009 遠い
アリウムとプリムラは、物心ついたときから、当たり前のように一緒にいた。
両親が言うには、0歳のときから仲がよかったらしく、姉妹のようにして育ったのだという。
朝は一緒に学校に通って、学校でも授業中以外はべったりとくっついて、家に帰ったら夜になるまで二人で遊ぶ。
許可さえもらえればお互いの家に泊まり、そのまま朝ごはんを食べて学校に向かうなんてことも珍しくなかった。
当時のプリムラは非常に気弱で、いつもアリウムの後ろに隠れていた。
対するアリウムは、幼いころから“将来は操者になる”という自覚があったからか、道理が通っていないことが嫌いな正義の味方として、プリムラを守っていたのだという。
プリムラはお姫様。
アリウムは騎士。
二人も、そんな関係がいつまでも続くと思っていた。
――アリウムは、あの事件の現場を見てはいない。
学校から帰ったら両親が死んでいた。
何気ない日常は突如途切れ、戻らなくなった。
プリムラのように死体を見ていればいいというわけではないのだが――しかし、葬儀が終わっても数日間は実感が湧いてこなかった。
初めて泣いたのは、誰もいない家で一晩をすごした時。
明るい笑顔で溢れていたリビングには、アリウム一人しかいない。
誰の声も聞こえてこない。
待てども待てども、大好きな両親が帰ってくることはない。
知っていた。
だがそれは、“理解する”こととは別なのだ。
急激に強烈な寂しさに襲われ、体が震え、涙が止まらなくなる。
弱々しい声で『お父さん、お母さん』と呼びながら家中を探し回るが、もちろん見つかるはずもない。
残っていたのは寝室に残る懐かしい匂いだけだ。
それが余計に悲しくて。
大きな声をあげて、アリウムは泣いた。
その声を聞いていたのだろうか。
それとも、なんとなく嫌な予感がしただけなのだろうか。
偶然にもアリウムの家を訪れていたプリムラは、パイプを使って二階によじ登り、泣き声が聞こえてくる二階の部屋の窓を叩く。
それに気づいたアリウムはすぐに窓を開いた。
そしてプリムラはなにも言わずに、彼女を抱きしめた。
プリムラも似たような境遇なのに。
誰もいない家で、アリウム以上に苦しんでいたかもしれないのに。
それでも涙も流さず他人を支えようとするプリムラのぬくもりは、間違いなくアリウムを救っていた。
たぶんそのとき、二人は同じことを考えていたに違いない。
今日からは、お互いに支え合いながら生きていく。
本当の家族になって。
辛いこともあるだろうけど、二人なら絶対に残り越えられるはずだから――と。
◇◇◇
よく、あの頃の夢を見る。
罪の象徴として。
人生最大の後悔として。
そして――自分が今も恋い焦がれている、“帰りたい場所”として。
現代、科学の発展により人の命は物理世界から解放された。
コロニーでは人口調整のため、六十歳になると、重要な役職についた人間以外は意識をデータ化され安楽死させられる。
誰もそれを拒んたりはしない。
安楽死はこの世における最大の快楽を伴うと言うし、ネットワーク世界で過ごす第二の人生は、何もかもが思い通りだからだ。
「死にたい」
アリウムはベッドに転がりながら、何気なくそうつぶやいた。
だがそれは“逃げ“だと、頭を振って否定する。
救いを求める若者は、往々にして安楽死を望む。
かつてどこかの宗教家が“現世こそが地獄”だと説いたが、現代とはまさにそういう時代なのだ。
六十年生きた先に、見える形で天国が存在する。
そこに至るために、清く正しく生きていく。
実際、かつて人がコロニー外で生きていた時代よりも今のほうが犯罪率が低いのだから、“天国の可視化”は犯罪の抑止として非常に効果的だったのだろう。
一方で、“生きる辛さ”、“生のみじめさ”を際立たせる結果となったが。
「……殺されたい」
そんな自己嫌悪を、何度繰り返してきただろう。
かつて父は言った。
『アリウム、お前はルビーローズ家の人間として、正義を貫ける人間になるんだ』
かつて祖父は言った。
『ルビーローズ家に生まれたからには、正義の道を征かねばならぬ。わかるな、アリウム』
正義。
正義。
正義――そんな曖昧な概念を頼りに、アリウムは今日まで生きてきた。
だが、ずっと正義がなんなのか、彼女にはわからなかった。
わからないまま、なんとなくそれっぽい行動を取ってきて、周囲がそれを“正義”と呼んでくれたから、そう思い込むだけ。
そう、アリウムの中に、確固たる正義なんて存在しない。
『お祖父様、正義とは何なのですか?』
そう問いかけたこともある。
親代わりとなってアリウムを育ててくれた祖父は、すぐに答えてくれた。
『正義を貫きたい――そう思っていれば、いつか自分の正義が見えてくる』
『今は見えなくても仕方ないのでしょうか』
『不安か?』
『……はい』
『ならば私を見ておればよい。“ルビーローズ家の主としての正義”に限れば、私は“完全なる正義”を体現できていると自負している』
『お祖父様を信じればよいと?』
『そうだ。アリウムが自分の正義に自信を持てるまではそうすればよい』
だから、そうした。
信じてきた。
追いかけてきた。
アリウムの祖父はすでに操者を引退し政治の道に進んだが、それでもその背中を目標にしてきた。
ああ、たしかにアリウムが行ってきたいくつかの正義は、その賜物なのだろう。
だが時折、疑問に思うことはあるのだ。
果たしてそれは本当に正義なのか、と。
「プリムラ……私は……」
横に待ったまま、右手で目を覆った。
視界が暗闇に閉ざされると、自動的に再生されるロクス・アモエヌスで起きた一連の出来事。
『証拠は……でっちあげ? では、プリムラがあの事件に関わっているというのは……嘘、だったと……?』
全ては後の祭りだ。
残ったのは、強い自己嫌悪と後悔だけ。
どれだけ嘆いてみても、そんなものは“罪人の命乞い”に等しい。
終わってから『私はそんなつもりじゃなかった』と嘆いてみたとして――それが“心にもない言葉”だろうが“本心”だろうが大差はない。
結果、いくつもの罵倒がプリムラを傷つけていたのなら、アリウムは言い訳のしようがなく罪人なのだから。
「……いや、違う。そんなものは表面上の問題に過ぎない。本当は、もっと前から」
プリムラはあのとき、アリウムにこう言った。
『わたし、誰よりもアリウムちゃんのことを一番に恨んでるから』
激情もなく、ただただ冷たく、事実だけを告げるように。
つまりあれは、降って湧いた感情ではなかったのだ。
前から――おそらくアリウムがプリムラを見捨てたあの日から、ずっと。
『やだぁっ、やだよっ、離してえぇぇぇぇっ!』
『どうしてこんなことするのぉっ、わたしっ、わたしなにもしてないよぉ!』
『それはだめ……お願い、返して。それ、お父さんとお母さんがくれたっ……やだっ、やだああぁぁぁっ!』
『アリウムちゃんっ! アリウムちゃん、お願い助けてっ。あれは大事なものなの、アリウムちゃんも知ってるよね?』
『ねえ、どうして? どうして見てるだけなの?』
『アリウムちゃんっ、アリウムちゃぁんっ!』
『やだっ、やだああぁぁ! いやああぁぁぁああああああっ!』
叫び声は――今でも、頭から離れない。
もう何年も経っているのに、昨日のことのように思い出せる。
必死な泣き顔も、アリウムを見て絶望したあの表情も。
ひょっとすると、あの場所にいったこと自体が間違いだったのかもしれない。
変に希望を与えなければ、あそこまでプリムラは傷つかなかった。
アリウムが中途半端に、『守らないと』などと考えてしまったから――
『お前がこの家で暮らすにあたって、一つだけ守らなければならないことがある』
言い訳をするつもりはない。
『これはルビーローズ家の人間としての責務だ』
全てはアリウムの責任だ。
『同時に、お前の信じるべき正義でもある』
選択も、実行も、全ては彼女の意思によるもの。
だが――
『プリムラ・シフォーディは呪われた子だ。なにがあっても、近づいてはならない』
――他に方法はなかったのかと、今でも悔やみ続けている。
◇◇◇
身支度をしてリビングに降りたアリウム。
テーブルの椅子には、彼女の祖父が腰掛けている。
アトカー・ルビーローズ、現在62歳。
コロニー議会の議長を務めているため、安楽死の対象からは外れている。
彼はコーヒーを飲みながら、手元に投射されたニュース画像に集中しているようだ。
「おはようございます、お祖父様」
「ああ、おはようアリウム」
「今日の朝はゆっくりされているのですね」
「いつもに比べればな。あと五分もすれば出かけなければならない」
「そうですか……」
アトカーの多忙は今に始まった話ではない。
最近はこうして朝に顔を合わせることすら無い日々が続いていた。
「たまにはゆっくり休んで欲しいのですけど」
「あ、おはようございますお祖母様」
「おはよう、アリウム。今日は顔色が良くないみたいだけど大丈夫かしら?」
「問題ありません」
アリウムは嘘をついた。
気分は最悪だ。
誤魔化すように、祖母――フィーシャが差し出した紅茶のカップに口をつける。
もちろんそれに気づかぬフィーシャではないが、見て見ぬふりをした。
少なくともアトカーのいる前で聞くのはよくないと判断したのだろう。
「アリウム、少しいいか」
アトカーはニュースの閲覧をやめると、先ほどより少し低い声で言った。
重要な話をするときは、いつもこの声のトーンになる。
アリウムは背筋を伸ばし、太ももの上に軽く握った拳を置いて彼に向き合った。
「プリムラ・シフォーディの一件に、お前も関わっているそうだな」
ロクス・アモエヌスで起きた騒動――コロニーに伝わっているのは“プリムラとザッシュが決闘を行い、ザッシュが重傷を負った上にアニマを喪失した”という結果である。
プリムラのドールの姿が変わっただとか、喪失したアニマをなぜか彼女が持っているという情報も伝わっているが、重要な“なぜそのようなことが起きたのか”という部分に関しては謎のままだ。
「関わったと言っても、私は見ていただけですから」
「それはいい。だがわかっただろう、私が彼女を“呪われた子”と呼んだ理由が」
アリウムは唇を噛み、目を背けた。
なにも言い返せなかった。
「最近はあまり家に居られないが、お前の心に生じた迷いぐらいはわかる。いいか、あれに近づいてはならん。必ず呪いはお前にも降りかかることになるだろう」
「お祖父様、その呪いを解く方法を探すことは――正義には、ならないのでしょうか」
「ならん」
「なぜ、言い切れるのです?」
「呪いを解く方法など存在しないからだ。アリウム、余計なことを考えるでない。お前は正しい道を歩めば良いのだ」
「お祖父様……」
「アリウム、返事は?」
「……はい」
逆らえない。
逆らわないことが罪だと知っていても、彼女にとっては祖父に逆らうこともまた罪だからだ。
どうあがいても罪悪感を背負う結果にしかならないのなら、思考を放棄したほうが楽じゃないか。
だが、楽な道を選ぶ――それもまた罪だ。
(どうしろと言うんだ、私に)
澱んだ心は、さらに醜く濁っていく。
今のアリウムには、降り注ぐ人工雨の音すらも煩わしく思えた。
◇◇◇
プリムラは無事コロニーまで戻ってきたが、それから三日間ほど謹慎を命じられた。
表面上は、“身勝手な外部での決闘に対する罰”ということになっているらしいが、実際は学園復帰に際して生じるあれこれの問題を解消するために時間が必要だったのだろう。
彼女を嵌めたのが誰かはわからないが、彼らはすでに“この世にプリムラが存在しないこと”を前提として動き始めていたはずなのだから。
なにはともあれ、今日からまた学園に通うことができる。
ザッシュに勝利したあともクラスはEのままだが、順位は三位にまで上がっていた。
あとは誰でもいいから一人倒せば、順調にDまで上がれるはずである。
「学園には普通に通うのね」
「三年分のカリキュラムをこなさないと、正式に操者にはなれないから」
プリムラはヘスティアの用意した朝食を口に運びながら答えた。
別に作るよう頼んだわけではない。
あくまでヘスティアが自発的にやり始めたことである。
「それにしても、調理器具の使い方とかよくわかったね」
「ザッシュのときに見てたから。でも使い慣れた調味料がなくて困ったわ。どうにか近い味を目指してはみたけど――あ、もちろん現代の味覚に合わせて濃い目にしてクセは弱めにしたわよ。口に合うかしら?」
「……すごくおいしい」
プリムラが素直に感想を言うと、ヘスティアの表情はぱあっと明るくなった。
「それはよかったわ。今日のおゆはんも楽しみにしててね」
「こういうこと、昔からよくしてたの?」
「遊びに来た相手にはよく手料理を振る舞っていたわ。これでも料理の腕には自信があるのよ」
「それは食べてたらわかるけど」
いきなり現代人向けに調整してこれだけの味が出せるのだ、並大抵の腕ではない。
もっとも、すりつぶした芋から作ったパンだったり、豆を煮込んで作ったスープだったりと、食べ慣れないものばかりだが。
「でも、プリムラぐらいの年頃だと今どきの料理のほうが嬉しいわよね」
「これはこれで新鮮だよ」
「でしょうけど、やっぱり完全に再現は出来ないし……食用の虫なんかもコロニーには売ってないのよね」
それは勘弁願いたい、とスープをすすりながら祈るプリムラ。
「レシピが見れたらいいんだけど、書物として残ってるのは専門技術ばかり……」
「機密性の高い情報以外は物理書籍として残す必要がないから仕方ないよ。そんなにレシピがみたいなら、ネットワークにアクセスしたらいいのに」
「私にできるの?」
「できないこと無いと思うよ。“見たい”って思えば勝手に検索画面が開くんじゃない」
「うぬぬ……見たーいっ!」
「言わなくていいのに……」
苦笑するプリムラだが、一応それでもネットワークとの接続に成功したらしい。
正直、彼女自身もオリハルコンの塊であるヘスティアがアクセスできるかどうかは懐疑的だったのだが。
「本当に色々でてきたわ、すごいのねえ今どきの“ねっとわーく”ってやつは。でもこれで夕食のメニューには困らないと思うわ。楽しみにしてなさい、プリムラ」
「う、うん」
どうにもヘスティアは、他人に世話を焼くのが好きな性分のようだ。
ここまでやっても、別にプリムラに対して個人的に情を抱いているわけではないのだろう。
なにせ、出会ってまだ数日しか経ってないのだから。
おそらく彼女にとって、それが当たり前なのだ。
朝食を終えると、身支度を整えプリムラは寮を出る。
ヘスティアを連れていると目立つ――というより学園に入る前に面倒なことになりそうなので、彼女には一旦ただのアニマの状態に戻ってもらった。
この状態では物質に干渉することはできないが、プリムラとの会話は可能である。
もちろんヘスティアが体に使っていたオリハルコンの塊がそこに残ることになるのだが、プリムラが魔術で圧縮し持ち運ぶのでかさばることもない。
そこから歩いて学園まで向かうことになるのだが、否が応でもプリムラの存在は周囲の注目を集めていた。
元から有名人ではあるが、ザッシュを打ち倒した話もすでに伝わっているのだろう。
どうやら彼は今、病院で治療を受けているらしいが、精神面でのダメージが大きい上に、アニマの再付与に関する法律が整備されていないため、学園復帰はしばらくの間無いだろうという話だ。
もっとも、治療が完了し新たにアニマを手に入れられるとしても、本人がそれを望むかどうかは別の話だが。
校門をくぐる。
見張るようにクリフが立っていたので、プリムラは丁寧に挨拶をしておいた。
すると彼は返事をしてくれない。
悔しげに歯ぎしりをするだけだ。
親しくしていたザッシュが病院送りにされたのがそんなに悔しかったのか、あるいは他の理由があるのか。
なんにせよ、挨拶をしないのはよくない。
プリムラはあえて彼に近づき、満面の笑みで言った。
「おはようございます、クリフせんせ」
「……おはよう」
小声で返すクリフ。
教官の愉快なリアクションに、プリムラは「ふふっ」と微笑んで、その場を去り校舎へ向かう。
『プリムラ、あなた楽しそうね』
「そうかな……いや、そうかもしれない。だって、みんなすっごく面白い顔してるもん」
愉快だ。
いつもならこの段階で誰かがちょっかいを出してくるのに、今日はみなが様子を見ている。
ザッシュを倒したという話だけで、そんなに恐ろしいものだろうか。
靴箱にもイタズラはされていないし、廊下で足を引っ掛けられたり笑われることもないし、クラスEの教室に入ったって――
「おい、プリムラ」
――と、そううまくはいかなかったようだ。
プリムラの前に立ちはだかる三人の男子。
「おはよう、ザッシュの腰巾着さん」
彼らはかつて、ザッシュの手下だった雑魚だ。
それぞれクラスEの11位、16位、21位。
はっきり言って、大したことのない連中だった。
そんな奴らに対しても反抗できないほど、以前のプリムラは無力だったのだが。
「聞いたぞ。ザッシュさんに大怪我させたのはお前らしいな」
「うん、結果的にそういうことになったけど、それがどうかしたの? わたしとザッシュは、正々堂々決闘のルールにのっとって戦っただけだよ?」
「いいや嘘だな。お前みたいなアニマの使い方もしらないやつが、ザッシュさんに勝てるわけないだろ! クラスCだぞ? 一年生で二番目に強い人なんだぞ!?」
「じゃあわたしが一年で一番強いってことじゃない? っていうか、邪魔だからどいてもらっていい?」
「調子に乗るなよ、人殺しのくせして!」
もはや“娘”という部分すら端折って掴みかかってくる馬鹿三人。
いや、ひょっとすると彼らはまだ、プリムラが事件に関わっていたというデマを信じているのかもしれない。
なにせザッシュをここまで慕っているのだから。
なんにせよ、彼らは完全にプリムラを敵視している。
怒りに任せて、先頭の男が横を通り抜けようとする彼女の腕を掴んだ。
「言えよ、どんな卑怯な真似してザッシュさんにあんな怪我負わせたのか。言って、この場で謝れよ!」
「なにこの手」
「言えっつってんだよ、プリムラ!」
「ねえ、なんなのこの手」
「逆らうなよ。お前呪われてるんだろ? だったらザッシュさんに逆らっちゃ――」
聞く耳持たず。
しびれを切らしたプリムラは強引にその手を振りほどくと、苛立ちながら回し蹴りを彼の顔面めがけて繰り出した。
そして頭部に直撃する寸前で止める。
ゴオオォッ――と生じた風が彼の顔に吹付け、髪を乱した。
「うっ……」
ただの“蹴り”で、あんな風圧は生まれない。
当たれば頭蓋骨が砕けるような威力であることは、寸止めを食らった男自身がもっとも理解していた。
他の二人も、まばたきすら忘れてプリムラのほうを見ている。
確かに操者の身体能力は普通の人間より高いが、あんな威力を出せるほどではない。
彼らが呆然としてしまうのも仕方のないことだった。
「ふぅ……」
プリムラはため息をつくと、足を降ろして今度こそ自分の席につく。
まあしかし、反撃できるようになった分、前よりはこれでも楽になったほうかもしれない。
それに、明日からはうかつにちょっかいは出せなくなったはずだ。
クラスメイトがプリムラに向ける視線は、軽蔑というより怯えに近い。
中には震え上がっている女子すらいた。
「さすがにビビりすぎじゃない?」
少し違和感を覚えるプリムラだったが、聞いたところで答えてくれる雰囲気でもない。
ひとまずそのことは忘れて、授業がはじまるまでゆったりと過ごすことにした。
誰にも絡まれず、静かに過ごせる朝というのは人生ではじめての経験なのだ。
外はあいにくの雨模様だが、その音すらも今は心地よかった。
◇◇◇
その後プリムラは、ガラテアから引き継いだ圧倒的な頭脳と魔力、そして身体能力で周囲を驚かせた。
筆記試験を行えばダントツで一位を取り、実技を行えばぶっちぎりで他を圧倒する。
もはやクラスEなどというレベルで無いことは誰の目に明らかであり、クラスDに昇格するのは時間の問題だった。
しかし周囲を驚愕させたのは、それだけではない。
まるで別人になったかのような、冷酷で傲慢な性格――特に、“上位の操者を煽るような発言”が彼女の口から飛び出すたび、学園中に緊張が走った。
やれ筆記試験で一位を取れば、
「学園のテストって大したことないよね。上級生に天才を自称してる人がいるらしいけど、その人も意外とそうでもないのかも」
と言ってクラスB上位の三年生を馬鹿にするし、実技試験で優秀な成績を叩き出せば、
「今のわたしならクラスSにだって簡単に勝てちゃうかも。クラスAぐらいなら雑魚なんじゃないかな。BとかCは論外だよね」
などと全方位に喧嘩を売る。
しかもプリムラがそういった発言をするたびに、学園の新聞部が面白がって記事を作るのだ。
またたく間に学園内には彼女の敵が増えていく。
しかし当のプリムラは、まったく問題視しておらず――むしろ今の状況を楽しんでいるようにも思えた。
そんな調子で、プリムラが学園に戻ってきてから二週間ほどが経った。
放課後、寮の部屋でくつろぐ彼女に対し、ついに我慢できなくなったヘスティアは問いかける。
「ねえプリムラ、あなたに……聞いておきたいことがあるのだけれど」
「そろそろ言われるだろうなと思ってた」
ぐでっとソファに腰掛けていたプリムラは、体を起こしてヘスティアと向き合う。
その表情からは、最近学園で見せている、かつてのガラテアによく似た傲慢さは見て取れない。
「心配してくれたんだ」
二週間一緒に暮らしてきて、ヘスティアがとてつもないお人好しであることはプリムラも理解した。
そんな彼女が、今の彼女を見て不安になるのは当然のことであった。
「最近のあなたは、事件の真相を暴くって言った割には、自分の力をひけらかして周囲の顰蹙を買ってばかりだわ。それがわかっているのなら、どうして?」
実際、事件の証拠集めをしているような様子もない。
ヘスティアが呆れるのも仕方のない話だった。
「わたし、学園でクラスEとは思えないぐらいの成績を出してるよね」
「それはまあ、そうね。そもそもクラスCのザッシュを倒したんだから、それ以上の実力はあるはずよ」
「でも上がれない。なぜなら学園で行われる試験は月に一回しか無いから。それに試験でいい成績を出したとしても、一度の試験ではせいぜいクラスDの下位ぐらいにしかなれない」
「それはわかるわ。でも、それとこれとにどんな関係があるって言うの?」
「一気にクラスを上げるには、決闘を行うしかない。けど決闘はお互いの同意がないとできないわけで――」
「……あ。もしかして、相手のほうから決闘を申し込んでくるように仕向けてるってこと?」
頷くプリムラ。
ヘスティアはがっくりと肩を落とした。
「もっと早く言っておいてくれれば……私、あなたがガラテアに乗っ取られたんじゃないかって心配してたんだからね!?」
彼女はがっと肩を掴み、プリムラの体を激しく前後に揺らす。
「ごめんごめん、成果が出たら話そうと思ってたんだけど」
「でも成果はでなかった、というわけね」
「うん……血の気の多い馬鹿が一人か二人ぐらいは引っかかると思ったんだけどな、特にザッシュの手下あたり」
しかしプリムラの予想に反して、今のところ彼女に向かってくるような輩は一人もいない。
以前までは頼んでもいないのにつっかかってくる奴らばっかりだと言うのに、だ。
唯一向かってきたのは、初日のあの三人だけ。
確かに寸止めで脅したりはしたが、あの程度で諦める程度のしつこさなら、プリムラが以前のように追い詰められることはなかったはずである。
「クラスCになれば、軍のデータベースにアクセスできるようになる。最低限そこまで上り詰めることができれば、今よりも情報は手に入れやすくなる。だから早いところCまでは上がりたいんだけど……うぅん、見下してたわたしに逆に見下されるって、すっごい屈辱だと思うのになぁ……やっぱりあれのせいかなぁ」
「そうね、十中八九“呪い”のせいでしょう」
呪い――それはいつの間にか学園に広まっていた、プリムラに対する新たな蔑称であった。
彼女の人格が変わり、強力な力を手に入れたのは、プリムラに眠っていた呪われたシフォーディ家の血が目覚めたせいだ、などというわけのわからない妄言を伴って。
「呪われた子に近づくと自身も呪われる……そんな噂が、わたしが戻ってきた直後に流れ始めた。これってどう考えてもおかしいよね」
プリムラが決闘を使って上位クラスを目指そうとすることを予見するのは不可能ではない。
彼女をコロニーから消し去ろうとし、なおかつ彼女が事件について探るのを拒む何者かが、妨害するために呪いの噂を広めた。
それはあながち無理があるとも言えない推理である。
もっとも、強力な権力を行使し追放しようとしたときに比べると、いささか地味なやり方ではあるが。
「どうするの? まずは噂の出処を探る?」
「うん、追いかけていけば必ず手がかりにはたどり着くと思う。今はそうするしかないかな……ん?」
「どうしたの、プリムラ」
「足音……誰がこっちに近づいてきてるみたい」
二人の視線が、部屋の入り口に集中する。
少しすると足音はヘスティアにも聞こえる大きさになり、そして部屋の前で音は止まった。
すぐに呼び出し音が鳴るかと思ったが――なぜか来訪者はそこから動きを見せない。
プリムラとヘスティアは顔を見合わせ、首を傾げた。
足音が聞こえたということは、この部屋の様子を伺っているとか、聞き耳を立てているというわけではなさそうだ。
この部屋に用事はあるが、プリムラに会うことをためらうような人物――
考えてもよくわからなかったので、手っ取り早くこちらから開けて確かめることにした。
逃げられないよう、素早く扉を開く。
「あ……」
来訪者はプリムラの顔を見るなり、いかにも気まずそうな表情を見せた。
「なにやってんの」
心底呆れた、と言った様子のプリムラ。
そんな彼女を前に立ち尽くすアリウムは、何も言わずにうつむくばかりだった。