☆五色の夢 1
この小説を、私を愛してくれた祖母と生きる勇気をくれた親友に捧げます。
僕が1人の人間として歩むことになったきっかけ。
それは友達の冷が、ペットボトルのオレンジジュースを買ってきたところから始まる。オレンジジュースは目が覚めるような、あざやかな橙色をしていた。
高校二年生の僕は、教室の隅っこで音楽を聴きながら、冷がこちらに近づいてくるのをぼうっと眺めていた。
昼食時間を終えた教室では、思い思いの昼休みが消費されている。
五限目の数学の予習に忙しい人もいれば、おしゃべりに夢中なグループもいる。はたまた全力で取っ組みあう男子たちもいる。
冷は昼休み早々にお弁当をかきこむと、サッカーのために教室を飛びだしていた。大陽が眩しいグラウンドで、思う存分ボールを蹴ってきたんだろう。冷の額には滝のような汗がしたたっている。
「ったく。梅雨が明けたそばからむし暑くなりやがって」
冷は僕の机に乱暴にペットボトルを置くと、対面の机にどかっとお尻を落ち着け、手についた水滴を制服のズボンでぬぐった。グラウンドの砂ぼこりで、ズボンはまだらに茶色い。
「やってらんねぇ」
「地球温暖化らしいよ。地球温暖化」
僕は携帯から伸びたイヤホンを耳から外し、机のうえに置いた。
たしかに今日は一段と暑い。教室は今やサウナ状態。汗でぐっしょりの下着が体にまとわりつき、ワイシャツから透けていないか心配だ。
「僕たちの文明が生みだしたフロンガスがオゾン層を破壊して、紫外線が人間に猛威を振るう。なんて皮肉なことだろうって、現代評論文に書いていたよ」
「そんなの聞いてねぇっつうの」
プロのサッカー選手をまねた長い前髪がゆらしながら、冷はなにか面白いことはないかと悪戯色に眼を光らせる。
「透の奴はどこ」
「ん、そこ」
僕は冷の隣の席を指差す。無防備な脇腹が上下しながら、すやすやと寝息を立てている。
「ほかのクラスに遊びに行ってるかと思ったぜ。おい、透」
「冷、やめてあげなよ。部活で疲れているんだよ」
「そんなの理由になんねぇよ。起きろ、寝坊助」
僕はこれから起こるであろう、ちょっと先の未来を想像する。
冷のちょっかいに透は顔をしかめて、なにしてくれてんだよって怒鳴る。そしたら冷は、悔しかったらここまでお出でと逃げだして、透はよくもやったなと追いかける。僕とハカセは置いてきぼりだ。それは去年から変わらずに続いてきた、日常の一ページ。
オレンジジュースに眼を奪われたのは、いったいなんだったのかな。
そこで開いていた窓から、びゅうっと熱い風が吹きこんだ。
クリーム色のカーテンがこんもりとたわんで、寝癖のついた僕の後ろ髪を引っ張っていく。いたるところの机でプリントがパタパタ、鉛筆がカラカラとお祭り騒ぎだ。
僕は慌てて席を立ち、窓を締めた。窓の向こうでは校庭を囲む桜の木がざわざわしていて、それらは薄い白桃色の花びらの代わりに、ちいさな緑色の葉っぱを茂らせていた。
冷の言うとおり、夏の足音は近い。
「なんだよ、うざってぇな」
しつこい冷のいたずらに我慢できず、黙っていた背中がうめいた。透はおもむろにふりむいて「なんだよ」と整えられた眉を不満そうに持ちあげる。
額にはうっすらと汗がにじみ、ほんのり赤い。
「なに寝てんだよ」
「ああもう、最悪。退屈だからって起こしてくれてんじゃねぇよ。暇なら勉強しろ」
しばし睨みを効かせていた透は、僕の机の飲み物に声を弾ませた。
「お、いいもんがあるじゃん」
「それ、冷のだよ」
「冷、俺の安眠を妨害した罰だ。オレンジシュースを恵んでくれ」
透は壁につむじを当てるようにして天井を見上げ、がま口みたいに大きく口を開けた。早く注ぎ入れるようにと指でジェスチャーをしている。
冷は透のずうずうしさにやれやれと肩をすくめるので、ちょっと面白かった。
「絶対に顔を動かすなよ。こぼれたら自己責任な」
「へいへ〜い」
オレンジジュースが白い飲み口を伝い、まとまった太い線となって透の口に吸い込まれていく。
それを見守っていたら突然、僕の頭のやもやがぱっとほどけて、視界がひらける。
「そうだ。昨日の夢だ」
冷や透がなんだなんだとはしゃぐ僕を見た。僕は恥ずかしさのあまり、耳が一気に熱っぽくなった。
僕の双子である理沙に、心のなかで謝罪する。嫌なドキドキを伝えてしまってごめんね。
「さて。いっちょ透くんに、バスケで培った平行感覚を披露してもらいますか」
冷がおもむろに立ちあがると、透の額にペットボトルの蓋の方を下にして、なにやら真剣に位置の調整を始めた。
「透、ちょい顔を左に」
「こうか」
「オッケー、もうちょい首を逸らして。うん、そこだ。お、乗った乗った。透くん、君はすばらしいバランス感覚を持っているようだな。君は将来、すごいバスケット選手になるだろうよ」
冷はだれの真似のなか、お腹にひびくくらいの低くて渋い声を出した。
「このまま十分間、そのままの姿勢で落とさずにいられたなら、私はそのオレンジジュースを君に譲ろう」
「お、言ったな。その言葉、後悔させてやるよ」
透は水族館のアシカが器用に鼻の上でボールを操るみたいに、おでこに皺を寄せてバランスをとっている。冷はその様子を携帯のカメラで激写していた。
この二人はいつも下らないことばっかりしている。
僕は二人を放っておいて、ハカセに五色の夢の話を持ちかけた。
「ねえ、ハカセ。ちょっと」
僕の右隣には『ニュートン』の量子力学の特集記事を眺める、学年一秀才のハカセがいた。ぱっと見る限り、ハカセは雑誌に集中しているように見えるんだけれど、しっかり僕の話にも耳をそばだているんだ。
「なんだ」
「昨日さ、白い部屋にペンキを塗っていく夢を見たんだ」
「ペンキを塗る夢」
「そうなんだ。僕たち六人は真っ白な部屋のなかにいたんだよ。部屋の大きさは、そうだなぁ。この教室くらいだったかな。部屋は明るいけど、とにかく真っ白なんだ。壁も、床も、天井も吸い込まれそうなくらいに真っ白で、模様はなくて無機質な感じ」
「ペンキを塗る夢は、吉夢と凶夢の両方になりうる」
ハカセは雑誌のページを涼やかにめくる。さすがはハカセ。精神学者を目指し
ているだけあって、人の夢にも精通している。
「へぇ、そうなんだ。知らなかったな」
「塗る色によって違う意味になったはずだ。六人ってのは、どういうメンバーだ」
話の流れを整理するみたいに、ハカセは右手で机をトントンとタップした。
その振動は机越しに僕にまで伝わってきて、ハカセの好奇心が僕に流れ込もうとしているみたいだ。
僕は要領を得ない説明をしてしまったことを申し訳なく思った。
「ああ、ごめん。六人っていうのは、僕とハカセと透と冷。そして残りの二人は亜弥と理沙。いつものメンバーだよ」
僕がそう答えたときだ。
「うわ、ちょ」
振り向くとそこには、透の額で今際の限りにぐらつくペットボトルがあった。
バン!
落ちた衝撃で、ペットボトル内には白い泡がたくさんあらわれた。それらはオレンジジュースとそりが合わないみたいに、橙色の境界でゆらゆらしている。
「はい、チャレンジ失敗。残念でしたぁ」冷は笑っている。
「お前の置き方が悪かったんだよ。お前のミスだ、お前のミス」
透はもう一度やらせろと冷に食い下がった。冷がしょうがねぇなとオレンジジュースを床から取りあげたところで、暇をもてあます二人に声が掛かった。
「お〜い。透と冷。お前らなにやっているんだよ。暇ならこっち来いよ」
それは教室中央のクラスメイトからで、手招きしている男子のまわりには、一際体格の良い男子が五人ほど集まっていた。
スポーツ系の部活に所属しているクラスメイトで、冷や透といつも楽しそうに騒いでいる、通称『元気組』の人たちだ。
一つの携帯をみんなで囲っているところを見ると、ネットで面白い動画でも見つけたのかな。
「お呼ばれだ、行くぞ、透」
「うっす。夢の話はまた今度ゆっくり聞くわ。またな、颯太」
「ばいばい」
透は僕に断りを入れて、冷の背中に追いつこうとする。僕の机の前を通過したところで、焦りすぎただけだろうけど、透の足がハカセの机の足にぶつかってしまう。透とハカセが無言で視線を交差させる。
「……わりぃ」
「べつにいい。気にしてない」
どこか間の悪いやりとりで、透はすぐに踵を返してしまった。
僕はそのやりとりがとても悲しい。僕と透、僕とハカセは大が付くほど仲良しなのに、透とハカセの関係はちょっと微妙なんだ。特に透がハカセに冷たい。
ハカセはなにごともなかったように指を折り始めた。
「男子は俺と颯太、そして冷と透の四人、女子は亜弥と理沙の二人で、合計六人か」
「そう、その六人。僕たちはそれぞれ別々の色のペンキを持っていたんだ。ハカセは青、冷は橙、透は紫、亜弥が赤だ。でも、ちょっと待って。僕と理沙は同じ色で黄色だったかも」
「颯太と理沙だけが同じ黄色」
「そうだったんだよ、不思議だよね」
僕たちはそれぞれの色のペンキを持って、その白い部屋を塗っていくことにしたんだ。
僕と透と冷はせっかちだから、ペンキの入ったバケツごと部屋の壁にぶちまける。そしたらペンキが四方八方に飛び散って気分爽快だった。
残りのハカセたち三人はどうしていたかというと、刷毛を使って塗っていく。部屋の四隅とか僕たちが立っている床とか、僕たちバケツ組が塗りそびれた壁とかを、コツコツ丁寧に。
みんなのペンキがすっからかんになったあとで、僕たちは部屋を見渡した。
そしたら白い壁はどこへやら、部屋は五色の色できれいに塗られていたんだ。まるで虹の部屋だ。そこで僕たちは満足してみんなでハイタッチした。そして僕と理沙が最後にパチンと手を合わせた瞬間、夢から覚めた。
夢の感覚はとても鮮明で、現実みたいに生々しかったなぁ。
ペンキのシンナーで鼻の奥がツンと痺れて、透たちがぶちまけたペンキは壁にはね返って水飛沫になり、返り血みたいに吹きかかったんだ。すると僕たち自身にも色が付く。
気がつくと皆の笑顔が五色に混ざりあっていたんだ。思い返してみても素敵な夢だ。
「颯太らしい、メルヘンチックな夢だ。だけど颯太と理沙が同じ色だったことは考察に値するな」
ハカセの眼鏡の奥にある知的な眼が、僕だけに注がれた。自分が実験台に乗せられて観察されているみたい。味方だったら最高に心強いけど、敵には絶対に回したくないタイプかもしれない。
「うん、僕と理沙はやっぱり“特別な”双子みたい」
僕が言うのを聞くか聞かないかうちに、元気組の人たちはなにやら奇声を上げながら教室を飛びだしていく。
ハカセもこれでやっと教室中央の自分の席に戻れるので「またな」と告げて帰っていく。ひょろっと縦に長いハカセの背中を見送って、僕はお気に入りのイヤホンを耳に差しなおす。
お掃除のクラシックが放送ボックスから流れてくるまでのあいだ、僕は自分だけの昼休み時間を満喫したんだ。
☆
放課後、黒板の日付と日直が変わった教室で、僕は自分の机でぼうっとしていた。
机の上には白紙の進路希望調査がある。
それは帰りのホームルームで配られたもので、両親とよく話し合って来月までに提出しろとのお達しだ。今の教室には僕一人だけしかいない。
最後まで残っていたクラスメートも二十分くらい前に出ていった。
もしだれかが残っていたら、ずいぶん将来のことで悩んでいるんだねと心配されていたかも。でも僕は、進路を真剣に吟味していたわけじゃないんだ。
放課後のゆるみ切った空気を肺のすみずみまで味わうように欠伸しながら、僕はお昼に出されたハカセの謎を解こうとしていたんだ。
ハカセの言うとおり、あの五色の夢はまるで暗示みたいだった。
なぜ僕と理沙だけ同じ色のペンキだったのか――
その答えを自分なりに探していたんだけど、さっきから考えはまとまらず、反復横跳びみたいに同じところを往復している。
なんだかこういう難しいことを考えるのって、僕一人ではもてあましてしまう。
明日ハカセに頼んで、一緒に考えてもらおうかな。ハカセはなんたってフロイトの『夢判断』という分厚い本も読破している。ちょっと僕とは次元が違うんだ。
そんなことを考えていたら「おい、颯太。まだいたのか」と名前が呼ばれた。
とても耳に馴染む声。
はっと我に返ると、赤々と夕日に染められていたはずの教室は、いつのまにか鉛筆の芯が溶けだしたような暗闇に沈んでいた。
さっきまでどこからか聞こえていた間の抜けたフルートの音も、いつのまにか止んでいる。
「ま〜た、ぼんやりか」
僕の名前を呼んだのは、透だった。
テロテロとしたズボンに、風通しの良さそうな黄色のバスケシャツ。それに紫色のジャージを羽織っていて、教室の後ろの出口にもたれていた。
足下にはパンパンに膨れた黒のエナメルバックが置いてある。そのバックの中身は、きっとクシャクシャに詰め込まれた制服だろうな。
「電気も付けず、一人寂しく座っていた颯太くんに、友達の透くんはびっくり」
透は自分の冗談で頬を緩めながら、僕の横の机に荷物を降ろした。それから
「ああ、疲れた疲れた」とイスをガラガラ引きずるように引いてドカッと座る。
透の体からは部活後のほとばしる熱気がして、それから制汗スプレーの甘い匂いがした。
「お疲れ、透は部活上がりなの」
「ああ。今日は男子バレーが体育館で特別練習する日で、バスケは早めに切り上げたんだ。もうちょい早く終わっていたんだけど、適当にバスケの連中と駄弁ってて、気付けばこんな時間よ。だれかいるかなってふらっと教室を覗いてみたら、あらびっくり、颯太がいたわけよ。ふわぁ」
透は眼をぱちくりせながら、あくびをかみ殺すように声を振るわせる。僕は首を横に振る。
「たまたまだよ。考えごとをしていただけ」
「釣れねぇなぁ」
透は右手にまかれているテーピングの位置を張り直しながら、口元に薄い笑みを浮かべた。
透たちバスケ部は大きな夏の大会を一ヶ月あまり先に控えている。練習も激しさを増しているのか、透の手は痛々しいほど皮が剥けていて、テーピングが捲かれない日はない。テーピングって部活動生の特権でなんだか憧れてしまう。
「期待させてごめんね。透は今から帰るつもりかい」
「そのつもり」
「ちょうどよかったよ。一緒に帰ろう」
学校指定の鞄から透明なクリアファイを取り出す。そこには今日配られた『修学旅行のお知らせ』がすでに入っていた。
そこに進路希望調査を加えて鞄のなかへ滑らせる。鞄は高校一年から毎日使い込んでいたおかげで、今では形もくずれ、なんだかしょげているようだ。
「お待たせ、帰ろう」
立ち上がった僕とは反対に、透は深く腰かけて黙っている。そうかと思うと、僕の方にまっすぐ手をのばしてきた。テーピングの白さが、透の手の無骨さを際立てている。
「疲れて立てない。引っ張って」透の甘えた声。
「もう。バスケ部のエースがよく言うよ」
口では文句をつぶやきながらも、僕はその手をつかんで立たせてあげた。
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