014 Iのありか
アリウムは男子生徒を連れて、人気の少ない道を進む。
華やかで栄えた街の裏側――パイプむき出しのビルが並び、ゴミも散乱したコロニーの“必要悪”。
近づくなと言われているし、普段なら絶対に立ち入らないような場所を、彼女は駆けていた。
「な、なんで俺が……俺が狙われて……っ! なんなんだよあいつはぁっ!」
「私だって知らない! いいから走れ!」
アリウムと一緒に逃げているのは、プリムラに絡んでいたクラスEの生徒だ。
彼はしきりに後ろを気にしながら、息を切らしながら走り続ける。
「くそう、くそう……死にたくねえ、死にたくねえ。俺はちょっとあいつにちょっかい出しただけなんだよ、よくあるやり取りだったじゃねえか!」
男子生徒はすでに、自分の友人が二人、命を落としたことを知っている。
一人は首と体を切り離されて。
もう一人は爆発に巻き込まれて。
残る四人は、それぞれが『次にアヤメに殺されるのは自分だ』と怯えに怯えていた。
「うだうだ言ってないで、できるだけ遠くに離れるんだっ! 止まったら捕まるぞ!」
だがアリウムも男子生徒も、その時までアヤメの姿を実際に見たわけではなかったのだ。
噂は広がっていた。
現在進行系でネットには画像もあがっている。
だがそれでも、アヤメ・シフォーディは五年前に死んだのだから、存在するはずがない。
フォークロア説も、すでにいくつかのメディアが『フォークロア特有の波長が観測されていない』と否定的な記事を掲載しており、信憑性を失いつつあった。
ならば、実際は別の誰かが命を狙っているはずなのだ。
プリムラが魔術を使って――と男子生徒は考えていたし、プリムラをはめるために何者かが――とアリウムは考えていた。
しかし、事実はもっとシンプルだった。
「ま、また灯りが消えた……来るのか? いや、もう来てるんだなっ!?」
男子生徒の震えた声が通りに響く。
すでに、アヤメは何度か二人の前に姿を現していた。
そもそも、アリウムたちがこうして逃げる羽目になったのは、アヤメと遭遇してしまったからだ。
「だから止まるな! 死にたくないんだろう!」
「う、うううぅぅうう……っ!」
遡るほど十分前――被害者がザッシュの取り巻きであることに気づいたアリウムは、男子生徒の家を訪れた。
別に最初から守るつもりだったわけじゃない。
ただ、“原因”を確かめたかったのだ。
しかし彼から話を聞こうと家に上がった途端、外から叫び声が聞こえてきた。
アヤメが、見張っていた兵士を殺したのだ。
その後、彼女はすぐさま部屋に現れ、男子生徒を殺そうとしたものの、アリウムが体を抱えて窓から飛び出したため九死に一生を得た。
だが、まだアヤメの追跡は続いている。
今だって少しでもスピードを緩めれば――
「ふふふふっ……」
どこからともなく声が聞こえ、目の前の空間が歪む。
さらに“前兆”として、周囲の灯りを含め、あらゆる機械製品が動きを止める。
そして真っ暗になった道に、幽霊のように突然、彼女は姿を現すのだ。
さっきは背後だった。
しかし今度は――前。
アリウムは男子生徒をかばうように前に出て、血まみれのアヤメを睨みつけた。
彼女の手にはあの日と同じ形の包丁が握られている。
「アヤメさん、どうしてそこまでしてこの人を殺そうとするんですか!」
これまでも何度かアリウムは彼女に呼びかけてきたが、返事は無かった。
今回もリアクションを期待しているわけではない。
アリウムは『逃げられない』と確信しているからこそ、呼びかけるしかないのだ。
なにせ今のアヤメには――あらゆる物理攻撃が、一切通用しないのだから。
命中しても、まるで煙でも殴っているように一時的に霧散し、すぐに元に戻るだけだ。
「アヤメさん、もしあなたが本人だって言うんなら答えてください! プリムラだって、こんなことは望んでないでしょう!」
「……プリムラ? あなた、プリムラを知っているの……?」
プリムラの名前を出した途端、アヤメはか細い声でそう言った。
周囲の暗さや静寂と相まって、その声はやけに不気味に聞こえる。
いざ反応が得られるとアリウムは戸惑い、男子生徒は「ひっ」と体をこわばらせた。
「私はアリウム・ルビーローズです!」
「アリウムちゃん……? そんなわけないわ、あなたはもっと小さかったじゃない……」
「……?」
最初はなにを言っているのかわからないアリウムだったが、すぐにアヤメの言葉の意味を察した。
「あの事件からはもう、五年経っているんです」
「事件……? 事件って、なに?」
「それは……その、あなたが……」
「五年? どうして五年も? 私はどうしてここにいるの? 私は、私は……」
「アヤメ、さん?」
「……ああ、そうだった。私、知っていたわ、五年経っているの。ごめんなさいねアリウムちゃん」
アヤメはにこりと笑う。
その表情は、アリウムの記憶にある彼女の表情とまったく同じだった。
人殺しの残酷さなど、微塵も感じさせない。
それだけに、血にまみれたその姿とのギャップが異様だ。
「でも、どうして?」
カクン、と首をかしげるアヤメ。
顔から表情が失せる。
「どうしてアリウムちゃんは、その子と一緒にいるの? 駄目よアリウムちゃん、その子は守っちゃいけないの」
「プリムラに……危害を加えたから、ですか?」
「知っているのねアリウムちゃん。そうよ、その人はね、プリムラにひどいことをしたそうなの。ひどいことをしたら、責任を取らないといけないわ」
「だからって殺していいわけじゃありません!」
「そんなことないわ、死んだほうがいい人間って、結構いるのよ」
「いいえ。死んでいい人間なんて……この世には存在しません!」
「ふふふ、おもしろいことを言うのねアリウムちゃん」
アヤメの傾けた首がさらにガクンと曲がり、大きく目が見開かれる。
「だったら、あなたはどうしてプリムラを殺そうとしたの?」
結局のところ、全てはそこに収束する。
アリウムがどんなに綺麗事を並べようとも、正義を貫こうとも、それこそが最大の悪なのだ。
アリウム自身も、プリムラも、そしてアヤメもそれを“罪”と呼ぶ。
周囲の人間たちはそれを“正義”と呼ぶ。
逡巡は、その二つの正義の間で生まれていた。
「そ、それは……」
「ああ、そうだったわ。あなたも、プリムラにひどいことをしたのよね。聞いたわ、そう聞かされていたわ、約定越しに。だから今は、そう、ちょっとだけ、約定も悪くないって思ったから、でも嫌いなものは嫌いだわ。プリムラがああなったのは、約定のせいだから」
「約定……?」
「約定っていうのはね、守らなければならないもの。守らされるもの。ふふふ、アリウムちゃんは約束を守るのが苦手なのよね、だったらとても相性が悪いわ。よかったわね、相性が悪くて。でもね、そんなのは関係ないのよ、少なくとも今は、今は……ああ、こんな方法に訴える時点で私はどうにかしてるんだけど、今だけは約定に身を委ねたい」
声が怒りを怯えていく。
か細く、儚かった音が、太く、低く、確かな形を得ようとしている。
いわゆるローパスフィルタだ。
約定による、感情の選定が行われているのだ。
だから、アヤメのその感情は、ノイズが取り除かれて純粋な形でアリウムたちにぶつけられる。
「だって――あなたたちのことが、殺したいほど憎いもの」
目の錯覚だろうか――アヤメの持つ包丁の刃が、一回り大きくなったように思えた。
彼女は握る手に力を込めて、再び前進を再開する。
ゆらりゆらりと、アリウムと男子生徒に近づく。
「やめてくださいアヤメさんっ! あなたが人を殺したって、プリムラが追い詰められるだけです!」
「でも私にはこれしかできないわ、約定だから」
「わけのわからないことを!」
「わけがわからないのはあなたたちのほうよ。死んでいい人間は存在しないって言うくせに、プリムラは殺そうとする。そう、だったらあなたたちにとってプリムラは人ではないのね」
「違う……それを認めたらっ、私は両親の死を肯定することになるから! だから私は、矛盾していたとしても、死んでもいい人間なんていないって言い続けないと……っ」
「中途半端な綺麗事。だったらプリムラも守りなさいよ、そうしたら私は出てこなくて済んだかもしれないのに」
「それは……ッ」
「そうまでして人でありたいの? 人らしくありたいの? でも違うわ。逆なのよ。唯一の人間はプリムラだけ。あとは全員――」
アヤメは前傾姿勢を取った。
足は地面についていない。
ゆえに地面を蹴る必要もなく――ふわりと、高速でアリウムに接近した。
「人でなしの化物よ」
振るわれる包丁。
スキルもテクニックもない、いかにも素人な刃物の扱いだが、しかし単純にスピードで圧倒し、アリウムの肩を斬りつける。
「くうぅっ……!?」
だが彼女もやられてばかりではない。
カウンターとしてアヤメの顎めがけて拳を放つ。
しかし拳はその姿を一時的に歪めるだけで、ダメージを与えることはできない。
再び振り上げられる包丁。
それを見て、アリウムは攻撃を諦め大きくバックステップで後退した。
「づ、う……っ」
切り裂かれた制服に、血がにじむ。
「血、血が……!」
それを見て、本人以上に怯えたのは男子生徒だ。
次の犠牲者は自分に違いない――そう思うと、際限なく恐怖は膨らむ。
もとよりプライドもなく、ザッシュの手下になることを選ぶような小心者だ。
この状況に耐えられるわけもなかった。
「嫌だ、俺は死にたく……死にたくないっ! う、うわあぁぁぁあああっ!」
みっともなく声をあげ、涙を目に浮かべながらその場を逃げ出す。
「やめろ、単独行動するなッ!」
アリウムは声を荒らげたが、彼の足が止まることはなかった。
「ふふふふっ、よかった、これで殺せるわ。だってアリウムちゃんったらとても強いから……あら、今はクラスCなのね、それにあとちょっとでBに上がるんですって。どうりで」
ここまで逃げてきてとっくにアリウムは気づいていたが、アヤメに距離の概念など意味をなさない。
彼女はその気になれば、どこにだって姿を現せる。
今だって、また煙のように消えて、あの男子生徒を追おうとしているのだ。
男子生徒はよほど必死なのか、操者としての力をフル動員して全力疾走している。
ここからアヤメより先に追いつくのは不可能だ。
「行かせるかぁッ!」
アリウムは無意味だと理解しながらも、アヤメに飛びついた。
当然、掴みかかった両腕は空を切る。
「その必死さを、どうしてプリムラに向けてくれなかったのかしら」
「……っ! 元はと言えば、あなたが誰も殺さなければこんなことにはならなかった!」
「それとこれとは、別の問題でしょう? 私は私で、あなたはあなたで、お互いに、とぉっても醜悪だわ」
醜悪――その言葉が、アリウムの心に重くのしかかる。
自覚はあった。
だが他人から言われると、痛みは倍増では済まない。
「うふふふふっ、ふふふふふっ、プリムラ待っててね、すぐにあなたに会いに行くから」
もはや、アヤメは誰にも止められない。
アリウムの前から消えると、男子生徒の前に立ちはだかる。
「う、うわああぁぁっ! なんでだよっ、なんで俺なんだよおおおお!」
理由ははっきりしている。
ならば命乞いとしてもっとも効果があるのは、おそらく“謝罪”だ。
しかし男子生徒が認めようとも、謝ろうともしないのは、やはり彼の中で“プリムラは虐げてもいい存在”、あるいは“虐げなければならない存在”という認識があるからだろう。
それが変わらないかぎり――いや、変わったとしても、アヤメは彼の犯した過去の罪を許すことはないだろう。
「来るな……来るな――はびゅっ!?」
喉仏に、鋭い切っ先が沈む。
アヤメはそのまま柄を前後左右に動かして、実に楽しそうにぐちゅぐちゅと音を立てた。
泡立った血が、口と傷口から溢れ出す。
男子生徒は苦しげな表情で、「がぼっ、ぐぼっ」と声にならない声をあげる。
「いじわるな約定はあなたの居場所を教えてくれないけれど、感じるの。感じるのよ、あなたの呼吸を」
さらに刃が深く沈んだ。
その頃にはすでに男子生徒は絶命し、体から力は抜けていた。
つまり、アヤメは柄を握る力だけで彼の体重を支えているのだ。
「約定だから、今の私はこうすることでしかあなたに愛を示せないわ。これは愛なの?」
そして体を壁に叩きつけ、さらにぐりぐりと肉をかき混ぜる。
「これがIなの? 私はIなの? 誰が誰なの?」
表情も声も狂気を孕み、さらに激しく腕を動かす。
すると体の重さで首の皮がぶちりと切れて、体が地面に落ちた。
アヤメは生首の髪の毛を乱暴に掴み、投げ捨てる。
「わからなぁいっ、わからないわぁっ、うふふふふふっ! プリムラっ、プリムラっ、プリムラぁっ!」
そして横たわる体の首の断面を鷲掴みにすると、死体をずるずると引きずりながら、道の向こうへと消えていった。
残されたアリウムは、四つん這いで男子生徒の首に近づく。
「あ……あぁ……」
恐怖に歪んだ顔で絶命する彼の顔を見て、途方もない無力感がアリウムを襲った。
最初は、プリムラの無実を証明できないか、と彼の家を訪れた。
そこでアヤメと遭遇した。
失われる命があるのなら、守らなければならないと思った。
だが、それが矛盾しているというのなら――アリウムが取るべき行動はなんだったのか。
死にゆく命を、見て見ぬふりをして見捨てることだったのか。
「私は……私は……」
わからない。
考えても考えても答えなどでない。
なぜこの袋小路に迷い込んでしまったのかと言えば――もとを正せば、五年前の選択が発端だ。
道を違えた。
ならば違えたまま進むべきだったのだ。
だがそうもできなかった。
今も、中途半端に理想を追いかけ続けている。
「っ……うわあぁぁぁあああああああッ!」
悔しさと、悲しさと、怒りと――誰に向けたものかもわからない、ぐちゃぐちゃの感情が入り混じった咆哮が、コロニーに響き渡った。
◇◇◇
「ふっふふーん♪ プリムラとぉっ、会えるかなぁっ♪ きっと次はわかってくれるわ、だってあんなに私の存在を誇示したんだもの」
アヤメは上機嫌だった。
ようやく最愛の娘に会えるのだ。
アリウムが自分の行動を把握したということは、プリムラだって――そう確信しているようである。
「楽しみ……会ってどうしようかしら。会って……そうね……私……どうして……」
娘と会う。
不安定な心で。
不安定な姿で。
その意味を、アヤメはよく考えていなかったし、考えられなかった。
でも考えた。
いざ現実が目の前に迫りつつあったからだ。
「……約定ね。そうだった、約定が……約定がっ! ああぁっ、約定が約定ならっ、私は、私はプリムラと会ったら! 駄目ぇっ! 駄目よ、会っちゃ駄目! 私は、私はああぁあああああああああ!」
叫び、苦悶し――ノイズが交じる。
ザザッ、と姿が歪み、まるで別のなにかで上書きされたかのように、取り乱した心も表情も消え去る。
「行きましょう、プリムラに会いに」
感情の抑揚は消えた。
必要な部分だけ切り取られた。
効率化のために必要なプロセスだ。
そして、死体を片手にアヤメは学園へと向かった。