☆共感覚
「やっぱりトルストイってすごい文豪だわ。進化は起こそうとして起きるんじゃなくて、お産みたいに自然と起きるものだって気付いたんだから」
理沙は文庫本の背表紙を人差し指でなぞりながら眼を細めた 今日は僕と理沙が小さい頃からやっている、夜会の日だった。
場所は決まって僕の部屋で行われるこの夜会は、毎月第四日曜日の二十二時から開かれる。月交代で担当を決め、その月に呼んだ本の中で一番ためになった本を発表するんだ。
この画期的な夜会は、『先月の読書で感動したことを発表しようの会』という名前にしている。もうこれを初めてかれこれ五年になる。
今回は理沙が発表する番で、トルストイの『人生論』が見事選出されて評議にかけられていた。理沙は普通の小説だけでなく難しい哲学書や、人生の指南書まで読みこなすので、理沙が担当の日はかなり骨が折れる。
「たしかにね。僕の進化のイメージは『やってやるぜ』みたいな、一瞬のきらめきで起こるものだって勘違いしていたよ」
お腹のなかにいる赤ちゃんが臨月になるとかっと眼を見開き、ついにこのときが来たんだと、産道をこじ開けて出てくる。なんていうことでは当然なくて、赤ちゃんはお腹でこれ以上大きくなれないから産道のほうに押しやられて、そこに子宮の収縮が加わって生まれてくるというのが、本来のお産の正しい理解らしい。
トルストイはここに着目した。
進化も赤ちゃんと同じように、これ以上同じ環境に留まることが出来ないという切迫があって初めて、成し遂げられるのだと気付いたのだ。それはすごい考えだなと舌を巻いた。
「本当の意味での進化は、一瞬のきらめきでは起こらなくて積み重ねなんだね。生物ってのは長い年月を掛けて進化してきた。それはもしかしたら、マグマが地下ですこしずつ溜まって、それがある日一気に噴火するみたいなことなのかな」
理沙は僕の話に身じろぎ一つしなかった。
きっと僕の言葉を頭の中でそしゃくし、自分の理解とすり合わせているのだろう。理沙はしばらく黙り込み、そして言葉を一つ一つ丁寧につむいでいく。
「人間の進化ってどうしたら起こせるんだろうね。人間ってつらい環境はいやだから、すぐ楽な方に流れてしまうでしょう。そうしたら人間が進化することはとても難しいことになってしまう」
理沙の話は角のない二つのパズルピースをくっつけるみたいに難しいことがあるけれど、理解できたときはピースがつながったように嬉しくなる。
「だからライオンが子供を崖から突き落とすみたいに、人間もつらい環境に身を置いたほうがいいのかもしれない」
高尚な話が続いていきそうだと察知した僕は、理沙に白旗を掲げる。
「理沙、僕は考えることに疲れちゃった。これ以上の難しい話はパス。この調子で続けられたら、明日学校を知恵熱で休むことになるからね」
僕は早くも戦線放棄した。僕は理沙みたいに賢くないし、我慢強くもない。つらい環境に身を置いた方がいいなんて主張を、そうだそうだと受け入れることはできないよ。楽なのが一番いい。
そんな僕の態度が気に入らないのか、理沙はふぐみたいにむくれてしまう。
「熱なんか全然出てない。颯太ってば、また適当に話を流しているでしょう」
「ちゃんと聞いているよ」
「聞いてないわよ。私には分かっちゃうんだからね、『共感覚』のおかげで」
ああそうか、と僕は納得して、やれやれというジェスチャーをしてみせた。
「そうだったね。まったく、厄介な妹だよ」
理沙が頬をすぼめ、口元に手を当ててクスクス笑う。童顔な顔がさらに幼くな
る。
「共感覚ってやっぱりすごい能力よね」
「うん、そうだね」
そして僕たちは夜会を中断し、二人が今よりも感情が重なり合っていたころの話を始めた。
「颯太は覚えているかな。小学校五年生の運動会、ずる休みしたことがあったでしょう」
「あれ、そんなことあったっけ」
「あったの。それでね、私だけは共感覚で颯太の体はどこも悪くないって分かっていたから、お母さんに言いつけようとしたの。『お母さん、颯太がずる休みしようとしている』って」
「言いつけるなんてひどいね」
僕は足をぶらぶらさせて、ベッドをギシギシ鳴らした。
それは小学生のころにやっていた癖の一つで、親にずいぶん注意されてなおした癖だった。でも理沙の話でこの癖を思い出してしまい、ふたたびやってみる。意外に楽しい。
理沙はそのことに気づいているけどあえてなにも言わない。理沙は僕に甘い。
「ひどくないわよ。でもあまりに颯太の演技がうまくて、なんだか自分の共感覚に自信が持てなくなったの。もしかしたら本当に体調が悪いのかなって心配したんだから」
我ながらめんどくさい子供だったなぁ。
「クラス対抗リレーが嫌だったんだよ。あんなの、足が遅い僕みたいな子供にとって公開処刑なんだ」
自分でも情けないと思ったけれど、理由を添えておいた。でも言われっぱなしじゃ面白くない。そこで一転、こちらから反撃に出る。
「でもそれなら僕だって言いたいことがあるよ」
「なによ」
私に非なんてあるわけないと言いたげな理沙は、後ろで束ねた髪を前に流し、手を櫛みたいにあてがって髪をとき始めた。
「理沙が小学校二年生のとき、インフルエンザに罹ったよね。あのときは僕も大変だったんだから」
「ああ、あのこと」
気のない返事が返ってくる。僕の片割れは、なんだかさっきから僕の話をおざなりにしていた。今も前に垂らした髪に枝毛がないかどうかを上目遣いに確認している。いただけない。
「理沙は診断書が出るから薬をもらえて堂々と休めたけど、僕は原因不明の奇病ってことで大人たちは大騒ぎしたよね」
「たしかに、そうだったね」片割れはしぶしぶ認めてくれた。
☆
あれは今思い出してみても、大騒ぎの名に恥じない事件だった。
僕と理沙の検査をしてくれた病院のかかりつけの先生は、首をひねり続けた。僕の症状も理沙と同じインフルエンザなのだけれど、どれだけ簡易キットで検査をしてもウイルス陰性で結果が返ってくる。
そんな僕に、先生は何度も検査のための棒を鼻に突っ込んだ。そのたびに僕はむせてしまう。あまりに不憫だと、見かねたおばあちゃんが「まだ原因が分からないのかい、このヤブ医者」と激しく罵った声を、糊のようにはっきりしない意識のなかで僕は聞いたんだ。
両親は僕たちが普通とは違う双子だと出生当時から説明されていたので、これは難しい病気なんじゃないかと心配して有給休暇を取って、つきっきりで看病してくれた。
父さんはどんどん食が細くなる僕に、当時お気に入りだったアイスを二ダースも買ってきてくれた。母さんはいままで仕事にかまけて子供の面倒をおばあちゃんに任せっきりにしていた自分への罰なんだと、うんうん高熱でうなる僕の横で自分を責め続けた。
おばあちゃんはおばあちゃんでやはり心配し、奇病の原因をあの手この手で探った。そして友達に良く効く煎じ薬はないかと電話した際に、よく当たる高名な占い師がいるという情報を聞きつけた。
相談してみると、これは一種の呪いかもしれないと脅され、それはいけないと焦ったおばあちゃんは、親が看病に疲れて眠っている隙に、僕をタクシーに乗せて近くのお寺に駆け込んで、特別に加持祈祷をしてもらったそうだ。
そうこうしているあいだに理沙のインフルエンザが寛解し、僕の症状も嘘のように消えてことなきを得た。だけどおばあちゃんが僕のために見せてくれた、たくましさと滑稽さ、そして愛情の深さは、今でも僕たちの家族の伝説として語り継がれている。
☆
「でもちゃんと謝ったじゃない。こんな変な体だったなんて当時は分からなかったし、それに好きでインフルエンザに掛かったわけじゃないんだから」
理沙は納得いかないようで、「いーっだ」と両方の口角を人指し指で引っ張った。そんな無邪気な理沙を見ながら思う。
こうして振り返ると、共感覚で色々困ったこともあったけど、やっぱり大切な絆だ。
「はいはい、痛み分けってことで。病気にならないようにしないとね。おたがいのためにも」
「分かっています、お兄ちゃん」
理沙のわだかまりはまだ解けなくて、ちょっと不機嫌だ。僕はそんな理沙の気持ちが手に取るように分かってしまう。因果な体に生まれてしまったことは、おたがいにとって不幸なのかもしれないけど、同時に幸福なことでもあるはずで。
僕はなんだかんだで共感覚に助けられている。
僕と理沙は双子だ。それも一卵性双生児の異性の双子。
医学的には、一卵性双生児は同性で生まれてくるのが普通らしい。双子で性別が違うのは二卵性双生児の場合だけ、だそうだ。しかし僕たちはどういうわけか、一卵生双生児なのに異性で生まれてきた。
僕たちをとりあげてくれた医師はひっくり返りそうなくらい驚いて、遺伝子検査を含めた様々な検査を行ったらしい。けれども僕たちに外から見える異常は見つからず、医師たちはただただ生命の神秘に眼を丸くしたらしい。
だけどそうじゃなかった。僕たちにはある秘密があった。それは病院の検査では到底発見できないものだった。それはなんだったのか。
それは、僕たちは感覚を共有する双子だったんだ。
幼いころはおたがいの体に起こる変化、インフルエンザによる高熱や、怪我した時の鋭い痛み、美味しいものを食べた時のあの身悶えるように幸福な瞬間など、ありとあらゆる感覚を共有した。
台風で学校が休みになった嬉しさも、友達と遊びたいのに親に勉強しなさいと脅されるもどかしさも、すこしずつ暗くなるのが早くなる夕暮れの淋しさも。それは共有されて当たり前なものとして僕たちの内部にあった。
あのインフルエンザ事件で、僕たちの特異な体質に気付いたおばあちゃんは、それを共感覚と名付けた。
「いいかい、颯太と理沙。共有される感覚という意味で、共感覚だよ。私には分かるんだ。神様があなたたちにその希有な能力を与えた意味が。それはゆくゆく、あんたたちを救うことになる。大事にしなさいね」
おばあちゃんは僕たちのぽってりした手を握りながら笑いかけてくれた。自分の感覚と相手の感覚。二つの感覚で伝えられるおばあちゃんの手は、ホッカイロのように暖かかった。
おばあちゃんが僕たちの秘密の能力に素敵な名前を付けてくれた。僕と理沙は空いていた手を取り合って喜んだ。その喜びも共感覚が二倍にしてくれていたんだ。
そんな素敵な共感覚だけど、年を経るごとにどんどん薄れてきているんだ。だけど今でも僕たちをつなぎ止めているのはたしかだよ。
色々と不思議なことが多い世の中だけど、まさかそれが自分たち降り掛かるなんてびっくりだ。でも僕はなかなかこれを気に入っている。一筋縄ではいかないことが多くて参っちゃうけど、理沙とつながっていると思えるのは心強かった。
理沙にとってどうなのかは、分からないけどね。