015 近未来マザーファッカー
なにもない時間を、なにも考えずに過ごすことは難しい。
人生はずっと低い場所を飛んでいる。
だから、自然と過去の、幸せだったころの記憶を思い出す。
意図的なものじゃない。
オートマティックに。
ガラテアを受け入れても、それが染み付いた本性なのだと、自分自身に言い聞かせるように。
大好きな家族がいた。
父にも母にも間違いなく愛されていたし、兄にもたぶん愛されていたし、今は亡き母方の祖父母にも可愛がられていた。
父方の祖父母は『もう死んだ』と聞かされていたが、思えばあれは、父がケミカルベイビーであることを隠すための方便だったのだろう。
だが些細なことだ。
愛されていた。
ただその事実だけで、当時のプリムラは十分に満たされていた。
大好きな友達がいた。
友達というか、親戚だったけれど、わたしにとっては唯一無二の親友で、最初に出会ったときから不思議と誰よりも近い人間に思えた。
一緒にいると胸がぽかぽかして、どきどきして。
だからずっと一緒にいたいと思っていた。
いられると思っていた。
「……世界は、嘘や欺瞞で溢れている」
校庭に立つプリムラは、そうつぶやいた。
『いきなり物騒なことを言うのね』
ヘスティアは苦笑する。
「だってこの状況、お母さんを狙ってるのかわたしを狙ってるのか区別がつかないと思わない?」
軍警察が運んできた照明によって明るく照らされた校庭。
銃を構えた警官たちは、離れた場所でプリムラを取り囲んでいる。
上司を説得し、この状況を作り上げたルプスもまた、その中に混じっていた。
『今にもトリガーを引きそうな雰囲気はあるわね。いい大人が、まだ十五歳のプリムラに向かって情けないわ』
「でも誰も咎めない。だってそれが、あの人たちにとっての“常識”であり“正義”だから」
『……なんだか含みのある言い方ね』
「教団にお父さんが関わっていたかもしれない。それって、お母さんの事件と関連があるかもしれないってことでしょ? そう思うともやもやしちゃって、ずっと考えてたの。静かだから余計に」
『全部伝聞でしょう。信じるのは、ちゃんとした証拠を見つけてからでいいんじゃないかしら。肉親を疑ったって誰も幸せにならないわ』
「……そだね。ありがと」
『どういたしまして』
冷たい風がプリムラの頬を撫でる。
コロニー内では、体調に悪影響を及ぼさない程度に温度の変化が設けられている。
今の時期は比較的低めに設定されており、夜になるとさらに下がる。
加えて、人工的に生み出された風と相まって、いつになく寒く感じる。
それは周辺で待機する警官たちも同じらしく、銃のグリップを握ったまま、時折肩を震わす者もいた。
『おいプリムラ、本当にアヤメ・シフォーディは来るんだろうな』
ルプスから通信が入る。
「それはお母さんに聞いてください」
『わかるわけねえだろ』
「なにか事件が起きたとかいう通報は入ってないんですか?」
『入ってるは入ってるが……』
「入ってるんですか。ならじきに来るんじゃないでしょうか。それとも、なにか問題でも起きたんですか?」
『狙われてる男子生徒を、アリウム・ルビーローズが連れて逃げたらしい』
「……」
プリムラは目を細め、唇を噛んだ。
『あの子……どうして』
「人が死ぬっていうときに、見て見ぬふりはできなかったってことじゃない。余計なことを」
そう吐き捨てるプリムラ。
すぐさま聞いていたルプスがフォローを入れる。
『そう言ってやるなよ、こればっかりは純粋に善意だろ』
「だから厄介なんですよ、下手に動かなければいいのに」
『あの子だって両親を殺された被害者だ、人の死に敏感になってて当然だろ。つうか、お前の母親が殺してんだぞ? よく考えてみりゃ、本来はあの子に憎まれて当然――』
「切ります」
『あ、おいてめっ』
ブツンッ、と途切れる通信。
再び静寂が戻り、プリムラはほっと息を吐き出した。
だがすぐさま通信が繋がる。
もちろん拒否する。
繋がる、拒否する、繋がる――それを何度か繰り返すうちに、今度は軍警察の特権を利用した、拒否不可能な通信が飛んできた。
『一方的に切るんじゃねえ!』
「ルプスさんが悪い。というかこの通信、上司の許可が必要なんじゃないですか」
『だからあの大嫌いな上司に頭を下げて取ったんだよ!』
「ご苦労さまです。ついでに偉い人に許可を取って、コロニー全体を監視できません?」
『そのレベルのナノマシン使用には大統領の許可がいるんだよ。どう考えても無理だろ』
「知ってます」
『お前ほんとムカつくな』
「いやあ、普段のルプスさんほどでは」
時間が空いたからか、軽口を言う余裕も出てきた。
もっとも、ルプスのほうはこめかみに青筋を浮かべているが。
「ところで、上司の許可で思い出しましたが、よくわたしがここに立ち入る許可をもらえましたね。どうやって説得したんですか?」
『あぁ、それか。案外簡単だったぞ。アヤメ・シフォーディの狙いはプリムラ・シフォーディだ。だからあいつを囮にすれば、アヤメを捕縛できる上にプリムラも死んで一石二鳥だ、ってな』
「およそ警察官とは思えない言葉ですね、録音したんでわたしの名前の部分だけ加工して新聞社に流していいですか?」
『自分の名前じゃ取り合ってもらえない自覚はあるんだな』
「当たり前でしょう。どこもかしこもクズだらけじゃないですか、コロニーって」
人間は潜在的になにかしらの闇を抱えている――と言っても、限度がある。
ここは閉鎖された空間。
外の世界はすでにフォークロアに支配され、人が住める場所ではない。
だがフォークロアを生み出したのは他でもない人なのだから。
ゆえに、誰も責めることはできない。
逃げ出したくなっても、ただ今日と同じ日を、明日もなんとなく過ごすことしかできないのだ。
心は自然と、鬱屈としていく。
「そのクズさを、どこに向かって吐き出すかには個人差があるとは思いますが。ある人はわたしに、またある人は教団に」
『コロニーの環境が教団を生み出した……か』
「それはそうでしょう。だって、もし外に、人が暮らせる世界が広がっていたのなら、電脳世界とこの世界を入れ替える、なんて教義に付き合う人はそんなにいないと思いますよ。ましてや、構成員の中心がコロニーの中じゃ裕福なはずの操者だったっていうんならなおさらに」
『いっそコロニーの壁でもぶち壊してやれば、連中の頭も冷めるのかねえ』
「頭を冷まさせるのが目的なんですか?」
『いいや、ぶち殺してやりてえ。それができねえなら、警察らしいやり方でとっ捕まえるだけだ』
「ですよね。まあでも、わたしもコロニーの外なら――って、考えなかったわけじゃないですよ。ああやって追放される前は、ちょっぴり夢見てたんでしょうね、外の世界に」
『実際はどうだったんだ?』
「地獄です。出るも地獄、戻るも地獄。なら他人を地獄に突き落として身を護るしかない……っと、無駄話はここまでみたいですね」
プリムラは空を見上げた。
暗闇に包まれた空は、地上が明るく照らされているせいか、いつも以上に星が見えない。
そんな暗幕の中を、ふわふわと浮かぶ人間の姿があった。
『来たの――』
ぶつんっ、と通信が切れる。
周囲を照らしていたライトも次々と消えていき、あたりはすっかり真っ暗になってしまった。
うろたえる警察官たち。
上司から「落ち着けっ!」と怒号が飛ぶが、むしろ逆効果だ。
ざわめきはさらに大きくなる。
そんな中、プリムラは冷静にその姿を捉えていた。
実際に目にするまでは、心の中で少しだけ、“嘘かもしれない”と思っていた。
できれば会いたくなかった。
見たくはなかった。
記憶は、どんなに鮮烈でも、少しずつ風化していくものだ。
事件そのものの傷は、日々、気休め程度でも癒えていたというのに。
「こんな姿を見せられたら――嫌でもまた思い出す」
空から降りてくる母の姿は、あの日と同じように、血にまみれていた。
『プリムラ……』
心配そうなヘスティアの声。
今は一人じゃない。
それが、せめてもの救いだろうか。
警察官たちにも緊張が走る。
ようやく予備の明かりで照らされたおかげか、もう女々しく騒ぐこともない。
一斉に銃口が、ふわりと着地するアヤメに向けられた。
彼女の手には、おそらく先ほど殺してきたのだろうと思われる、男の首から下が掴まれていた。
「……あなたは、誰?」
プリムラは、ためらいながらも呼びかける。
果たしてそれが母と呼べる存在なのか。
いや、『おそらく違うはずだ』と確信に近いものは持っているが、100%ではない。
普通に返事が戻ってきたら――そのときのための言葉は、プランの中に用意されていなかった。
唯一の救いは、警察官たちが早まって発砲しないことだろうか。
彼らとて、すでに仲間が死亡していることは知っているのだ。
うかつに手を出すな――上司にそう念を押されているのかもしれない。
「あなたは、誰なの?」
繰り返し、アヤメに問いかける。
すると彼女の手から死体が落ちた。
「プリムラ……?」
その声は――五年前まで毎日聞いていた、母のものと全く同じだ。
どくんと心臓が跳ねる。
冷や汗が額から噴き出す。
いっそフォークロアのように問答無用で襲いかかってくれたのなら、知能など無い化物であれば、やるべきことは単純だったのに。
「ああぁ、プリムラなのね。大きくなって……」
ふらふらと近づいてくるアヤメ。
プリムラは歯を食いしばると、彼女に向かって手のひらを向けた。
すでにネットワークは遮断されている。
つまり魔法陣の生成は、自らの手で行うしかない。
ガラテアレベルになるとコンマ数秒で空中に魔法陣を浮かべることができるが、しかし実戦の中ではその程度のロスも命取りだ。
だが彼女が苦々しい表情を見せているのはそれが理由ではない。
偽物だろうと、相手は母の姿をして、母の声をした存在だ。
そんな相手に、殺意を向けるような真似――いくら今のプリムラでも、なにも感じないわけではない。
「……プリムラ。それは、なあに?」
「動かないでっ! それ以上……近づかないで」
「どうして? 私よ? あなたのお母さんの、アヤメよ?」
「本当に……本人、なの?」
「ええ、あなたとの思い出も、あなたの好きな歌も、あなたの好物も、ぜーんぶ知ってるわ。もちろん、あなたが最後におねしょをした日もね。そんなの、知ってるのは私しかいないでしょう?」
具体的な内容は明言しなかったが、喋り方や言葉の抑揚、そして声のトーンでわかる。
AIによって作られる人口音声の精度は限りなく人間に近づいたが、しかしそこに込められた感情までもを表現できるほどではない。
認めたくはないが――そこにいるのは紛れもなく、“本物の”アヤメ・シフォーディだった。
「さっきね、アリウムちゃんに会ってきたの。あの子も大きくなっていたわ。どういうことかわからないけれど、成長したあなたたちの姿を見ることができて、私は嬉しい」
「は……はぁ……」
肩をゆっくりと上下しながら、荒めの呼吸を繰り返すプリムラ。
動揺は明らかだ。
しかし照準は外さない。
「ねえ、そのよくわからない図形……危ないものなんでしょう? 下げてほしいの。私は、プリムラを抱きしめたいだけなのよ」
「だったら! だったら……どうして、わたしに、あんなメッセージを?」
「居場所がわからなかったのよ。だから、目立つことをしたら、プリムラに会えるんじゃないかって」
「違うっ! そうじゃなくて……そういう、目的じゃなくて……わたしが言いたいのは――」
あなたが母だというのなら、なぜ人を殺したりするのか――そうプリムラが問いただそうとしたとき、パンッ! と乾いた銃声が鳴り響いた。
早まった警察官が、引き金を引いたのだ。
放たれた弾丸は正確にアヤメの頭部に命中し、衝撃で彼女の体は吹き飛ばされる。
「あ……」
それはプリムラが見る、二度目の母の死だった。
そしてアヤメの姿は、粒子のように消える。
「てめえ、なにしてやがるッ!」
ルプスが怒りの声をあげ、発砲した警察官の胸ぐらをつかんだ。
握っていた拳銃が地面に落ちる。
警察官は唇が紫になるほど青ざめており、手も震えていた。
「あ、あれはっ、あれは連続殺人犯ですっ! 私は、ただ、少女の命を救っただけですッ!」
「ふざけんじゃねえ!」
ルプスは拳を振るい、男の頬を殴りつける。
「まだ素直にビビったって白状したほうが言い訳としてはマシだ!」
「う……ううぅ……」
発砲した警察官は倒れ伏す。
「チィッ、アヤメはどうなった!?」
頭に弾丸を受けたはずのアヤメのほうを見るルプス。
だがそこに彼女の姿はなかった。
プリムラが呆然と立ち尽くすだけだ。
「消えた……のか? 銃が効いてた――」
希望的観測だ。
すぐさま現実がそれを否定する。
「うわあぁぁぁああああっ!」
響く野太い悲鳴。
離れた場所にいる警察官のものだ。
どこからともなくアヤメが現れ、手にした包丁で彼の首を掻っ切っていた。
赤い飛沫が舞う。
「約定を、思い出してしまったの」
悲しげに彼女は言った。
混乱に陥る警察官たち。
アヤメに対し銃を向け、複数人が一斉に発砲する。
「やめろ、撃つなッ!」
ルプスの静止の声も虚しく、銃弾は放たれ、そして――アヤメをすり抜け、向かい合った味方に着弾する。
「くっそ、なんてこった!」
軍警察は、普段は普通の警察官として行動する。
一応、訓練は受けているが、練度は兵士よりも格段に落ちる。
そもそも、コロニー内で人類が完結している今、他国との戦闘を想定した軍が実働することはほとんど無い。
フォークロアの相手も、操者の役目なのだから。
つまりこの場にいる警察官たちは――このような化物を相手できるほど、教育が行き届いていないのだ。
銃が通用しないのは明らかだ。
それでも発砲音は鳴り響いた。
そんな中、アヤメは姿を消してはワープしたように離れた場所に現れ、的確に首を掻っ切っていく。
発砲音、怒号、悲鳴、湿った音――地獄絵図が広がっていく。
これでは全滅するのは時間の問題だ。
(どうする? どうする……って、頼れるやつは一人しかいねえ。上の連中のプライドが許さないかもしれないが、俺らは撤退してプリムラに任せるしか――)
殺人鬼を前にして逃亡。
警官としてこれ以上に恥ずべき行為は存在しないが、しかし無駄な犠牲者を増やさないためにもそれが必要だった。
だが広域に通信を送るにしても、上司の許可が必要。
まずは仲の悪い彼に撤退を提案するため、人混みをかき分けルプスは走る。
だが――
「なっ、てめえ……!」
「私はプリムラとお話したかっただけなのに。引き金は、あなたたちが引いたの。だから――」
目の前に、包丁を手にしたアヤメが迫る。
とっさに銃に手を伸ばすが、それが無駄であることはわかっている。
振り下ろされた刃は、ギリギリで体をひねって回避した。
いや――かすりはしたが、それでも致命傷ではない。
「約定のために、死んでぇっ!」
だが素早く繰り出される二撃目――これを避けることはできない。
万事休す。
死を覚悟したルプスだったが、そのとき、激しい炎が薄暗い校庭を照らした。
「……なに?」
「なんだぁ、ありゃあ!?」
アヤメも思わず手を止める。
『いくわよ、プリムラっ!』
「うんっ! オリハルコン圧縮解除、展開!」
プリムラもただ見ているだけではない。
彼女はヘスティアの体用に圧縮してあったオリハルコンを展開し、球体に変え自らの前に浮かび上がらせる。
そしてそこに、腕を沈ませた。
すると送り込んだ魔力によってオリハルコン塊は変形し、プリムラの体を包んでいく。
ドールとは――オリハルコンに宿った神話の力をメイン動力源として、魔力で補助し、さらに精密機器で制御して動くものだ。
だがガラテアは違った。
ガラテアという魔術師に神話は存在しない、あるのは膨大な魔力だけだ。
ゆえに神話の力も精密機器による制御も必要とせず、ただ全てを魔力だけで操っていた。
すなわち、極端な話――オリハルコンさえ存在すれば、“ドール”ガラテアはいくらでも作り出せるのだ。
プリムラの体をすっぽりと覆ったオリハルコン。
それは徐々に変形していき、炎を撒き散らしながら、見覚えのある姿に――ガラテアの形に変わっていく。
だが細部が異なる。
白かった機体には赤いラインが刻まれ、また背中にはバーニアが、さらに肩や腕部、脚部にも見慣れぬパーツが装備されている。
それはすなわち――
「装着完了。ガラテア、モード“火神”!」
ガラテアに、ヘスティアの神話の力を付与したものであった。
もちろんドールに比べオリハルコン量が少ない分だけ出力も小さいが、しかしコロニー内での戦闘においては、その身軽さが武器となる。
『私たちを導いて、聖火の翼!』
ガラテアが地面を蹴って駆け出すと、背部バーニアから白に近い色の炎が噴き出す。
さらに元からガラテアの背後で浮かんでいた魔法陣に強化され、炎は天使の翼のように広がり、夜の校庭を明るく照らした。
そしてそれを推進力として、瞬時にアヤメに肉薄する。
「はあぁぁぁぁあああッ!」
身に宿った炎に影響されてか、いつになく気迫のこもった声をあげるプリムラ。
彼女はアヤメに接近しながら、その手に炎の剣を握る。
性格などを度外視して、単純に操者とアニマとして見たときの“相性”で言えば、ヘスティアはザッシュのほうが相性が良い。
それはザッシュが寂しがり屋で、心のどこかで母性を求めていたからだ。
それを裏付けするように、彼が操っていたときのヘスティアは、“ファミリアバード”や“サーヴァント・リクトール”などの、仲間を増やす武装を複数搭載していた。
しかし、プリムラとヘスティアが組んだ今、同じ武装は使えない。
当然、ザッシュの使っていた特殊能力、虚勢こそが真なりも。
だがその代わりに、また別の形でヘスティアの力が顕現する。
背部バーニア、聖火の翼もその一つ。
そして――名称こそ同じだが、その手に掴む炎の剣は、ザッシュが使っていた頃とは段違いの刃長、そして温度を放っていた。
「プリムラ……」
「せええぇぇぇぇいッ!」
ガラテアはアヤメに向かって、剣を振り下ろす。
包丁で応戦するアヤメだったが、武器としての性能が違いすぎる。
競り合うこともできず、彼女は諦め姿を消した。
「プリムラ、てめえなのか?」
「はい、わたしです。ここは任せてください。というより、元から譲るつもりなんてありませんでしたが」
「かたじけねえ、完全に俺らの失態だ。すまねえが、ここは頼んだぞ」
ルプスは改めて、上司に駆け寄った。
じきに警官全員に通信が届き、撤退を始めるだろう。
だが――始めるまでの間にも、犠牲者は増え続ける。
アヤメは逃げようと背中を見せていた二人の警官の背後に現れると、ずぶりと頚椎に両腕を沈ませた。
「約定を……プリムラ相手でも、約定を……満たすためには……力が、足りない……」
先ほどの一撃で、己の得物が貧弱だと判断したのだろう。
「う……うわっ、うわああぁぁあっ!」
「はぎゃっ、ぐ、おか、ちゃ……ひぎああぁぁぁああっ!」
断末魔の叫びとともに、警官の体が変形していく。
アヤメはそのねじ曲がる体を力づくでグチュッ! と一つにまとめると、肉塊はさらに変形を続け、やがて紅色の、刃だけで彼女の身長を超えるほどの大きな包丁になる。
巨大な剣を握り、向かい合う二人。
異形と異形。
母と娘。
「プリムラ……」
プリムラは、その戦いが不毛であることを察していた。
おそらくアヤメは、まともな状態ではない。
人殺しだって、彼女の意思ではない。
それを確信しているからだ。
だが――刃を交えねば、先には進めないというのなら。
母の名誉のために、母を斬らねばならない。
「お母さん、行くね」
オリハルコンのつま先が大地をえぐり、ガラテアが跳んだ。