した上で、中を覗こうとするだろう。

 その程度の知能はある。


「思いつく限り、弱点は二つ。でも当然、そこを突いたからって生身のわたしで倒せるはずがない。となれば、逃げるしかない……戦艦から降りたときに確認する限りでは、南側に森が見えた。たぶんあそこは、テケテケの行動範囲内じゃないから追ってはこないはず――」


 そうはいっても、かなりの距離があったが。

 そのための時間をどう稼ぐかが、鍵になる。

 ザザッ、ザザザッ――腕の力だけで移動するテケテケの、引きずるような音が大きくなる。

 様子を見るのをやめたのか、いよいよブランクドールに触れようとしているみたいだ。


(……まずは、突進を誘う)


 弱点その一。

 テケテケは人間サイズのときでも、腕の力だけで時速五十キロから六十キロほどの速度で移動すると言う。

 一方で、そのすさまじい速度の代償として、急激な方向転換を苦手としているらしい。

 つまり、この距離からドールに突進させれば、数秒間は逃げる時間は稼げるはず。


「すぅ……ふうぅ……」


 プリムラは一旦深呼吸を挟み、気づかれないよう、テケテケと逆方向のハッチの隙間から外に降りた。

 そして落ちていた手頃な石を掴むと、それを投げてドールの足付近にぶつける。

 ガンッ! と大きな音が響くと、案の定テケテケは反応した。


「ぉぉぉおおおおおぉぉお――」


 うめき声が荒野に響き渡る。

 そして巨体は急加速し、一気にドールに接近した。

 その隙にプリムラは森へ向かって駆け出す。

 ガゴォンッ――テケテケに衝突され、ドールが宙を舞った。


「ごめんっ……!」


 動かしたことはないが、一年間一緒に頑張ってきた相棒だ。

 それを囮にするのは心が痛む。

 幸い、まだ完全には破壊されていないようだが――


(生き延びられたら、必ず迎えにくるから)


 限りなく不可能と知りながらそう誓って、プリムラは一心不乱に走った。

 やはり左腕が動かないと速度が出ない。

 突進後、オーバーランを続けていたテケテケはついに静止し、ぐるりと急速に方向を変えた。

 だが――その視界内に、プリムラの姿は無い。


(……間に合ったぁ!)


 岩の影に身を潜めているのだ。

 まだ森までの距離はあるが、ひとまずこれで一時的に難を逃れることはできる。

 あとはテケテケが、ドールをおもちゃにしている間に逃げられるのが理想的なのだが――そううまくはいきそうにない。

 そいつは吹き飛ばしたドールに近づくと、腕で器用にハッチを開き、中を覗き込んだ。

 そして人がいないことを確認すると、周囲を警戒しはじめる。


(ドールと交戦経験のある個体……わたしって、とことん運が無いなぁ)


 中には鼻が効くフォークロアも存在する。

 このまま隠れていても、いずれは見つかる。

 幸い、まだこちらの位置は掴まれていないし、テケテケも挙動不審に周囲を見回している状態だ。


(後ろを向いた瞬間を見計らって――ゴー!)


 左腕を抱え、歯を食いしばりながらの全力疾走。

 当然、足音で相手はプリムラに気づく。

 反転し、追跡を開始。

 ゴオォォォ! ――まるでミサイルのような速度で、またたくまに距離は縮まっていく。

 一直線に森を目指していたプリムラだが、テケテケが近づくに連れて徐々に進行方向を変える。

 相手は直線でしか動けないのだ。

 一回ぐらいなら、自分の足でも突進は避けられる。


「とりゃあぁっ!」


 衝突直前、プリムラは横にジャンプして地面に飛び込んだ。

 着地は無様だが、突進は外れテケテケの背中は遠ざかる。

 すぐに立ち上がり、足を動かす。

 だが現在、相手の位置はプリムラと森の間にあった。

 さっきほど距離も離れていない。

 これで突進を繰り出せば、間違いなく巻き込まれて無残なミンチに変えられるだろう。

 しかしプリムラは一直線に森に向かって走った。


(ここまで来れば、弱点その二を使えば切り抜けられる!)


 怪異には、ほとんどの場合、致命的な弱点があるものだ。

 たとえば、有名な“口裂け女”なら、ポマードと三回唱えることでひるませることができるし、好物のべっこうあめを与えることでも足止めは可能だ。

 それと同じように、テケテケも――


「地獄に落ちろぉーッ!」


 そう言うと、動きを止めると言われている。


「ぉぉぉおおおおおおぉぉおぉぉお――!」


 テケテケは般若のような形相になりながら、ひときわ大きなうめき声をあげた。

 だがその怒りとは裏腹に、体は麻痺したように動かない。

 仕方ない、そういう“設定”なのだ。

 都市伝説から生まれてきた以上、それには抗えないのである。

 もっとも、この方法も永遠に足止めできるわけではないが、森へ逃げ込むには十分な隙を作ることができた。




 ◇◇◇




「はぁ、はぁ……なんとか、逃げ切ったぁ……!」


 木々が鬱蒼と生い茂る森の中、プリムラは手近な幹に背中を預けて呼吸を整える。

 ここはおそらく、あのテケテケの“行動範囲外”だ。

 もう追ってくることはないだろう。


「はぁ……はあぁ……ふぅ」


 テケテケとの交戦で気分が高揚していたからか、今までは忘れられていたが――落ち着くと、アリウムの言葉が蘇ってくる。


「……わたしが人殺し、か」


 そう言われたことがなかったわけじゃない。

 慣れっこだと思っていた。

 しかし、やはりアリウムに言われると重みが違う。


「なんで……みんな、わたしのせいにするんだろう。アリウムちゃんも、事件に関係ない人も、みんな……」


 考えると心が重くなる。

 一緒に、体も重くなって、腕の痛みも増して、『いっそここで死んでしまったほうが』という言葉が何度も脳内で反響した。

 だが、そんな衝動的な自殺願望は、迫る“本物の死の気配”を前には無意味だ。

 死を前にすれば、よっぽど覚悟の決まっている人間以外は、みんな怯えるし、命乞いをするものなのだ。


「……あれは」


 視線を上げると、森の奥に、誰かが立っているのを見つけた。

 いや――誰かなんて、いるはずがない。

 この外の世界で、生身で生きられる人間なんて。


「う……ぷ……ケホッ、ゲホッ!」


 急に咳き込むプリムラ。

 押さえた手を見ると、そこにはべったりと血が付いていた。

 同時に、鼻血も流れる。


「こ、これって……ああ、そっか、逃げたって、逃げた先が安全だとは限らないんだよね……」


 のっぺらぼうのような顔。

 白い肌。

 異様に高い背。

 そして、黒いスーツ――


「あれは、確か――二十一世紀初頭、アメリカのネット掲示板で生まれた都市伝説……スレンダーマン」


 見るだけで対象の精神や肉体に異変を与える、という点も一致している。

 先ほど見えた姿から推察するに、身長は三メートルほどなのでフォークロアとしては小型なほうだ。

 力は強くない。

 ドールさえあれば簡単に倒せる。

 だが――ドールはここにない。

 スレンダーマンが放っている特殊な周波数の波は、直接浴びれば人体と精神を破壊する。

 当然、近づけば近づくほど影響は大きくなるだろう。


(技術の進歩でいろんな国の文化がごちゃまぜになるのは結構だけど、こんなとこまで多国籍じゃなくていいのに。あぁ……そういやスレンダーマンって、弱点らしい弱点は無いんだよねぇ)


 テケテケのように、“特定のワード”を使って足止めをすることはできない。

 しかも、相手はがっつりとこちらを発見している。

 テリトリー外――つまり森の外に出れば追跡は止まるだろうが、そうすれば先ほどのテケテケが再び襲ってくるだろう。


「気合と根性で……逃げるしかないっ!」


 足の感覚は徐々に無くなり、肺も呼吸するたびに痛みを感じる。

 ハートだって限界で、今のプリムラの状態は、言ってしまえば“ヤケクソ”だった。

 全てを失って、今度は命すら失おうとしている少女の、最後の悪あがきだ。

 どこに逃げたって、どんなに戦ったって、どうにもならないことはもうわかっている――




 ◇◇◇




 あのあと、どうにかスレンダーマンから逃げ切ったプリムラは、偶然見つけた洞窟へと身を寄せた。

 そこもまたフォークロアの巣窟ではないかと心配したが、杞憂だったようである。

 ちょうどいい高さの岩を椅子代わりにして、彼女は腰掛けた。

 そして壁をせもたれにして、大きく息を吐き出す。


「さすがに暗いなあ……夜も近いし、すぐになにも見えなくなりそう」


 そう言いながら、プリムラは前方の、なにもない空間に手をかざした。

 すると手のひらから、光を放つ球体が現れる。


「せっかくのアニマが、こんな灯りにしかならないなんて笑っちゃうよね……」


 アニマ――それは魂を意味する言葉だ。

 プリムラがドールを操縦出来ない理由、それは彼女が“まともなアニマ”を所持していないからであった。


 中身が空っぽで、動かないドールのことを、空白人形(ブランクドール)と呼ぶ。

 この空白(ブランク)とは、アニマが入っていないことを意味しているのだ。


 二十二世紀半ば、シナプスネットワークの登場に世界が混乱する中、科学者たちの間でとあるブームが起きていた。

 “平行世界への干渉”である。

 結果、未知の病原体をこの世界に持ち込んだり、フォークロアを生み出すきっかけになったりと、地球を壊すだけ壊して研究は頓挫(とんざ)したわけだが――その副産物として、ある技術が開発された。

 それが、“過去世界への干渉”であった。


 かつて人が“神話”と呼んだ時代より魂を採取し、その力を操者に宿らせ、ドールに力を注ぐ。

 二十三世紀になった今、過去干渉の技術はそういった形で発展を遂げていた。

 フォークロアが都市伝説や怪異譚を力の源にするのならば、よりスケールの大きな神話であれば、奴らに対抗できるはず。

 ドールの開発は、そんな単純な動機から始まったと言われている。

 そして実際、それは大きな成果を上げた。

 ドールは宿った魂に見合った力を手にし、人はようやくフォークロアと対等に戦えるようになったのだ。

 ちなみに、ザッシュには炉の神“ヘスティア”のアニマが宿っているし、アリウムには掟の神“テミス”が宿っている。


 他の操者たちも、なにかしら神の力を持っているのだが――プリムラはなぜか、白くて丸い、光の玉が出せるだけ。

 本来、操者として高い適性を持っている彼女は、宿したアニマの力を最大限引き出せるはずなのだが、その魂がこれではどうにもならない。


「見る限りは卵みたいなんだけど……なーんでこんなのとわたしの相性が最高だったのかな……」


 アニマの選定は慎重に行われるものだ。

 事前に相性が調べられ、最も適したものが与えられる。

 すなわち、目の前に浮かぶこれが、プリムラにとっての最善なアニマ――ということになるのだが。

 結果、外の世界に追放されてしまったのだから、どう考えても最悪である。

 ひょっとして、嫌われ者の自分へのあてつけとして、検査結果を改ざんして相性の悪いアニマを押し付けたのではないか。

 そんな邪推だって、したくなるというものだ。


「おーい、卵さーん。卵さんなら孵化してくれませんかー」


 投げやりに、指先でそれをつつきながらぼやくプリムラ。

 その日は奇跡的にフォークロアの襲撃が無かったため、彼女はそのまま、洞窟で一晩を過ごすことにした。




 ◇◇◇




 それから、三日が経過した。

 食料はまともに口にしていない。

 水分は、川の水を飲もうとしたが、全長五メートルはあるであろう巨大な人面魚に襲われ断念。

 結局、昨日の晩に限界を迎えて泥水を飲んだ。

 今も口の中に苦味が残っている。

 腹を壊さなかったことだけが救いだろうか。


「あ……あぁ……ぅ、ふ……」


 ふらふらと、森の中を歩く。

 ここがどこなのか、プリムラはよくわかっていなかった。

 ただ、その場を離れなければならないと思った。


 初日、洞窟で休めた日はよかった。

 しかし次の日から、奇妙な夢を見るようになり、眠れなくなったのだ。

 いや、眠れなくても、目をつぶるだけでそれは現れる。

 不気味な男の顔が、まぶたの裏に張り付いたように浮かんでくるのである。

 これも何らかのフォークロアなのか、あるいは追い詰められたプリムラの精神が見せる幻覚なのか、もう区別がつかなかった。


「この……森……は」


 ぼやけた視界。

 ここが通ったことのある場所であることを、ようやく理解した。

 スレンダーマンと遭遇した地点だ。

 幸い、今はどこにもいないようだが。

 いや、あるいは見えていないだけかもしれないが――スレンダーマンは“見る”ことで対象の精神と肉体を蝕むフォークロア。

 今ならば、よほど近づかれない限り、ダメージを受けずに済むかもしれない。

 もっとも、背中から伸びた触手という武器もあるので、見なければ逃げられるというわけでもないのだが。


「は……ぁ……うぅ……く……」


 どこを目指しているのか――プリムラはほとんど、頭で考えることをやめていた。

 ただ、気の赴くまま、本能だけで体を動かしている。

 それで向かう先は、置き去りにしたブランクドールの場所。

 要は、あれはプリムラにとって、最後の心の支えなのだろう。

 もしかしたらこの状況をどうにかしてくれるかもしれない。

 ひょっとすると急に動き出すかもしれない。

 そんな、馬鹿げているとわかっていても、儚い希望が見られる場所。


 森を出た。

 荒野を歩く。

 テケテケの姿は無い。

 なぜかフォークロアたちはプリムラを見ても動かない。

 ただの幸運なのだろうか。

 あるいは、もう死にかけだから、喰らう必要もないということなのだろうか。

 ずるずると、上がらない足を引きずって、ふらふらと、体を左右に揺らして。

 髪はぼさぼさ、目はうつろ。

 顔は真っ青で、呼吸は浅い。

 今のプリムラの顔を見れば、誰もが“死にかけ”だと思うだろう。

 彼女自身も、そんな有様である自覚があった。


 そしてようやく、ドールの場所までたどり着いた。

 テケテケにおもちゃにされて遊ばれたのか、最後に見たときよりも傷が多い。

 操縦席のハッチも開きっぱなしで、中は全体的に砂で汚れていた。

 構わず中に、這いずるように滑り込み、腰掛ける。


(ここまで必死に逃げてみたけど……まあ、こうなるよね。わかりきってた。ドールに乗ってたって死ぬことがあるんだもん、生身のわたしが今日まで生き残れただけ奇跡だよ)


 ほう、と大きく息を吐く。


(ここが……わたしのお墓になるのかな。あーあ、どうせならみんなと一緒がよかったな……もっと早くに死ねば、コロニー内で埋葬されたのかな。そしたら、お母さんと、お父さんと、お兄ちゃんと……また、昔みたいに……)


 走馬灯のように、幸せだった日々の思い出が蘇る。

 思わず、プリムラの口元がゆるんだ。


 特別なものなんて、なにもいらなかった。

 お父さんがコーヒーを飲んでいればいい。

 お母さんが裁縫をしていればいい。

 お兄ちゃんが音楽を聞いていればいい。

 プリムラは、そんな日常の断片を感じながら、自分の部屋で宿題でもしていればいい。


 欲張りではないはずだ。

 ただただ、特別なことなんてない、当たり前が欲しいと願うだけだ。

 なぜ、それらは全て血で塗りつぶされなければならなかったのか。

 なぜ、なぜ、なぜ――わからないことが多すぎて、誰もが考えることを諦めた。

 怪しいとわかっていても、その真相を暴くことはできなかったから、簡単な方法に逃げたのだ。

 そうやって責任を、生き残った一人に押し付けた。

 それを、大人たちは、誰も止めようとはしなかった。


 ズザザザザザ――砂の上を、なにかを引きずりながら走る音。

 テケテケだ。

 あの化物が、またこちらに戻ってきた。

 ひょっとすると、そうやってテリトリー内を一日中巡回し続けているのかもしれない。

 あのテケテケならば、ハッチの位置が動いていることで、誰かが中に入り込んだことに気づくだろう。


(わたしはもう死ぬ)


 アリウムから突き放されたとき以上に、プリムラは強く死を感じていた。

 放っておいても衰弱して死ぬし、その前にテケテケに食われて死ぬだろう。

 抵抗する手段も気力もない。

 詰みだ。


(なにもできずに死ぬ)


 無力だった。

 いや、無力にされてしまった。

 今は、そう感じる。

 まるで、家族が死んだあの日から、最初から自分がこういう死に方をすることが決められていたかのような――そんな、大きな流れを感じた。

 なぜなら、不自然だからだ。

 いくら自分が落ちこぼれでも、いくら母親が人殺しだったとしても、“実は共犯者でした”なんてでっち上げ、普通は通らない。

 強い力を持った誰かが関わらなければ、成り立たないプランだ。


(殺されるんだ、わたしは)


 テケテケにじゃない。

 知らない誰かの悪意に。

 たぶん、家族や、アリウムの両親と同じように。


(あぁ……せめて、どうしてあんなことが起きたのかぐらいは、知っておきたかったな……)


 今まで、何度だってその“可能性”は考えた。

 いきなり母親が発狂して、周囲にいた人々を殺した――そんなの、どう考えてもおかしいのだ。

 さらに言えば、その違和感の存在に誰もが気づいていたのに、調べようとした人間が一人もいなかったこともおかしい。

 プリムラが共犯者扱いにして追放されたことも含めて、コロニーの偉い人間が関わっている気しかしない。

 それが誰かはわからないが、しかし優秀な操者だった彼女の父と兄は、同時に多くの悪人から恨みも買っていた。

 もっと言えば、アリウムの父親だって操者だったのだ。

 殺される理由は十分にあったのである。


(でも、誰も探ろうとはしなかった。軍はおろか、今は政治家をしているアリウムちゃんのおじいさんだって)


 不自然極まりない状況。

 犯人は本当に母なのか――その真偽も含めて、あのコロニーには暴かれるべき闇が隠れているはずなのだ。

 けれど誰もが諦める。

 諦めて、八つ当たりするように、全てをプリムラに押し付ける。


(……馬鹿みたい。なんで、報いをわたしが受けなくちゃならないんだろう)


 考えれば考えるほど、理不尽である。

 死の直前にして、初めて諦めを通り越し、怒りが湧いてきた。

 もう手遅れだと知っているからこそ、なおさらに憤慨する。


(おかしいよ)


 テケテケが、ブランクドールに手を伸ばす。


(そうだ、おかしい)


 なにかを確かめるように、その表面をぺたぺたと触り、操縦席内はぐらぐらと揺れた。


(ザッシュは中等学校の頃からわたしをずっといじめてた。そのくせ、先生はあいつのことを気に入って、どんな暴力を振るわれても見て見ぬふりをしていた。ううん、それどころか先生だって一緒になってわたしにひどいことした。傷つくようなことを言った。でも、誰もその人を罰したりはしなかった。むしろ、反抗的な態度を取ると、わたしの方が罰せられた)


 思い出されるのは、繰り返す理不尽の記憶。

 ザッシュも含め、色んな人間がプリムラに不当な罰を与えてきたのは、今回に限った話じゃない。

 ある人間は申し訳なさそうに。

 ある人間はさも当然のことであるかのように。

 ある人間は笑いながら。

 ありもしない罪をでっちあげて、プリムラを追い詰めてきた。

 どのみち、彼女が苦労するという結果は変わらないのだから、どんな顔をされたって変わらない。


(今だってそうだ。はは……なんで、わたしが諦めなくちゃならないの? アリウムちゃんのことだってそうだよ。一人だけ被害者みたいな言い方しないでよ。わたしだって被害者なのに。あの日、両親を――お兄ちゃんまで失ってるのに、なんで両親しか死んでないアリウムちゃんに偉そうに説教されなくちゃならないの? だいたい、わたし、あのとき慰めたんだよ? 辛かったけど、泣いてるアリウムちゃんの力になりたいと思って、頑張って、優しい言葉をかけてたよね? なのに、アリウムちゃんはわたしを見捨てた。人殺しの娘だからって、あんなに仲良かったのに、一方的に離れていってさ!)


 別に下心があったわけじゃない。

 励ました見返りなんて求めていなかった。

 少なくとも、あのときは。


(机にはナイフで“犯罪者”って刻まれていた。食事の配給が奪われたりした。意味もなく殴られることがあった。苦しむとみんなわたしのことを見て笑った。わたしも、一緒になって笑った)


 どうせ、抵抗したって数の暴力で押しつぶされるだけなのだから。

 迎合したほうが楽だった、という理由もあるのかもしれない。


「いい子でいなくちゃならないと思ってた、みんなにとって都合のいい人間になれば、ちょっとは優しくなるんじゃないかって」


 気づけば、思考は声になって外に漏れ出していた。

 当然、音がすればテケテケも反応する。

 コクピットハッチに指をかけ、力ずくで開こうとし始めた。


「人殺しの娘だから、人より謙虚で、大人しくて、正しく生きなくちゃならないと思ってた。言い返す資格なんて無いから、全部諦めて、ごめんなさいって言うべきだと思いこんでた」


 ギギギ――と操縦席を守る“蓋”が軋み、歪む。

 隙間が開き、外の光が少しずつ中に差し込みはじめている。

 プリムラはそこに視線を向けた。

 覗き込むテケテケと、目が合った。


「……違うよ、そんなの」


 拒絶する。

 “今からテケテケに食われて命を落とす”という現実を、全力で。

 そしてプリムラは、残ったなけなしの体力で吠えた。

 今日まで溜めに溜め込んできた感情を、全て吐き出すように。


「わたしは、もっと身勝手でよかった! “親が殺したからってなんなんだ”って堂々としておけばよかった! だって、譲歩すればするほどあいつらはみんな調子に乗るんだもん! わたしを意思のない人形だと勘違いして好き放題に奪っていって! わたしの大事な居場所を踏み荒らしていく! 自分たちの罪は笑って誤魔化すくせに、わたしの些細(ささい)な罪を、寄ってたかって責め立てる!」


 誰に対して言っているのかはわからない。

 ぱっと浮かぶのはザッシュだが、彼以外にも、数えきれないほどの人々がプリムラにそういう態度を取ってきた。

 だが、ここでなにを喚こうが、当事者たちに届くはずもなく、反応してくれるのは彼女を喰いたがっているテケテケだけだ。

 ガゴンッ! ガゴンッ! と、テケテケは苛立たしげに、なかなか外れないハッチを外から殴りつけた。

 操縦席が揺れる。

 一緒にプリムラの体も中で跳ねた。


「っ……! わたしが罪人だとか、人殺しだとか、そんなものはあいつらの都合でしかないんだ!」


 どこかにぶつけたのか、額から血が垂れている。

 意識が朦朧とし、視界がブラックアウトした。

 それでも彼女は、言葉を止めない。

 遅すぎるかもしれないが、ようやく本音を吐き出せるようになったのだ。

 だから生きたい。

 追い詰められ、死を目前にしたからこそ今の境地に達せたことはわかっていても――生きたいと願い、手を伸ばす。


「いいや、むしろ理不尽にわたしを傷つけて、殺そうとするあいつらのほうが罪人だ! ねえ神様、あいつらに報いを与えて! 見てるんでしょ? いるんでしょ? だったら、あいつらに裁きを与えてよ! こんな理不尽が正されないなんて、そんなことあっていいわけが――」


 ハッチが歪む。

 人の胴ほどの大きさがある太い指が、内側に入り込んでくる。

 間に砂の詰まった、ギザギザの汚らしい爪が、獲物を探して目の前で蠢く。

 その先端が彼女の鼻先を撫でると、まるで金属のような冷たさを感じた。

 指が伸びる。

 近づいてくる。

 プリムラは、もう縮こまったり、怯えたりすることはなかった。

 覚悟を決めた――わけではない。

 ただ見えていないだけだ。

 真っ暗な世界の中で、ただただなにかを求めるように手を伸ばす。


「誰か……」


 全てが閉じた世界を、さまよう。

 そのままなにも見つからずに命を落とすと思っていた。

 だが――一筋の光がさした。


「……あなたが、報いを与えてくれるの?」


 聞いても答えない。

 それでもプリムラは手を伸ばす。

 暗闇の世界を照らす光に、指先が触れる。

 すると光は、“パチン”とシャボン玉のように弾けた。


「あ――」


 中から、濁流のようになにかが溢れ出す。

 それはまたたくまにプリムラの脳内を埋め尽くし、救い――ではなく、張り裂けそうな苦痛を与えた。


「あ――あ、あぁ……あがっ、ががぎぎゅっ」


 彼女はガクガクと全身を痙攣させる。

 目は見開かれ、開きっぱなしになった口からはだらだらと涎が垂れた。


「ぎっ、ぎぎぎっ、ぎがっ、あ、ひゅ、ひぎっ? ぎ、ガ……」


 だが止まらない。

 光の玉から出てきた大量の“情報”は、一度に受け入れられる許容量をとうに越えている。

 だというのに、強引に入り口を広げながら我先にと入り込もうとするものだから、さらに引き裂かれてしまう。

 犠牲になるのは、すでにそこにあるものだ。

 例えば理性とか。

 例えば人間性とか。

 そういったものを押しつぶしながら――別のなにかが、頭の中を埋め尽くしていく。


「ガ……カ……ガッ、ガアァァァァァァァアアアアアアアアアアッ!」


 プリムラはひときわ大きくのけぞると、喉が擦り切れるほど野蛮に叫んだ。

 獣のように、自分の体のことなんて微塵も考えずに。

 一方でテケテケも、獲物が叫ぼうがなんだろうが関係はない。

 いや、むしろこういった類の声が聞こえてきたときは、人間が絶命する寸前であることをそいつは知っている。

 だから、さしこんだ指に力を込めて、操縦席を守る装甲を引き剥がした。

 むき出しになるプリムラ。

 叫び疲れたのか、彼女はそこに腰掛けて、小刻みに体を震わせている。


「か……か、ひゅ……き……ひ、ひひ……」


 口角が引きつり、笑っているようにも見えた。

 首はゆっくりと左右に揺れて、まるでメトロノームのようだ。


「ォォォォォオオオオ――」


 テケテケが手を伸ばす。

 少女を掴み、握りつぶし、まずは血を飲んでから、そのあとで体を咀嚼しようとしているらしい。

 その動きで起きたかすかな風がプリムラの頬を撫でると、彼女はけだるげに、視界を埋め尽くす“巨大な女の顔”を見た。

 さらに、口元にはっきりと笑みが浮かぶ。

 彼女はそのままかすれた声でつぶやいた。


「ひはは……あは……卵が、割れた」


 その言葉と同時に、これまで微動だにしなかったブランクドールの腕が、まるでプリムラの動きと連動するように天に向かって伸ばされる。

 天で輝く太陽を掴むように、その手を握った。


「あはは……動いた……動いたぁ……っ!」


 無邪気な子供のようにその事実を喜ぶプリムラ。

 そうしている間にも、テケテケは彼女の体をつかもうとしていたが――その動きが突然止まった。

 ドールの腕が、その後頭部を握ったのだ。


「ォ――ォォ――ォォオオ――」


 テケテケの長い髪を指に絡めながら引き剥がし、体が浮き上がったところで、空いた左手をこめかみに当てる。


「なんだ。なぁんだ。そんなこと(・・・・・)だったんだ!」


 腕に力を込めると、テケテケの頭部は鈍い音とともにぐるりと回った。


「ォ……ォォォ……!」


 フォークロアは生物ではない。

 ゆえに、それだけで活動は止まらない。

 だが一時的に動きを止めることぐらいはできるだろう。

 首がへし折れたテケテケを、ドールが突き飛ばす。

 ただ腕の力で押しただけだというのに、その体は天高くまで舞い上がった。


「すごい……まるで自分の体と一体化してるみたい!」


 興奮するプリムラは、声を裏返らせながら天を見上げた。

 隔壁は剥がされているため、確認は目視である。

 ドールは腰を低く落とすと、脚部に力を込めて地面を蹴り跳躍した。

 ゴォウッ――荒野はえぐれ、砕けた地面が周囲に飛び散る。

 そして自由落下するテケテケに接近すると、空中で膝蹴りを命中させた。

 さらにドールはその場で宙返りをして、勢いをつけた踵落としをお見舞いする。

 この無茶な挙動によってかかるGは相当なものだが、プリムラは平然としている。

 アニマが目覚めたことにより、身体能力が向上している影響だろう。


 なぜ目覚めたのか――それは非常に単純な話だ。

 卵は、孵化しなければ無力である。

 プリムラ自身も、冗談っぽく“卵さん”と読んでいただけで、まさか本当にそうだとは思っていなかったわけだが――事実、それは卵だったらしい。

 あるいは“繭”や“封印”という言い方もできるのかもしれないが。


「ゥォォオオオオオオンッ!」


 地面に叩きつけられたテケテケは、悠然と着地するプリムラのドールを睨みつけ、吠えた。

 これまでとは違う、明確な威嚇行動。

 首がねじれたまま、怒りに顔を歪ませて、獣のような声をあげる上半身だけの巨人――とまあ、見ているだけで頭がおかしくなりそうな異様な光景だが、それを圧倒する力を持っている今、プリムラは怯えたりはしない。

 むしろ、ドールが自由に動かせるという事実に歓喜する。


「ザッシュだって、アリウムちゃんだってここまで自由にドールを動かせたりはしない!」


 テケテケは怒りに任せて、ドールに突っ込もうとしている。


「やれる……やれるんだ。この力があれば、わたしはあいつらを見返してやれる。今まで奪われてきたものだって――全部、取り返せる!」


 プリムラは眼中にないと言った様子で、ただドールの手を前に突き出すだけだった。

 五十トンを超える重さ、時速三百キロを超える速さ。

 もはやテケテケ自体が兵器と化した、渾身の一撃だ。

 巻き込んだ岩が砕けるほどのそのパワーは――しかし、ガギィッ! という鈍い金属音とともに、いとも簡単に止められた。

 伸びたドールの片手によって。

 三百キロが止められた反動は、全てテケテケに跳ね返る。

 ゴギャッ、と手のひらが顔面にめり込み、ひしゃげ、頭が背中に接触するほどに反り上がる。

 だが、まだだ。

 まだテケテケは生きている。

 変形しきった頭をうねらせながら、ドールに迫ろうとしているのだ。

 プリムラは大きく目を開き、好戦的に笑いながら、荒々しく言い放つ。


「はっ――気味の悪い顔を、それ以上近づけるんじゃねえええぇッ!」


 ズシャアァッ――蹴り上げた足は、テケテケの胸部に突き刺さると、そのまま体を真っ二つに両断した。

 巻き起こる風が、荒野に吹きすさぶ。

 ここまで破壊されれば、さすがにフォークロアでも活動を停止する。

 断面はリアルな人間そのものだった。

 しかし、地面に落ちた数秒後、色は失われ白になる。

 どろりと溶けて、ただの金属に(・・・・・・)戻る(・・)


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 その様子を、肩を上下させながら見守るプリムラ。

 もう動かない――そう確信すると、胸元で右手を握りしめながら声を絞り出す。


「やった……わたし、フォークロアを倒した……! やってやったんだ、この“ガラテア”でっ!」


 圧倒的な力の差があった。

 もう殺される以外に道はないと思っていた。

 それをひっくりかえしたのだ。

 この下剋上は、プリムラにこれまで感じたことのない高揚感を与えていた。

 気持ちの高ぶりとともに体温が上昇する。

 諦めに冷めていた心にも、過剰なまでの熱が宿る。

 アニマが目覚めた影響か、まだガンガンと頭が痛むが、その苦痛すら今は興奮を高める材料にしかならない。


「ははははははっ、くははははははっ! この力さえあれば、あんなやつらっ! わたしの人生を台無しにしてきた奴らなんてみんな――捻り潰して、滅茶苦茶にしてやる! あははははははははっ!」


 プリムラは誰も居ない荒野で、まるで別人のように笑い続けた。




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